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二村ヒトシさんのAVの撮影現場に行ってきた

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フィリップ・トルシエ監督の「工場の機械のような日本のセックス」というインタビューをウェブで読んで、ついつい今月号の「オール讀物」を買ってしまった。

 

 

スクリーンショット 2013-10-08 21.40.19

って表紙!!

桜井紫乃さんの新作小説も佐藤優のコラムもとってもよかったのに、なぜこのイラスト…。

じじいの目つきが卑猥にしか見えません。

狙ってか知らずかこのハズシ感、さすが老舗文芸誌…やり手だわ!!

 

 

それはさておき、

先週末、AV監督の二村ヒトシさんに誘われて、AV撮影現場を見学しにいった。

 

二村さんといえば、女性が攻めて、男性が受け身の、男女逆転モノのAVレーベル「マザーズ」。

私がお邪魔した現場は、

「射精伝導師」の朝宮先生(女性です)が、男優さんの性器にいっさい触れずに、オーガズムまで導く、というもの。

 

響きからもなんとなく実験的な匂いを感じるし、以前この記事で触れた、その後上手く行ってないアナル開発に関しても、何かヒントが得られるかなと思い参加してみたのだ。

 

マザーズのスタジオである、デザイナーズマンションの一室のフロアの中央に、まるで儀式の台座のように、青いシーツのベッドが陣取っている。

この日は私以外にも、8人の素人女性たちが観覧しにきていた。

仮面をつけて、ベッドの後ろに並べられた観覧席に、控えめに座る。これから何が起こるのかわからない。

 

男優さんが目隠しをつけてベッドに横たわり、撮影が始まった。

 

のっけから、朝宮先生が男優さんの耳元でなにかを囁き始める。

何を言っているのかは分からないけど、男優さんの緊張がずるずるとほどけて、どんどん身体の力が抜けてゆくのが分かる。

最初なのに、二人の間に壁が感じられない。

聞けば、撮影の前に、二人でお風呂に入って、先生がタオルで身体を拭いてあげたりとかしてたらしい。

朝宮先生は代々木忠さんの門下生らしいけど、代々木さんみたいに、催眠を使ったりはしていない。

 

そのまま、どんどん、耳や首筋、腰、背中のあたりをゆっくり触ってゆく。

浅瀬の波みたいな、やわらかい、ゆったりとしたタッチ。

 

どんどん男優さんが自我を捨ててゆくのが分かる。

そこから先は客観も主観もない世界。

愛撫が進むうちに、壇上の二人がどんどん性別を無くして、一体化してゆく。どちらが攻める立場だとか、関係ない。

 

空気はどろどろと重たく、濃密なローションの海のようで、二人の周りを満たす空間はまるで二人の身体をつなぐためだけに存在し、

傍観している観客たちは完全にアウェイ、むしろこの濃厚な海の中に一体化したい、朝宮先生と男優さんが生み出す磁場に混ぜてほしい、

ちょうど神輿を担いでる人たちを追いかけて行って自分も祭りに参加したくなるあの感じ、クラブで踊ってる人たちの輪に混ざりたいあの感じ、

いやらしいことが行われているはずなのに、いやらしさはまるでなく、いやいやらしくはあるのだけど、服も社会的な肩書きもなにもかもを取り払って人が人に作用する、その暴力性と神聖さ、仕草と行為と男優さんに語りかけるその声から溢れ出ているのは間違いなくやさしさであって、けれど、愛撫と言葉なぶりでもって問答無用で自分の世界にさらってゆく、その気迫と激しさを見ていると、朝宮さんから男優さんに向かうものを、愛だとかってそんな簡単な名前ではとても言い表せない。

母性というのはやさしさと愛にクレープ状につつまれた実は凶暴さなのではないか、と思ってしまうような、あらあらしい導き、人が人を支配するまるごしのエゴイスティックさ、ぜんぶあいまって押し寄せて撮影会場はもうまるでおおしけの海のようで、青くけばけばしい布がかぶせられた小さなベッドはまるで神殿のように神々しい。

もはや男優さんと観客である私の間に壁はなく、あーあーあーそれされたらきっついわぁ、あーそれあかんやろなうんうん、というかんじで完全に感情移入。この男優さんになりたい、最終的にはイカされたい、自分が女としていじられたいというわけではなく今ここで朝宮さんに甘えきってる男優さんに成り代わって人に託して託されて、存在自体を許してもらいたいみたいな、そこにはもう、男とか女とか、性差はなくて、えろいことを越えたところ、ちょっと成層圏つきやぶっちゃったあたりで、ベッドの上の彼と私の感覚がつながっちゃった感じで、観客の女性たちも、最初は若干引き気味ではあったけれど、最後は身を乗り出し、ベッドの上の儀式、を見つめ、まるで上質な舞台を見ている時のような、この前世田谷パブリックシアターでサイモンマクバーニーの「春琴」を見たけど、その時と同じ、舞台と観客が一体化して、舞台の上の俳優さんに身体も心も吸い込まれるような、そんな感じで、観客も男優さんも朝宮さんも、ひとつの小さなやわらかい繭の中にいて、感覚を共有しているようだった。

朝宮さんという、手の、声の、舌、の。

 

最後、男優さんが射精してクライマックス(挿入などはいっさいしない)を迎えた瞬間、みんな、拍手喝采。

「おめでとう!」「おめでとう!」って、まるでエヴァの最終回みたい。

バックに地球が見えた。

 

もうすんごい、朝宮さんに後光がさしていて、

男優さんの顔にもつるっと膜がはり、湯気が出そうなぐらいにてらてらと輝き、

 

これ、何かに似てると思ったら…

「動物の出産シーン」だわ!

 

お母さんと子供の、渾然一体となった命のエネルギーの神々しさ。

 

ディスカバリーチャンネルで放映されてもおかしくない感じ。

 

「太陽のしっぽ」っていうプレステのゲーム思い出した。

 

また、撮影中、男優さんはまったく性器に触られていないのにがんがんに感じまくっていて、びんびんに勃起してはいるものの、100%受け身の男のそれは性器というよりただの排出器官にすぎず、ただ最後に精子を押し出すだけのところてん突きの管みたいなもん。

性行為についてこれまで主役張ってきたはずのペニスが、よもや、おまけ、っつうかなんつうか、もはや男が感じるのにももうペニスいらないじゃん、的なムードで、とにかく、ここまでペニスが頼りなく見えたのは人生の中で初めてだった。

石原慎太郎が自著の中で「初めてお父様のシンボルを見たときの感想を母と娘で話し合いましょう」みたいなことを書いているらしいのだが、石原慎太郎もよもやペニスの感想に「ところてんの棒」とか「頼りないパスタ」とかは予期してないであろう。

 

監督も「おれ、撮影前に、朝宮さんに同じプレイをしてもらったけど、女性に対して、性行為のときに、構えたりモテようとしなかったのって、人生で初めてかもしれない」と言っていた。男はとにかく、風俗でお金払ってしてもらってる時ですら、モテようとしてるからね、って言ってた。

 

で、最初から最後まで、男優さんが朝宮先生にされてるのを見ていて思ったのは、

「あぁなんだ、人にされたいことって、男も女も関係ないんじゃん」ということ。

朝宮先生が男優さんにしていたことって、実は女子が男子にされたいことと一緒だし、

じゃあ、自分がされたいことを男性にしてあげたらいいんじゃん、で男性は逆に、このビデオ見て(他の男→女もののビデオではなく)女性がされたいことを学べば良いのである。

別に、代々木さんのビデオ見てても「これされたい!」とは思わなかったけど、朝宮さんのは、女性をベースに作られてるぶん、

女性がされたいこと、分かるような気がするな。

上手い男優さんをまねして上手くなるかって言ったらそうじゃないしね。

俺セックス上手いって言ってる男の人ってだいたいの場合、ずれてるもん。

あと、アナル開発が上手く行かなかった理由も分かった。

男のオーガズムってなんとなく一極集中的なイメージで、そこだけ責めてればいいような気がしてたけど、それって全然違うわ。

局所的な快楽だけを追求するってそれこそペニス的な発想だし、女の私が男の発想、してどうすんのー?って感じ。

局部の前にまず全身。受け身の快楽については、男性も女性も変わらないってこと。

それを忘れてたら、ただのヤリチンになっちゃうもんね女も。

次やる時はそこんとこ考えてしてみようと思ったよ。

 

まとまりのない感想ですが、とにかく、見に行ってよかった。

 

あと監督が飲みの場でのやんちゃな感じではなく、きりっと現場を仕切っていたのがとてもかっこよかったです。

 

監督ありがとうございました。

 

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facebookと嫉妬とカースト

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写真 (1)

最近引き続き、女子大生間におけるカーストや専業主婦のカーストについて調べている。

インタビューしてみて分かったのだが、彼女たちが互いを格付けする時、どうやらfacebookが多大な影響を与えているらしい。

あるママ曰く、

「自分より収入の多い旦那さんと結婚したママ友が、豪華なホテルに泊まってたり、豪華なレストランでディナーをしてたりすると、凹む」
「独身の友達が豪華な旅行に行って居たり、高級ブランドで買い物してたりすると、嫉妬しつつ『いいね!』を押してしまう」そうだ。

 

なんか、悲しいなあ、と思う。

 

もちろん私だって、
オーストラリアに移住した女友達が現地で出会った中国系大富豪と結婚し、ヨットハーバー付き豪邸を購入してるのを見たりすると、さすがに羨ましいなと思ってしまう時も、ある。

 

でも、facebookには、他人に嫉妬するよりも、もっと楽しい使い方がある。

 

大学一年生の時の私は、本当に冴えなかった。
仮面浪人に失敗し、自暴自棄になっていた私は、知人の紹介のまま、とあるマイナースポーツのサークルに入会した。

そこは慶應の学生とは思えないほど冴えない男女が集う場だった。
大学入学前に思い描いていた「イケてる男の先輩」はどこにもおらず、
高校の時は確実にクラスの2.3軍、下手すると誰とも喋らずに便所飯を食べていそうな、そんな人たちが集まっていた。

きっと童貞率80%、処女率90%ぐらいだったと思う。

 

今から思えばそんな所に入らなければ良かったのだが、仮面浪人に失敗して自己評価がどん底にまで落ちていた私は
(自分ぐらい冴えない人間には、これぐらいの場所がお似合いだ…)と思い込み、そのスポーツのルールすらもろくに知らないまま入会した。

 

そのサークルの、同学年の女の子たちの中に、ボスザル的なポジションの女の子が二人いた。

見るからに処女で、髪型も容姿も垢抜けず、

底意地の悪さと、しょんべんくさい性格が、顔全体に現れているような女の子たちだった。

なぜか、私はその二人から嫌われていて、ことあるごとにイヤミを言われたり、つらくあたられたり、無視されたりしていたが、私も当時は処女で同じぐらい垢抜けなかったので、カースト上位の彼女たちに言い返す術もなく、なんでだろう…と思いつつも黙っていた。

しかし、ある日、その理由を彼女たちが話しているのをこっそり聞いてしまった。

「だってね、◯◯ちゃん(私)、初めてサークルの練習に来た時、電車の中で××先輩の隣に座ったんだよ?信じられる?」

 

この子たち、頭がおかしいのかな?と思った。
今時幼稚園児でも言わないようなセリフを、よりによって、最高学府の学生が口にするなんて。

更に、私がその××先輩と入会後に速攻で付き合い始めたこと(その冴えない集団の中では、一番マシに見えた)も、どうやら彼女たちが私を気に入らない原因の一つらしかった。

 

くっだらねー。

 

私はすっかりそのサークルへの意欲も、彼女たちと仲良くなる気も無くし、留学を決意してから速攻でそのサークルを辞めた。

 

それから7年経った今、当時のサークルの人たちが、少しずつFacebookで友達申請を送ってくるようになった。

彼女たちも、当時と同じ厚かましさで友達申請を送ってきた。

 

お前らの友達だった覚えはないよと思いながら、

私は彼女たちのタイムラインをチェックする。

 

彼女たちは、あの頃と変わらない冴えなさでそこに居た。

相変わらず冴えない服装に冴えない見た目、性格の悪さが全面に溢れ出た容姿。

彼女たちは、その抜群の冴えなさで、
相変わらず冴えないサークルの先輩たちとつるんで、冴えない居酒屋で冴えない飲み方をしているようだった。きっとあの頃と同じ、仲間内の噂話しかしていないのだろう。
そして、抜群に冴えないドレスを着て同じサークル仲間の結婚式の写真に写りまくり、抜群に冴えない余興をし、抜群に冴えない店でデートしているようだった。

 

私がさっさと抜け出した、その冴えない人たちによる冴えない世界が彼女たちの全てなのだった。

 

他の世界を彼女たちは知らない。

彼女たちはこれから、同じように冴えない相手と結婚して、冴えない安定した生活を送るのだろう。

性的魅力も乏しそうなので、旦那にちょいちょい浮気されながら、冴えない自分にそっくりの子どもを再生産して、幸福でも不幸でもない冴えない人生を送るに違いない。

 

そう思うと、ふつふつと身体の底から嬉しさが湧いてくる。

私を苛めていた人たちが、自分よりも下の世界にいることを、改めて確認できたことに。

 

私は夢想する。

いつか、豪華客船で世界周遊している写真を、いつか、誰もが知る著名人と飲んでいる写真を、いつか、ドバイの水中ホテルでくつろいでいる風景を、facebookに投稿して、冴えない専業主婦になった彼女たちに「いいね!」を押させてやることを。

 

冴えない彼女たちが、冴えない男の先輩たちを見下しつつもそのぬるま湯にどっぷり浸かっている彼女たちが、
一生かかってもできないような、体験をしてやる。

そして、その頃の自分はきっと、それを自慢とも思っていないだろう。だってそれが自分の日常なんだから。

 

彼女たちの冴えない写真が、タイムラインに流れてきた瞬間が、facebookをやってる時間の中で一番、楽しい。

 

今の自分の身分なんて、関係ない。

見返してやりたい人間の日常に、いいね!なんて押してる場合じゃない。

 

つまらないのに惰性でfacebookを開いて、「この人誰だっけ…」と思いながら一度パーティーで会っただけの人の投稿に「いいね!」を押してあげたり、

寝不足になりながら集合写真の上司の顔にタグ付けしてやったり、

友達の結婚式の写真に嫉妬しつつ「おめでとう^ ^」と書きこむくらいなら、

facebookなんて、これくらいの付き合い方をしておけばいいのだ。

 

どうせ、自分が嫉妬している世界と、相手にとっての現実なんて全然違うし、

自分の現実と戦うほうが、ずっと面白いんだから。

 

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『結婚できない』という幸せ

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2013-08-03 22.36.57

 

編集者・ライターのターザン山本さんが、ブログで私について書いてくれた。

 

「あのね、君は女としての幸せは捨てる。放棄する。

いらない。あきらめる。捨ててもいいよ。

それに代わるもっとでかいものを手にすればいいんだから。

だって女の幸せなんて男の都合によって作られた概念なんだから。
そんなものはどうでもいいよ。自分のことの方が100倍大事だ。

ただし自分が女であることはとことん徹底的に利用しろ。」

『薄目美女』煩悩菩薩日記(ターザン山本)

 

結婚して幸せになれないのは不幸だと思っていた。

でもそれは違うような気がする。

結婚して幸せになれないのは逆に強いのだと思う。

規格外の強さなんだ。

 

でもそれは時に同じ女からも嫉まれるし、男の側だって困るから、

結婚できない女がみじめな気持ちになるよう、社会が仕向けているだけなのだ。

 

結婚できない人は、「結婚で幸せになれない」という幸せを手にしている。

社会の大半の人は認めないと思うけど。

 

女としての幸せよりも、もっと大きいものを掴めると思えば、そんなの大したことじゃない。

女であることは認めつつ、女の幸せ以外のものを掴んで行こう。

 

でも、それだけじゃフツーの事しか言っていなくてつまらないので、世の中には

「女としての幸せを放棄した女」が好きで好きでたまらない男、

神格化したい男がゴマンといることも、

同時に記しておく。

 

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日常のルーティーンを壊す

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259573538243
もうナンパには興味がないが、asapenという人のナンパブログは定期的に読んでいる。

 

六本木でナンパしながら起業する

 

この人のブログは痛々しい。痛々しさが心臓に突き刺さってきて思わず読んでしまう。
読みながら、彼同様、自分自身が今ある何かをぶち壊さなければいけないということを意識させてくれる、貴重なブログだ。

このブログには、ナンパで成果が思うように上がらないという彼の悩みが、延々と書かれている。

彼はブログで「ルーティーン」という言葉を多用する。フレグランスルーティーン、手相のルーティーン、なんとかルーティーン。
彼の中で一定のノウハウがあって、それを女の子に使用することで、同じパターンの中で女の子と即る(=すぐセックスする)事を目指しているようだ。

ルーティーンを捨てないから、成果が上がらないんじゃないの、とも思うけど、彼自身が、限られたルーティーンのみを使ってナンパできるようになりたいという制約を自分に課しているのかもしれないし、それはわからない。

 

ルーティーン。ルーティーン。ルーティーン。

 

私のブログを読んで、家族の悩みや恋愛の悩み、仕事関係の悩みをメールしてくださる方がいる。

例えば、
童貞が脱出できない。
上司とうまくいかない。
恋愛がうまくいかない。

等。

昨日は久しぶりに、悩みを寄せてくださった方にお会いした。40代の男性だった。
私はカウンセラーではないので、インタビューのつもりで色々聞いていく。目の前に透明な箱があって、その箱の形や大きさや色はわからない。その中に手をつっこんで、その人の内側になんでもいいからぺたぺた触ってゆくと、色がついてその人の容貌が分かってゆく、そんな感じだ。

そうして聞いていると、その人がその人自身をどんなルーティーンに閉じ込めているのか、分かることがある。

ナンパにしろ、恋愛にしろ、友人関係にしろ、仕事関係にしろ、人間関係に悩んでいる人の、その悩みの根幹は、自分が或る特定のルーティーンに囚われていることに気づいていないことにある。
傍から見れば一目瞭然なのに、本人はそのルーティーンに囚われていることに気づかない。

 

コミュニケーションはルーティーンの繰り返しだ。

飽くまで人が繰り返してしまう同じコミュニケーションの円環。
それは、10年単位の、非常にゆったりとした時の流れの中で繰り返しているものかもしれないし、毎日毎時間毎秒、繰り返してしまうものかもしれない。

同じルーティーンを繰り返してしまうこと、そのことに気づかないまま、人は悩んでいる。

ルーティーンに囚われた時、人は自らを問えなくなる。

私はその円環する流れの中に棹をさして、その人自身に自らが囚われているその流れの環の形を気づかせてあげるだけだ。他人なら、だれでもできる行為だと思う。

 

どんな行為もルーティーンでできている。それを変えたいと強く望むなら、一秒でも早く自分がルーティーンに囚われていること、そしてそれをどうやったら壊せるのかを考えなければいけない。
囚われていることを自覚するのはみじめだ。ただ、自覚を可能にするのは痛さへの慣れでしかないし、壊す事自体は技術でしかない。

ナンパは自分が囚われているコミュニケーションのルーティーンから抜け出すための技術の一つかもしれない。恋愛ができない、童貞を捨てられない、すぐセックスできるようになりたい。

ナンパに限らず、日常の中に、自分が抱えるルーティーンから抜け出すチャンスはあふれている。
今までとは違う恋愛がしたい。違う仕事がしたい。違う人間になりたい。

 

今ここにあるルーティーンから抜け出して、全く新しい関係性、コミュニケーションの型、そういうものがあると思って、それを信じて人は飛び込んでゆく。飛び込もうとする。飛び込んで、新しい境地にたどり着く。
「やった!もう◯◯は怖くない」。そうして前の古いルーティーンをゴミ箱に捨てる。捨てた瞬間からまた新しいルーティーンに絡め取られてゆく。ルーティーンから抜け出せると思った瞬間、人はまた円環に落ちる。それがゴミになるまで。

 

私たちは毎ゲーム、全く同じ色、同じ大きさ、同じ重さでゲーム台に載せられ、円を描いて穴に落ち、また穴から拾い出されて台の上に載せられる、変わらない球だ。異なる軌道を描いたつもりでも、行き着く先は同じ形の穴。どこに落ちたとしても、拾い上げられて、載せられる先は一緒である。台の上と穴の中の円環を、ぐるぐるぐるぐる繰り返すだけの球。

 

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球の自覚のないナンパ師は愚かだし、無論、そうでない非ナンパ師だって愚かだ。

ただ、それが分かった上で尚、そのルーティーンを壊してゆく。
その壊したいという欲望、そして、自分の手で壊した瞬間にきらきらと破片が舞う、その一瞬の隙の希望が、人が関係するという行為の美しさなのかなと思う。

 

 

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親を愛するということ(続・親を殴るということ)

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昨日は、母が藤野先生(@ginshian)の催眠療法を受けに行った、最初の日だった。

 

当日まで、気が気じゃなかった。

母は今まで、そういった心理療法の類を毛嫌いしていたからだ。「カウンセリングを受けに行ってほしい」と、恐る恐る頼んだ時も、微妙な顔をしていた。

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「さみしい」ってなんですか?ー2012年の冬に渋谷で逆ナンした話

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2012年は、自分の中にあるさみしさを見つめた年だった。

 

さみしさを一番に感じたのは、國學院大學での「ナンパの手帖」講義の前に、渋谷でナンパをした時だ。

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親を殴るということーUst番組「メンヘラ的家族論」

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Video streaming by Ustream

みゆきなんのゆるばかトークvol.9 w/@lesyeuxx“メンヘラ的家族論”」を放送した。

元セックス依存症のカウンセラー高石宏輔と、きちがいの私が家族について話している。

参考:【USTREAM】「メンヘラ的家族論」ぶつかり合いながら変化していく関係性について

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「ゆだねる」ということー人間関係の緊張をなくす

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最近「ゆだねる」ということにはまっている。

はまる、というのはおかしな言葉だけど、人間関係というのは、とどのつまり、すべて「ゆだねる」ことでうまくいくのではないかと思いはじめた。

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昨日は、私がオーガナイズし、ダンサー・演出家である青剣が講師エを務めるワークショップ
「出会える身体ーほぐす・ゆだねる・つながる」の第1回だった。
身体を他者にゆだねること、身体の触れ合いを通じて他者とコミュニケーションを取ることを目的に様々なワークを行っていく。
マッサージやコンタクトワーク、ツンデレゲーム、他人と互いにひっぱりあいながら、バランスを取るゲーム…。
身体系のワークショップは見ていて、参加者に起きる変化を視覚で捉えられるので面白い。
ワークが進むにつれ、最初は硬かった参加者の身体がどんどん、ひらいてゆく。
夜が空け、朝日が差すにつれ、花がひらいてゆく様子が思い浮かぶ。
見ず知らずの相手に、いきなり自分の身体を預ける。
その怖さのすぐ後に、じぶんの身体を放棄する快感がやってくる。
とても気持ちがいい。
このワークショップで、一番印象に残ったのは、
3人の参加者が、お互いの存在を意識し続けながら、空間の中で自由に動き回るというワークをやった時。
講師に
「このワークを演じている間は、瞳をロックし続けて」
と指摘された。
「目の前にある、この空間から目線を一瞬でも外してしまったら、それだけで他の2人との関係性が絶たれてしまう。世界が絶たれてしまう。演じている間は、瞳をそらさないこと。」
相手から、視線を外さない、ということは、相手との関係を、持ち続ける、という意志を持つ、ということだ。
それは、自分と相手の行き先を定めることでもある。
相手とどうなりたいか、わからないとき、私たちはえてして、相手から瞳をはずし、相手の力や、場の流れの力に自分をまかせっきりにしてしまう。
自分の身を、世界に、相手にゆだねるのは大事だ。
だからといって、自分のあり方と、相手との関係性を、まるっきり放棄してしまうのも、違う気がする。
あるがまま、いま、ここにいる自分だけに戻り、相手に委ねる中で、
それでも自分が見定めた方向性だけは死守する。
そうすることで関係性が生まれてくる。
自分が行き先をどこに定めているのか、自分が相手とどうなりたいのか、それを、自分でわかっている、それに確信を持っている、ということ。
それは祈りに近いのかもしれない。
祈りを持って、身体を投げ出す時、その一瞬に燃え上がる、切実な気持ちの炎が、美しいと思う。
祈りのようなコミュニケーション、そして、それをするだけの価値のある人間に出会えること、
それが幸せだ。
同様に、「コミュニケーション」から枠を広げ、「生きる」ということに話題を移すと、
自分の瞳をどこかに定める、ということは、
そこに向かう自分のありかたを自分で定める、ということだと思う。
瞳を一点に留めれば、そこまでの距離の中に、自分の世界が立ち現れてくる。
自分の瞳で、世界を作る。
生きるとき、また、他者との関係性を決めるとき、わたしたちが選べることは、
瞳を定めるか、
そらすか、
意図的に他者あるいは世界に委ねるか、
その3つにしかないのではないか。
そんなことを思ったワークショップだった。
青剣のワークショップは今週の土曜日に大山でもやるそうなので、身体のことに興味がある人は参加してみるといいかも。

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分かってくれるから、好き?

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昨日は高石くんによる「ラポールと身体知—凄腕ナンパ師による、瞬時に心に入り込むコミュニケーション講座 第5回」だった。
催眠術をかける時に使うテクニックに「ミラーリング」と「ペーシング」がある。
ミラーリングというのは、相手の姿勢に宿るそのときの相手のあり方ー気分だったり、思考だったりー
を自分に移し替える事であり、ペーシングはミラーリングによって同期した相手に自分の感覚を移し替える事である。
ミラーリングとペーシングを使えば、かなり深い程度で相手の考えていることを理解し、
かつ「この人は私のことを理解してくれる」と思わせることが可能である。
そう思わせることができれば、恋愛したい相手に好きになってもらうことができると、私は思っている。
「この人は私を分かってくれる」そう感じた相手を好きにならない人間がどこにいるだろうか。
もちろん分かってくれるだけではだめで、それプラス容姿とか、セクシャルな要素が皆無だと恋人には
なれないかもしれないが、
少なくとも「相手の自分への理解度」が恋愛の重要なファクターであることは間違いない。
ミラーリングとペーシングは、それを可能にする。技術によって自分を相手の理解者に「変える」ことができる。
そうすれば、他人は簡単に自分のことを好きになってくれるだろう。
しかし。
「理解してくれる」を拠点にした好意になんの意味があるだろうか。
分かってくれるから好き。
分かってくれるという安易な依存に取りいっても、どうしようもない気がする。
分かってくれなくても、合い入れなくても好き。そんな好意だって、世の中にはいっぱいある。
他人の「理解してほしい」という気持ちに取り入るなんて、それこそ卑怯者のすることのような気がする。
自分も「この人は私を分かってくれる」と思わせることで相手に自分を好きにさせるということを2,3回したことがあるが、
結局、それで相手に依存されたら途端にうっとおしくなったり、理解できる人でいられなくなった途端相手が離れて行ったりして、意味がないなと気づいてやめた。
理解者になることで相手に好意を抱いてもらうなんて、みじめだ。
「わかる」と言う事ですりよる事はできるが、そんなの、「わかる、わかるぅ」と相槌を打って、寂しいひと、こころの弱い人に取り入ろうとする宗教のセミナーと同じだ。
(行ったこと無いから想像でしかないけど。)
惨めな詐欺師は心がすさむ。それで好かれても、なんだか悲しい。
分かってくれる、と思わせることは技術によっていくらでもできるが、他者を理解する、という行為を、そんな安いものにしてはならない気がする。

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なにかに振り回される、ということ。

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最近、苦しみというのはたいてい「何かに振り回されている状態」から生まれるのだ、ということを感じる。
恋愛ももちろんそうだし、お金とか仕事とか、現実の行為に振り回されることも多いだろうけど、
生い立ち、アイデンティティといった自分自身に振り回されている人はとても多い。
何かに振り回されているとき、
「おまえはそれに振り回されている」と言っても、
絶対にその人は認めない。
むしろ、
「いや、自分は振り回されていない。」
と意固地になってしまう。
これは自分で選んでいるんだ、とか
振り回されるのが好きだからだ、とか
自分の中でいいわけして、「振り回されていない、自分は自分だ」と言う思いを強める。
「自分は自分だ」と言っている人は、たいてい自分じゃない。
結果、振り回されている事に苦しんで
最終的には振り回している対象に、「人を振り回すな」と怒ってしまう。
けれど、振り回されているのは自分なのだ。
執着したり、振り回されることは、恐れや怯えから生まれる。
それを失うこと、奪われること、それがなくなることで自分が変わってしまうこと。
それを恐れているから、執着する。
恐れや怯えから始めた行動は、大抵、ぜったい、うまくいかない。
そのことに気づかないから、振り回されるし、執着する。
振り回されていることに、どうしても苦しさを感じてしまうときは、
「自分が振り回されている」事をいっそ、みとめてしまったほうがいい。
自分の軸がなく、相手に振り子のように振り回されている自分を想像してみる。
そうすると初めて、「あ、自分は振り回されてたんだ」と言う事に腹落ちする。
いっそ、すがすがしいほどに、自己の中心に何もなく、ただ翻弄されるだけだった自分に気づくことができる。
振り回されている自分に気づいて、そこで初めて、振り回されない自分に戻ってゆく。
振り回されていた対象を「どーでもいい」と思えることによって、初めてその対象に慈しみの情が湧いてくる、ということがある。
振り回されるのを辞めて初めて、振り回された相手を尊重することができる。
恐れや怯えを捨てたところに、より強い自分、が育つことがある。
だから、何かに振り回される事の最終到達点は、その対象を「どーでもいい」と思えることだと思う。
それを目標に、振り回されてみるのも面白い。
ただ、振り回されることが悪いことかというと、そうでもないんじゃないかな、と思う。
人は群れで生きている以上、誰かからの影響を受けずに生きることなんてできない。
たとえば、自分の最愛の家族が病気になったとして、
本当にその人を愛していたら、家族のせいで、自分は振り回された、とは思わないだろう。愛する子供の面倒を見る母親は、子どもに振り回されている、とは思わないだろう。
振り回されることで、なにかに気づくことがある。
余剰が生まれる。
自己の軸がずれることで発生する豊かさは存在する。
けっきょく、「生」というものに執着している時点で私たちは最初から振り回されている存在なのだ。
だから、振り回される事を、悪いと思わないことで、「振り回されないこと」への執着も消す事ができる。
なんとなく、それは他人への愛にも似ている気がする。
最終的に、「生」そのものをどーでもいいと思うことだけど、そこまでいくのはもうちょっと、時間がかかりそうだな。

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誰かを変えようとする、という事

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ちいさいころ、母と祖母が運動会などの行事に来るのが嫌で仕方なかった。

 

他の子のスペースには、父親と母親、カラフルなお弁当と、

この日のテンションに合った赤や青など原色のはじけるTシャツ、

それらとのコーディネートは全く考慮されなかったであろう、

同じく極彩色で彩られたキャラクター物のレジャーシートが決まって揃っていた。

 

幼いわたしはそれに激しく嫉妬していたし、その嫉妬がどこから来るのかも分からないまま、

他の子のスペースでごはんを食べたりして、母と祖母を悲しませた。

 

小学校高学年になる頃に、こうした自分の態度の意味と、その態度が母と祖母に与えた影響をようやく理解し、今度は自分を恥じた。

 

たぶん、その感情と、「だれかにこうなってほしい」「こう変化してほしい」と思う気持ちは一緒なのだ。

 

祖母と母しかいないのと、

うちのお弁当が地味なのと、

母の服装が運動会にしてはシックすぎて浮いていた事、

それらの、決して変えようにも変わるはずのない事実に反抗していた、子供の私の気持ちと。

 

私があの小さい私でなかったら、

祖母の作るお弁当が美味しかったこと、

母の服装が他の子のお母さんよりずっとお洒落であったこと、

二人がわたしを応援しているまなざしに気づいただろう。

 

他人に変わることを願うということは、それと同じだ。

相手にとっての幸せが何かも分からず、他人を変えようとなんて、しちゃいけないのだ。

その人の、あるがままの尊さに比べたら、

誰かを変えて、幸せにしたい、というかたくなさは、光の前の、ひとひらの雪に過ぎない。

あるがままでいいのだ。

そのひとの、そのひとらしさのぜんぶ、そのひとがもつもの全部、あるがままでいいのだ。

その人の、あるがままが、一番、尊いんだ。

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