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キャバクラのスカウトと、ラポールを築くこと

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フランス文学ゼミの同期に、現在キャバクラのスカウトマンをしている友人がいる。
もともとはカウンセリングの勉強をしていて、六本木の高級カウンセリングルームで働いていたが、昨年、一転してスカウトマンになった。
彼は一日に街頭で100人もの女性に声をかける傍ら、
ナンパにいそしみ、Twitter上でナンパの実況中継をしていたりもする。
(彼の、ナンパした相手に対するつぶやきはかなり毒が強い。私は好きだが。)
今は、催眠術の勉強をしているそうだ。
彼の風貌は、通常私たちが抱くキャバクラのスカウトマンというイメージからはおよそかけ離れている。
「すれた」感じが全くない。
育ちのよさと学歴の高さが周囲の空気に漂い、インテリジェンスが漏れ伝わる人間だ。
実際、彼のスカウトには哲学がある。
「田舎から出てきたばかりの女の子をだますような真似は、自分は絶対にしない。
“働いてみたいけど、スカウトされて、なんてイヤだな”と思っている人に対して、このスカウトマンにだったら、お店を紹介してもらってもいいかもと思ってもらうことを目標にしている。」
彼は、これまで学んだ心理学のあらゆる技術を駆使してスカウトとナンパをする。
カウンセリングとナンパとスカウト。
その全てに共通する、最大の技術は
「相手とラポール(信頼関係のある対話)を築くこと」
だそうだ。
「ただ考える事は、“相手が何を求めているのか”、“今どうしたいのか”、それだけだ。
声のトーン、早さ、表情からそれを読み、それをしてあげること。
一瞬で見知らぬ相手とラポールを築くこと。
その精度を上げる事、それだけを考えて日々行動している。」
そのために、彼はスカウトの前に瞑想をする。
人と話したり、音楽を聞いたりして、相手と対峙するのに最高のコンディションにまで自分を高める。
服装に気を使う。非常に高価な、変わったデザインのブルゾンを着て、高貴な雰囲気を身にまとう。不思議な形の指輪をはめ、会話をしながら相手の目の前でちらつかせることで、注意力を散漫させる。
相手の心を読む力を鍛えるため、カフェで、となりの席のカップルの会話に耳を傾け、心の中で相手の声のトーンを追う。カップルの男のほうが、どうしたら女により好かれるか、微に入り細に入り分析する。
その修業を、彼は日々、続けている。
相手の中にとにかく深く分け入り、潜ってゆく。相手の心を知るために。
コミュニケーションを考えるとき、
私たちは
「伝える」
ことばかりに夢中になる。
けれど、本当は
「伝わる」
こと—
“伝達される相手”としてのじぶんの感度を高め、
相手の感性を引き受ける受信体に“なる”こと—
のほうが本質なのかもしれない。

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早稲田の煮汁、慶應の煮汁

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早稲田大学のすぐそばで働き始めて4ヶ月。
慶應と早稲田、両方の雰囲気に浸かってみて、つくづく思う。
「早稲田生と慶應生は、やっぱり違う」と。
私が早稲田で一番のカルチャー・ショックを受けた経験は、
高田馬場のロータリーで地面に転がる「早稲女(ワセジョ)」を見た事である。
慶應ガールからすれば、女の子が寒空の下、
いくら酔っぱらっているからといって路上で寝るなんて
そんな、アンタ言語道断でしょ、という感じである。
あの時は、異世界の珍種生物を見たような気分になった。
それはともかく、
友人の早稲田生・S君は、
早稲田一の名物授業・自己表現論にて、大勢の学生の目の前で
「早稲田生は社会性がない」
と喝破したことがあるそうだが、
なるほど確かに、
早稲田生、慶應生それぞれが持つ「社会性」には、両者のカラーの違いが
にじみ出ていると思う。
早稲田生と慶應生のアイデンティティーを決定付けるもの、それはずばり
「立地」
である。
早稲田といえばご存知の通り、1年から4年まで全学年がすっぽり収まる巨大キャンパスである。
右を見ても早稲田生、左を見ても早稲田生。
早稲田周辺の飲食店に入れば、みごとに学生しかいない。年齢がそれより上の客はほぼゼロ。
そして、上京してきた早稲田生は大抵早稲田近辺に家を借りる。
当然徒歩通学。
電車なんか乗らない。
早稲田生が、学生だけに囲まれて一日を終えることは容易に可能である。
対して慶應の本丸は、3・4年生が過ごす、
大都市のど真ん中・三田キャンパスである。
そこで慶應生たちは、学生生活の後半を
汚辱ならぬ「サラリーマン性」に塗れて過ごすことになる。
まず、最寄り駅に降り立った瞬間から、慶應生は企業社会の洗礼を受ける。
JR田町駅周辺には言わずとしれた有名企業のビル群が林立している。
高田馬場のような、学生街の臭いは微塵もしない。
とにかく周りを見てもサラリーマンしかいない。
ここで学生は、息も絶え絶えにスーツの裾を引きずって歩く、
くたびれたおっさんたちの姿を見て過ごす。
この街では学生こそが「異邦人」である。
駅周辺で、学生ノリではしゃごうものなら、
しみたれた背広姿のおっさんたちからじっとりとした視線を浴びせられることになる。
かくして慶應生は、3年生になった途端、社会の冷や水を浴びせられてしょんぼりする。
その点、早稲田大学のある高田馬場近辺では、
学生世界に属さぬものといえば、
零細企業と風俗くらいしか存在しない。
これでは社会を垣間見る機会などあるはずもない。
さらに、
JR田町駅から慶應三田キャンパスまでに至る道のりは、
オッサン向けの飲み屋か定食屋ばかりである。
田町には、学生向けの手ごろな値段の飲食店は存在しない。
そもそも早稲田と慶應ではランチセットの単価が200円くらい違う。
慶應で、キャンパスから一番近くて学生が入れそうな飲食店は「洋麺屋 五右衛門」である。
(※ラーメン二郎は除く。あれは食べ物ではない。)
早稲田でランチに1050円のパスタを食べる学生はいない。
そんな奴は直ちに「贅沢病だ」と罵られるか、たかりの標的にされる。
そして、
スーツの群れに生気を奪われつつ、人ごみを掻き分けて
キャンパスにたどり着いた学生が目にするものといえば、
またしてもスーツの群れである。
三田キャンパスは常にスーツの学生で溢れている。
4月、日吉から訪れた新3年生が初めて三田キャンで目にするのは、
就職活動の渦中を戦う4年生の、リクルートスーツの大群である。
そして、4年がスーツを脱ぎ始める頃には、先輩から脅された3年生が早々とスーツに着替え始める。
かくして三田キャンパスでは一年中、スーツが主流なのである。
あー辛気臭い。
リクルートスーツに身を包んだ慶應生は、
田町駅前のサラリーマン御用達のかけそば屋に駆け込んでは、
ナビタイムを見ながら次の訪問先の企業の場所(たいてい銀座か丸の内か大手町)を確認しつつ、
隣の席でそばをすする自分と等身大のサラリーマンのくたびれた姿を横目で見ては、
「ああ、俺も老けたなあ」とため息をつくのだ。
このような要因により、オフィスビル群の谷間に掘られた養鯉所のごとく、
拝金主義と大人の社交性をまるまると超え太らせた慶應生が泳ぐ三田キャンパスは、
港区・中央区の巨大企業群の採用活動における格好の釣り掘りと化している。
かくして慶應生は、3・4年に上がってから急激に老け込むのである。
この違いを考えると、
周りに学生しかいない、学生のみによる学生神話の世界で4年間を平気で過ごす早稲田生が、
慶應生のような「すれた社会性」を身に着けるチャンスも皆目無く、
永遠のピーターパンよろしく7年も8年もキャンパスに居ついてしまうのも
まぁ、仕方のないことである。
というか、早稲田の幼児性も慶應の無駄な老けぶりも、
どっちもどっち・・・というのが、両者の本丸で時を過ごしてみての、感想だ。
そうは言いつつ、
早稲田生が4年間煮込まれる、ダシ強め・脂多めの早稲田の煮汁と、
慶應生が金にものを言わせて無理やり振りかけた
「社交」という名のスパイスが効いたスープ、
どちらも学生を4年間でたくましく育てあげるには良い環境ではあるなぁ、と
思うのだ。
以上の考察は、決して批判ではなく
両大学への愛から生まれたものなので、決して誤解なさらぬよう。
もし思うところあれば、ぜひコメントください。
ちなみに東大はどうかというと、学問という霊壁に守られたガラパゴズ諸島・・・
のようなイメージなのでよくわかりません。

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「学ぶ」ことの意味—フォーラム「未来を作る教育のあり方」

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1月17日、2030ビジョンが開催する第1回フォーラム「未来を作る教育のあり方」に、
パネリストとして登壇した。
フォーラム2
フォーラム3
ファシリテーターは、「Mr.ゆとり」こと、元文科省の寺脇研氏。
質疑応答の時間に、参加者の一人から、こんな質問が出た。
「自分は浪人中だが、今、受験をやめようとしている。
なぜなら、大学に行く意味がわからなくなったからだ。
例えば、なぜ関数を学ぶのか。学んで何の意味があるのか。
それがわからない。」
ごく普通の、20歳前後の若者だった。
自信の無さそうな態度を取りつつ、彼の口調には、
「自分がやらされ続けている行為の、意味の分からなさ」に対する強い非難が感じられた。
それは寺脇研氏への質問だったのだが、
思わず私は身を乗り出し、パネリストの机を越えて、彼に質問してしまった。
「キミは、何の意味があるのか、分かり切っていることしかやらないの?
勉強する意味がわからない。
みんな、そうだよ。誰だってそう思った事はあるよ。
でももし、
例えば、何の意味があるのかを分かり切ったことしかやらない小学生がいたら、
嫌じゃない?」
しかし驚くべき事に、
今の教育現場には、そんなたとえ話のような現実が蔓延しているらしいのだ。
内田樹の「下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)」
によれば、最近の小学生は、授業を受ける際、
まず初めに、教師に「学ぶ事の意味」を問うそうだ。
学ぶという行為自体の意味を問うのではない。
「それを学ぶ事によって、先生は僕たちに何をくれるの?
勉強することが僕たちにとってどんなメリットがあるの?」
そう、教師に問うのだそうだ。
つまり、彼らが差し出す、勉強という行為の代償として見合う価値を教師が提示できなければ、
彼らは授業をとたんに放棄する。
なぜなら、価値の提供が見込まれなければ、学んでも意味がないからだ。
彼らにとって、勉強は完全なる「等価交換」でなければ我慢ならないのだそうだ。
分からない事はやらない。
学びってそういうものなのだろうか?
学びというのは、今、ここにはないもの、
やがて彼方よりこちらに向かってやってくる未知の存在に、ある程度の期待を抱けなければ、
成り立たないものではないだろうか。
私たちはそれが「何」なのかは知ることはできない。
なぜならそれは「今、ここ」にないものだからだ。
学びというのは、そんな未知の存在に対し、
胸襟を開き、それが「なんであろうと」受け入れる姿勢を持たなければ、達し得ない。
そして私たちは、それが何であるのか、
それがどんな変化をもたらしてくれるのか分からずとも、
そこに期待をかけることができる。
学びによってもたらされる「何か」によって、ほんの少しだけ未来が変化する。
その変化を嗅ぎ取り、それを選択することが、私たちにできることの全てだ。
今においては単なる「可能性」でしかない、何千万分の一の未来が発する
ささやかで微弱な信号を受信する力、
その微弱な信号に触れ、琴線のように振動を起こす、過敏な受信体を体の中に持つ事が、
私たちが学びを選択し、学びから意味を受けとる
ただ一つの方法なのではないか。
意味が分からない事に期待をかける力。
今は分からない事でも、なにかある、何かをここから得てやる、
そんなふうに、未来の可能性を感じ取る力を育てる事こそ、
「学び」を与える立場の人間が、子供にしてやらなければいけないことだと、私は思っている。
フォーラム1
参加者は100人弱。
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懇親会は居酒屋ワンフロア貸し切っての大宴会に。

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