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二村ヒトシさんのAVの撮影現場に行ってきた

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フィリップ・トルシエ監督の「工場の機械のような日本のセックス」というインタビューをウェブで読んで、ついつい今月号の「オール讀物」を買ってしまった。

 

 

スクリーンショット 2013-10-08 21.40.19

って表紙!!

桜井紫乃さんの新作小説も佐藤優のコラムもとってもよかったのに、なぜこのイラスト…。

じじいの目つきが卑猥にしか見えません。

狙ってか知らずかこのハズシ感、さすが老舗文芸誌…やり手だわ!!

 

 

それはさておき、

先週末、AV監督の二村ヒトシさんに誘われて、AV撮影現場を見学しにいった。

 

二村さんといえば、女性が攻めて、男性が受け身の、男女逆転モノのAVレーベル「マザーズ」。

私がお邪魔した現場は、

「射精伝導師」の朝宮先生(女性です)が、男優さんの性器にいっさい触れずに、オーガズムまで導く、というもの。

 

響きからもなんとなく実験的な匂いを感じるし、以前この記事で触れた、その後上手く行ってないアナル開発に関しても、何かヒントが得られるかなと思い参加してみたのだ。

 

マザーズのスタジオである、デザイナーズマンションの一室のフロアの中央に、まるで儀式の台座のように、青いシーツのベッドが陣取っている。

この日は私以外にも、8人の素人女性たちが観覧しにきていた。

仮面をつけて、ベッドの後ろに並べられた観覧席に、控えめに座る。これから何が起こるのかわからない。

 

男優さんが目隠しをつけてベッドに横たわり、撮影が始まった。

 

のっけから、朝宮先生が男優さんの耳元でなにかを囁き始める。

何を言っているのかは分からないけど、男優さんの緊張がずるずるとほどけて、どんどん身体の力が抜けてゆくのが分かる。

最初なのに、二人の間に壁が感じられない。

聞けば、撮影の前に、二人でお風呂に入って、先生がタオルで身体を拭いてあげたりとかしてたらしい。

朝宮先生は代々木忠さんの門下生らしいけど、代々木さんみたいに、催眠を使ったりはしていない。

 

そのまま、どんどん、耳や首筋、腰、背中のあたりをゆっくり触ってゆく。

浅瀬の波みたいな、やわらかい、ゆったりとしたタッチ。

 

どんどん男優さんが自我を捨ててゆくのが分かる。

そこから先は客観も主観もない世界。

愛撫が進むうちに、壇上の二人がどんどん性別を無くして、一体化してゆく。どちらが攻める立場だとか、関係ない。

 

空気はどろどろと重たく、濃密なローションの海のようで、二人の周りを満たす空間はまるで二人の身体をつなぐためだけに存在し、

傍観している観客たちは完全にアウェイ、むしろこの濃厚な海の中に一体化したい、朝宮先生と男優さんが生み出す磁場に混ぜてほしい、

ちょうど神輿を担いでる人たちを追いかけて行って自分も祭りに参加したくなるあの感じ、クラブで踊ってる人たちの輪に混ざりたいあの感じ、

いやらしいことが行われているはずなのに、いやらしさはまるでなく、いやいやらしくはあるのだけど、服も社会的な肩書きもなにもかもを取り払って人が人に作用する、その暴力性と神聖さ、仕草と行為と男優さんに語りかけるその声から溢れ出ているのは間違いなくやさしさであって、けれど、愛撫と言葉なぶりでもって問答無用で自分の世界にさらってゆく、その気迫と激しさを見ていると、朝宮さんから男優さんに向かうものを、愛だとかってそんな簡単な名前ではとても言い表せない。

母性というのはやさしさと愛にクレープ状につつまれた実は凶暴さなのではないか、と思ってしまうような、あらあらしい導き、人が人を支配するまるごしのエゴイスティックさ、ぜんぶあいまって押し寄せて撮影会場はもうまるでおおしけの海のようで、青くけばけばしい布がかぶせられた小さなベッドはまるで神殿のように神々しい。

もはや男優さんと観客である私の間に壁はなく、あーあーあーそれされたらきっついわぁ、あーそれあかんやろなうんうん、というかんじで完全に感情移入。この男優さんになりたい、最終的にはイカされたい、自分が女としていじられたいというわけではなく今ここで朝宮さんに甘えきってる男優さんに成り代わって人に託して託されて、存在自体を許してもらいたいみたいな、そこにはもう、男とか女とか、性差はなくて、えろいことを越えたところ、ちょっと成層圏つきやぶっちゃったあたりで、ベッドの上の彼と私の感覚がつながっちゃった感じで、観客の女性たちも、最初は若干引き気味ではあったけれど、最後は身を乗り出し、ベッドの上の儀式、を見つめ、まるで上質な舞台を見ている時のような、この前世田谷パブリックシアターでサイモンマクバーニーの「春琴」を見たけど、その時と同じ、舞台と観客が一体化して、舞台の上の俳優さんに身体も心も吸い込まれるような、そんな感じで、観客も男優さんも朝宮さんも、ひとつの小さなやわらかい繭の中にいて、感覚を共有しているようだった。

朝宮さんという、手の、声の、舌、の。

 

最後、男優さんが射精してクライマックス(挿入などはいっさいしない)を迎えた瞬間、みんな、拍手喝采。

「おめでとう!」「おめでとう!」って、まるでエヴァの最終回みたい。

バックに地球が見えた。

 

もうすんごい、朝宮さんに後光がさしていて、

男優さんの顔にもつるっと膜がはり、湯気が出そうなぐらいにてらてらと輝き、

 

これ、何かに似てると思ったら…

「動物の出産シーン」だわ!

 

お母さんと子供の、渾然一体となった命のエネルギーの神々しさ。

 

ディスカバリーチャンネルで放映されてもおかしくない感じ。

 

「太陽のしっぽ」っていうプレステのゲーム思い出した。

 

また、撮影中、男優さんはまったく性器に触られていないのにがんがんに感じまくっていて、びんびんに勃起してはいるものの、100%受け身の男のそれは性器というよりただの排出器官にすぎず、ただ最後に精子を押し出すだけのところてん突きの管みたいなもん。

性行為についてこれまで主役張ってきたはずのペニスが、よもや、おまけ、っつうかなんつうか、もはや男が感じるのにももうペニスいらないじゃん、的なムードで、とにかく、ここまでペニスが頼りなく見えたのは人生の中で初めてだった。

石原慎太郎が自著の中で「初めてお父様のシンボルを見たときの感想を母と娘で話し合いましょう」みたいなことを書いているらしいのだが、石原慎太郎もよもやペニスの感想に「ところてんの棒」とか「頼りないパスタ」とかは予期してないであろう。

 

監督も「おれ、撮影前に、朝宮さんに同じプレイをしてもらったけど、女性に対して、性行為のときに、構えたりモテようとしなかったのって、人生で初めてかもしれない」と言っていた。男はとにかく、風俗でお金払ってしてもらってる時ですら、モテようとしてるからね、って言ってた。

 

で、最初から最後まで、男優さんが朝宮先生にされてるのを見ていて思ったのは、

「あぁなんだ、人にされたいことって、男も女も関係ないんじゃん」ということ。

朝宮先生が男優さんにしていたことって、実は女子が男子にされたいことと一緒だし、

じゃあ、自分がされたいことを男性にしてあげたらいいんじゃん、で男性は逆に、このビデオ見て(他の男→女もののビデオではなく)女性がされたいことを学べば良いのである。

別に、代々木さんのビデオ見てても「これされたい!」とは思わなかったけど、朝宮さんのは、女性をベースに作られてるぶん、

女性がされたいこと、分かるような気がするな。

上手い男優さんをまねして上手くなるかって言ったらそうじゃないしね。

俺セックス上手いって言ってる男の人ってだいたいの場合、ずれてるもん。

あと、アナル開発が上手く行かなかった理由も分かった。

男のオーガズムってなんとなく一極集中的なイメージで、そこだけ責めてればいいような気がしてたけど、それって全然違うわ。

局所的な快楽だけを追求するってそれこそペニス的な発想だし、女の私が男の発想、してどうすんのー?って感じ。

局部の前にまず全身。受け身の快楽については、男性も女性も変わらないってこと。

それを忘れてたら、ただのヤリチンになっちゃうもんね女も。

次やる時はそこんとこ考えてしてみようと思ったよ。

 

まとまりのない感想ですが、とにかく、見に行ってよかった。

 

あと監督が飲みの場でのやんちゃな感じではなく、きりっと現場を仕切っていたのがとてもかっこよかったです。

 

監督ありがとうございました。

 

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『結婚できない』という幸せ

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2013-08-03 22.36.57

 

編集者・ライターのターザン山本さんが、ブログで私について書いてくれた。

 

「あのね、君は女としての幸せは捨てる。放棄する。

いらない。あきらめる。捨ててもいいよ。

それに代わるもっとでかいものを手にすればいいんだから。

だって女の幸せなんて男の都合によって作られた概念なんだから。
そんなものはどうでもいいよ。自分のことの方が100倍大事だ。

ただし自分が女であることはとことん徹底的に利用しろ。」

『薄目美女』煩悩菩薩日記(ターザン山本)

 

結婚して幸せになれないのは不幸だと思っていた。

でもそれは違うような気がする。

結婚して幸せになれないのは逆に強いのだと思う。

規格外の強さなんだ。

 

でもそれは時に同じ女からも嫉まれるし、男の側だって困るから、

結婚できない女がみじめな気持ちになるよう、社会が仕向けているだけなのだ。

 

結婚できない人は、「結婚で幸せになれない」という幸せを手にしている。

社会の大半の人は認めないと思うけど。

 

女としての幸せよりも、もっと大きいものを掴めると思えば、そんなの大したことじゃない。

女であることは認めつつ、女の幸せ以外のものを掴んで行こう。

 

でも、それだけじゃフツーの事しか言っていなくてつまらないので、世の中には

「女としての幸せを放棄した女」が好きで好きでたまらない男、

神格化したい男がゴマンといることも、

同時に記しておく。

 

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「さみしい」ってなんですか?ー2012年の冬に渋谷で逆ナンした話

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2012年は、自分の中にあるさみしさを見つめた年だった。

 

さみしさを一番に感じたのは、國學院大學での「ナンパの手帖」講義の前に、渋谷でナンパをした時だ。

続きを読む 「さみしい」ってなんですか?ー2012年の冬に渋谷で逆ナンした話

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分かってくれるから、好き?

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昨日は高石くんによる「ラポールと身体知—凄腕ナンパ師による、瞬時に心に入り込むコミュニケーション講座 第5回」だった。
催眠術をかける時に使うテクニックに「ミラーリング」と「ペーシング」がある。
ミラーリングというのは、相手の姿勢に宿るそのときの相手のあり方ー気分だったり、思考だったりー
を自分に移し替える事であり、ペーシングはミラーリングによって同期した相手に自分の感覚を移し替える事である。
ミラーリングとペーシングを使えば、かなり深い程度で相手の考えていることを理解し、
かつ「この人は私のことを理解してくれる」と思わせることが可能である。
そう思わせることができれば、恋愛したい相手に好きになってもらうことができると、私は思っている。
「この人は私を分かってくれる」そう感じた相手を好きにならない人間がどこにいるだろうか。
もちろん分かってくれるだけではだめで、それプラス容姿とか、セクシャルな要素が皆無だと恋人には
なれないかもしれないが、
少なくとも「相手の自分への理解度」が恋愛の重要なファクターであることは間違いない。
ミラーリングとペーシングは、それを可能にする。技術によって自分を相手の理解者に「変える」ことができる。
そうすれば、他人は簡単に自分のことを好きになってくれるだろう。
しかし。
「理解してくれる」を拠点にした好意になんの意味があるだろうか。
分かってくれるから好き。
分かってくれるという安易な依存に取りいっても、どうしようもない気がする。
分かってくれなくても、合い入れなくても好き。そんな好意だって、世の中にはいっぱいある。
他人の「理解してほしい」という気持ちに取り入るなんて、それこそ卑怯者のすることのような気がする。
自分も「この人は私を分かってくれる」と思わせることで相手に自分を好きにさせるということを2,3回したことがあるが、
結局、それで相手に依存されたら途端にうっとおしくなったり、理解できる人でいられなくなった途端相手が離れて行ったりして、意味がないなと気づいてやめた。
理解者になることで相手に好意を抱いてもらうなんて、みじめだ。
「わかる」と言う事ですりよる事はできるが、そんなの、「わかる、わかるぅ」と相槌を打って、寂しいひと、こころの弱い人に取り入ろうとする宗教のセミナーと同じだ。
(行ったこと無いから想像でしかないけど。)
惨めな詐欺師は心がすさむ。それで好かれても、なんだか悲しい。
分かってくれる、と思わせることは技術によっていくらでもできるが、他者を理解する、という行為を、そんな安いものにしてはならない気がする。

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なにかに振り回される、ということ。

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最近、苦しみというのはたいてい「何かに振り回されている状態」から生まれるのだ、ということを感じる。
恋愛ももちろんそうだし、お金とか仕事とか、現実の行為に振り回されることも多いだろうけど、
生い立ち、アイデンティティといった自分自身に振り回されている人はとても多い。
何かに振り回されているとき、
「おまえはそれに振り回されている」と言っても、
絶対にその人は認めない。
むしろ、
「いや、自分は振り回されていない。」
と意固地になってしまう。
これは自分で選んでいるんだ、とか
振り回されるのが好きだからだ、とか
自分の中でいいわけして、「振り回されていない、自分は自分だ」と言う思いを強める。
「自分は自分だ」と言っている人は、たいてい自分じゃない。
結果、振り回されている事に苦しんで
最終的には振り回している対象に、「人を振り回すな」と怒ってしまう。
けれど、振り回されているのは自分なのだ。
執着したり、振り回されることは、恐れや怯えから生まれる。
それを失うこと、奪われること、それがなくなることで自分が変わってしまうこと。
それを恐れているから、執着する。
恐れや怯えから始めた行動は、大抵、ぜったい、うまくいかない。
そのことに気づかないから、振り回されるし、執着する。
振り回されていることに、どうしても苦しさを感じてしまうときは、
「自分が振り回されている」事をいっそ、みとめてしまったほうがいい。
自分の軸がなく、相手に振り子のように振り回されている自分を想像してみる。
そうすると初めて、「あ、自分は振り回されてたんだ」と言う事に腹落ちする。
いっそ、すがすがしいほどに、自己の中心に何もなく、ただ翻弄されるだけだった自分に気づくことができる。
振り回されている自分に気づいて、そこで初めて、振り回されない自分に戻ってゆく。
振り回されていた対象を「どーでもいい」と思えることによって、初めてその対象に慈しみの情が湧いてくる、ということがある。
振り回されるのを辞めて初めて、振り回された相手を尊重することができる。
恐れや怯えを捨てたところに、より強い自分、が育つことがある。
だから、何かに振り回される事の最終到達点は、その対象を「どーでもいい」と思えることだと思う。
それを目標に、振り回されてみるのも面白い。
ただ、振り回されることが悪いことかというと、そうでもないんじゃないかな、と思う。
人は群れで生きている以上、誰かからの影響を受けずに生きることなんてできない。
たとえば、自分の最愛の家族が病気になったとして、
本当にその人を愛していたら、家族のせいで、自分は振り回された、とは思わないだろう。愛する子供の面倒を見る母親は、子どもに振り回されている、とは思わないだろう。
振り回されることで、なにかに気づくことがある。
余剰が生まれる。
自己の軸がずれることで発生する豊かさは存在する。
けっきょく、「生」というものに執着している時点で私たちは最初から振り回されている存在なのだ。
だから、振り回される事を、悪いと思わないことで、「振り回されないこと」への執着も消す事ができる。
なんとなく、それは他人への愛にも似ている気がする。
最終的に、「生」そのものをどーでもいいと思うことだけど、そこまでいくのはもうちょっと、時間がかかりそうだな。

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誰かを変えようとする、という事

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ちいさいころ、母と祖母が運動会などの行事に来るのが嫌で仕方なかった。

 

他の子のスペースには、父親と母親、カラフルなお弁当と、

この日のテンションに合った赤や青など原色のはじけるTシャツ、

それらとのコーディネートは全く考慮されなかったであろう、

同じく極彩色で彩られたキャラクター物のレジャーシートが決まって揃っていた。

 

幼いわたしはそれに激しく嫉妬していたし、その嫉妬がどこから来るのかも分からないまま、

他の子のスペースでごはんを食べたりして、母と祖母を悲しませた。

 

小学校高学年になる頃に、こうした自分の態度の意味と、その態度が母と祖母に与えた影響をようやく理解し、今度は自分を恥じた。

 

たぶん、その感情と、「だれかにこうなってほしい」「こう変化してほしい」と思う気持ちは一緒なのだ。

 

祖母と母しかいないのと、

うちのお弁当が地味なのと、

母の服装が運動会にしてはシックすぎて浮いていた事、

それらの、決して変えようにも変わるはずのない事実に反抗していた、子供の私の気持ちと。

 

私があの小さい私でなかったら、

祖母の作るお弁当が美味しかったこと、

母の服装が他の子のお母さんよりずっとお洒落であったこと、

二人がわたしを応援しているまなざしに気づいただろう。

 

他人に変わることを願うということは、それと同じだ。

相手にとっての幸せが何かも分からず、他人を変えようとなんて、しちゃいけないのだ。

その人の、あるがままの尊さに比べたら、

誰かを変えて、幸せにしたい、というかたくなさは、光の前の、ひとひらの雪に過ぎない。

あるがままでいいのだ。

そのひとの、そのひとらしさのぜんぶ、そのひとがもつもの全部、あるがままでいいのだ。

その人の、あるがままが、一番、尊いんだ。

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キャバクラのスカウトと、ラポールを築くこと

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フランス文学ゼミの同期に、現在キャバクラのスカウトマンをしている友人がいる。
もともとはカウンセリングの勉強をしていて、六本木の高級カウンセリングルームで働いていたが、昨年、一転してスカウトマンになった。
彼は一日に街頭で100人もの女性に声をかける傍ら、
ナンパにいそしみ、Twitter上でナンパの実況中継をしていたりもする。
(彼の、ナンパした相手に対するつぶやきはかなり毒が強い。私は好きだが。)
今は、催眠術の勉強をしているそうだ。
彼の風貌は、通常私たちが抱くキャバクラのスカウトマンというイメージからはおよそかけ離れている。
「すれた」感じが全くない。
育ちのよさと学歴の高さが周囲の空気に漂い、インテリジェンスが漏れ伝わる人間だ。
実際、彼のスカウトには哲学がある。
「田舎から出てきたばかりの女の子をだますような真似は、自分は絶対にしない。
“働いてみたいけど、スカウトされて、なんてイヤだな”と思っている人に対して、このスカウトマンにだったら、お店を紹介してもらってもいいかもと思ってもらうことを目標にしている。」
彼は、これまで学んだ心理学のあらゆる技術を駆使してスカウトとナンパをする。
カウンセリングとナンパとスカウト。
その全てに共通する、最大の技術は
「相手とラポール(信頼関係のある対話)を築くこと」
だそうだ。
「ただ考える事は、“相手が何を求めているのか”、“今どうしたいのか”、それだけだ。
声のトーン、早さ、表情からそれを読み、それをしてあげること。
一瞬で見知らぬ相手とラポールを築くこと。
その精度を上げる事、それだけを考えて日々行動している。」
そのために、彼はスカウトの前に瞑想をする。
人と話したり、音楽を聞いたりして、相手と対峙するのに最高のコンディションにまで自分を高める。
服装に気を使う。非常に高価な、変わったデザインのブルゾンを着て、高貴な雰囲気を身にまとう。不思議な形の指輪をはめ、会話をしながら相手の目の前でちらつかせることで、注意力を散漫させる。
相手の心を読む力を鍛えるため、カフェで、となりの席のカップルの会話に耳を傾け、心の中で相手の声のトーンを追う。カップルの男のほうが、どうしたら女により好かれるか、微に入り細に入り分析する。
その修業を、彼は日々、続けている。
相手の中にとにかく深く分け入り、潜ってゆく。相手の心を知るために。
コミュニケーションを考えるとき、
私たちは
「伝える」
ことばかりに夢中になる。
けれど、本当は
「伝わる」
こと—
“伝達される相手”としてのじぶんの感度を高め、
相手の感性を引き受ける受信体に“なる”こと—
のほうが本質なのかもしれない。

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