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昨日は、私がオーガナイズし、ダンサー・演出家である青剣が講師エを務めるワークショップ
「出会える身体ーほぐす・ゆだねる・つながる」の第1回だった。
身体を他者にゆだねること、身体の触れ合いを通じて他者とコミュニケーションを取ることを目的に様々なワークを行っていく。
マッサージやコンタクトワーク、ツンデレゲーム、他人と互いにひっぱりあいながら、バランスを取るゲーム…。
身体系のワークショップは見ていて、参加者に起きる変化を視覚で捉えられるので面白い。
ワークが進むにつれ、最初は硬かった参加者の身体がどんどん、ひらいてゆく。
夜が空け、朝日が差すにつれ、花がひらいてゆく様子が思い浮かぶ。
見ず知らずの相手に、いきなり自分の身体を預ける。
その怖さのすぐ後に、じぶんの身体を放棄する快感がやってくる。
とても気持ちがいい。
このワークショップで、一番印象に残ったのは、
3人の参加者が、お互いの存在を意識し続けながら、空間の中で自由に動き回るというワークをやった時。
講師に
「このワークを演じている間は、瞳をロックし続けて」
と指摘された。
「目の前にある、この空間から目線を一瞬でも外してしまったら、それだけで他の2人との関係性が絶たれてしまう。世界が絶たれてしまう。演じている間は、瞳をそらさないこと。」
相手から、視線を外さない、ということは、相手との関係を、持ち続ける、という意志を持つ、ということだ。
それは、自分と相手の行き先を定めることでもある。
相手とどうなりたいか、わからないとき、私たちはえてして、相手から瞳をはずし、相手の力や、場の流れの力に自分をまかせっきりにしてしまう。
自分の身を、世界に、相手にゆだねるのは大事だ。
だからといって、自分のあり方と、相手との関係性を、まるっきり放棄してしまうのも、違う気がする。
あるがまま、いま、ここにいる自分だけに戻り、相手に委ねる中で、
それでも自分が見定めた方向性だけは死守する。
そうすることで関係性が生まれてくる。
自分が行き先をどこに定めているのか、自分が相手とどうなりたいのか、それを、自分でわかっている、それに確信を持っている、ということ。
それは祈りに近いのかもしれない。
祈りを持って、身体を投げ出す時、その一瞬に燃え上がる、切実な気持ちの炎が、美しいと思う。
祈りのようなコミュニケーション、そして、それをするだけの価値のある人間に出会えること、
それが幸せだ。
同様に、「コミュニケーション」から枠を広げ、「生きる」ということに話題を移すと、
自分の瞳をどこかに定める、ということは、
そこに向かう自分のありかたを自分で定める、ということだと思う。
瞳を一点に留めれば、そこまでの距離の中に、自分の世界が立ち現れてくる。
自分の瞳で、世界を作る。
生きるとき、また、他者との関係性を決めるとき、わたしたちが選べることは、
瞳を定めるか、
そらすか、
意図的に他者あるいは世界に委ねるか、
その3つにしかないのではないか。
そんなことを思ったワークショップだった。
青剣のワークショップは今週の土曜日に大山でもやるそうなので、身体のことに興味がある人は参加してみるといいかも。

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空間編集の愉悦ーシェアハウスの面白さと、「まれびとハウス」の今後

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今月号の「広告」のテーマが「シェア」だった。

まれびとハウスってなんなのさ
田端のシェアハウス、「まれびとハウス」に住んで1年弱になる。
まれびとハウスは「ぷらっと寄れるプラットフォーム」をコンセプトに去年の4月にオープンした。
イベントルームがあり、そこで開催される講演会やワークショップやパーティーを目当てに人が行き来する、そんな家。
初期の頃は、イベントを多数開催していたため、一週間に2〜30人のお客さんが来ていた。
一年間で、のべ2000人以上ものお客さんが来たはずだ。
そんなまれびとハウスを、何かに例えるとしたら、と、
よくお客さんからも、自分たちでも挙げていたのが「寺」。
寺のように、普段の所属や貴賎に依らず、老いも若きも、すべての人に開かれている空間。
行けば、何を糧に生活してるのかよくわからない、ニートみたいな人がいて、禅問答やら講話が始まる。
また、寺といっても、寺自体を目的にして来訪する客人ばかりではなく、
「あそこに行けば◯◯さんがいるから」だったり、
「まれびとで会いましょう」だったり、
既存の人間関係にとって、ちょうどいい収まりどころとして、まれびとハウスを使用してくれる人たちが多かった。
人々がまれびとハウスを回遊するのではなく、まれびとハウスが人間関係の間を回遊する。
そんな感じで、まれびとハウスは、民俗学者・折口信夫の用語で、外来からの来訪者、ようするにお客さんを指す「稀人(まれびと)」のための家として機能していた。

自分とまれびとハウスの関わりー「崩れ」そのものとして

「まれびとハウス」は当初、住人の6人全員、学歴も高いし、なんか社会的にきちっとした人が多かった。
6人中2人が東大生と言うこともあり、東大生のお客さんが多くて、開催されるイベントもわりとIQ高めっていうか、お勉強的な内容のものが多くて、それはそれでさわやかで知的でまったく文句付け所なんか無いんだけど、
ニートになったばかりの自分としては、
「なんっか好かんたらしいなー、なんかもっと・・・ブチぎれてるようなコンテンツが欲しいなぁ」
と常々思っていた。
それで、風俗とキャバクラのスカウトをやっている友人に頼んでナンパ講座を開いてもらったりした。
健全なコンテンツばかりのところに不健全なものをぶちこむ、社会的にはダメだったり汚らしいと思われていたり、非効率だと思われてるものをぶちこむ、その快感があった。
IQ高い人ばっかりが住んでるからって、IQ高いばっかりのコンテンツやっててもあんまり面白くないかな、って。
社会的にはちゃんとしてても、中身がちゃんとしてない人、邪悪な人、狂っている人もいる。
反対に、社会的にはだめでも、その狂いの渦の中に、一瞬、きらめくものがあって、それがその人の美しさを作っているような人がいる。
他にも、だめなんだけどなんかすごくいい人とか、ぶっとんでる人とか、ようするにソーシャルであることを盾に内面を守ってる人より、その人の内面自体がコンテンツ、みたいな人が来るような家になればいい、と思っていた。(何様、って感じですいません)
空間のほころびでいたい。
何かを崩す、その土砂音が、かえって奥底の快感をひっかくこともある。
そういう感じで、自分も「崩れ」そのものとして、わざとまれびとハウスの機能美を崩すポジションにいようとした事は確か。

空間編集の面白さー「自分の媒体を持つ」ということ

で、ここからが自分が思う、シェアハウスの面白さについて。
シェアハウスの一番の面白さは「家を編集できる」ということ。もちろんひとりで住んでいたってできるんだけど、多くの人と暮らすことで、編集の振れ幅が大きくなる。
家を一軒借りるって、白紙の媒体を持つのと同じ。
そこの、コンセプトを決めて、コンテンツを決めて、コンテンツの作り手を決めて・・・。という感じ。
ひとり暮らしだったら、家のコンセプトはまずまちがいなく「自分にとって最も快適な家」になるだろう。
けど、複数人と住んでいると、それではすまなくなる。
そのおかげで、コンセプトに余白ができる。
それで、自分にとっても、他人にとっても面白い家ができあがってくる。
もちろん住んでいる住人自体もコンテンツ。
ひとりで作るわけじゃないから、他人の持っているコンテンツとかちあったりして、思ってもみなかった創発が起きる。
それが、面白い。

再編集もアリ

結局まれびとも一年経って、住んでる人がおどろくべきスピードで入れ替わって、最初のメンバーは全員一旦家をでた。
当初の住人に合わせて作った「まれびと(客人)のための家」というコンセプトも、現在の住人には合わなくなっちゃった。
例えるなら最初ラーメン屋で始めて、仕入れの都合でメニューの9割がカレーになっちゃったのに、未だラーメン屋の看板出してるみたいな気持ち悪さがある。
そうなったら、私はコンセプトを再び変えて、リビルドしたらいいと思う。
家だって、一度決めたコンセプトをかたくなに守るんじゃなくて、あわなくなってきたなと思ったらガンガン編集方針変えて、リニューアルしたらいいんじゃない。
ここからは例えばの話だけど、
今のまれびとハウスの名前を変えるとしたら、ちょっと安易だけど思いつくのは「たびびとハウス」だなー。
海外から友人づたいにまれびとを知って滞在するお客さんがずいぶん増えたし、1ヶ月、2ヶ月の超短期スパンで滞在して、出て行く人も増えた。
地方(特に京都などの関西方面)からやってきて滞在してゆくお客さんも多い。
下手したら住人より滞在者のほうが多い日もあるほど。
住んでいる人も、正社員ももちろんいるが多くがフリーランサー。イベントルームは日中、シェアオフィスみたいな使われ方をしている。
かなり広くて快適なシェアオフィスだと思う。森じゅんや(@JUNYAmori)を始めWEB系の仕事している人が多いので書籍やデバイスもシェアできるし。
ほぼ全員Macユーザだし。
フリーランサーも仕事から仕事へと旅する旅人みたいなものだし。ノマドワーク、って言葉が流行りつつあるとおり。
広い意味での旅人にとって心地いい家っていうコンセプトで再編集するだけで、またぐっと違った表情を持つ家になるだろうし、シェアオフィスとしてイベントルームを公開することでまた違った人の流れもできるだろう。
上記の構想は発想としてはかなりベタなんだけど、再編集の一例ってことで。
もちろん、コンセプトはみんなで話しあって決めることだし、それはこれから住む人によっても大きく変わってくるので、まれびとハウスはこれからこうなりますという意味ではないです。
まとめ
結局、何が言いたかったかというと、
こういうふうに自分の意志と発想が反映される空間があるというのは面白いことだよ、
ということ。
「もはやシェアは当たり前の時代」だと、今月号の「広告」は語っているのだけど、「シェアハウス」を「他人と空間を共有する場所」ではなく「自分と他人、複数の手で能動的に編集できる空間、かつ、空間によって自分も編集される場所」と捉えたら、かなり違った効能が見いだせるんじゃないだろうか、と思うのだ。
そういう見方を最初に提示したのが「まれびとハウス」だったらいいなー、と私は密かに願っている。
了。
おまけ
Amazonで「シェアハウス」で検索したらこの2冊が出てきたんだけど、これはシェアハウスじゃなくて同棲だと思う。。。
それにしても、BL業界でシェアハウスって今ならもっと出ていてもいいはずのテーマだと思うんだけど、腐女子には受けないのかなぁ。

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分かってくれるから、好き?

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昨日は高石くんによる「ラポールと身体知—凄腕ナンパ師による、瞬時に心に入り込むコミュニケーション講座 第5回」だった。
催眠術をかける時に使うテクニックに「ミラーリング」と「ペーシング」がある。
ミラーリングというのは、相手の姿勢に宿るそのときの相手のあり方ー気分だったり、思考だったりー
を自分に移し替える事であり、ペーシングはミラーリングによって同期した相手に自分の感覚を移し替える事である。
ミラーリングとペーシングを使えば、かなり深い程度で相手の考えていることを理解し、
かつ「この人は私のことを理解してくれる」と思わせることが可能である。
そう思わせることができれば、恋愛したい相手に好きになってもらうことができると、私は思っている。
「この人は私を分かってくれる」そう感じた相手を好きにならない人間がどこにいるだろうか。
もちろん分かってくれるだけではだめで、それプラス容姿とか、セクシャルな要素が皆無だと恋人には
なれないかもしれないが、
少なくとも「相手の自分への理解度」が恋愛の重要なファクターであることは間違いない。
ミラーリングとペーシングは、それを可能にする。技術によって自分を相手の理解者に「変える」ことができる。
そうすれば、他人は簡単に自分のことを好きになってくれるだろう。
しかし。
「理解してくれる」を拠点にした好意になんの意味があるだろうか。
分かってくれるから好き。
分かってくれるという安易な依存に取りいっても、どうしようもない気がする。
分かってくれなくても、合い入れなくても好き。そんな好意だって、世の中にはいっぱいある。
他人の「理解してほしい」という気持ちに取り入るなんて、それこそ卑怯者のすることのような気がする。
自分も「この人は私を分かってくれる」と思わせることで相手に自分を好きにさせるということを2,3回したことがあるが、
結局、それで相手に依存されたら途端にうっとおしくなったり、理解できる人でいられなくなった途端相手が離れて行ったりして、意味がないなと気づいてやめた。
理解者になることで相手に好意を抱いてもらうなんて、みじめだ。
「わかる」と言う事ですりよる事はできるが、そんなの、「わかる、わかるぅ」と相槌を打って、寂しいひと、こころの弱い人に取り入ろうとする宗教のセミナーと同じだ。
(行ったこと無いから想像でしかないけど。)
惨めな詐欺師は心がすさむ。それで好かれても、なんだか悲しい。
分かってくれる、と思わせることは技術によっていくらでもできるが、他者を理解する、という行為を、そんな安いものにしてはならない気がする。

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なにかに振り回される、ということ。

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最近、苦しみというのはたいてい「何かに振り回されている状態」から生まれるのだ、ということを感じる。
恋愛ももちろんそうだし、お金とか仕事とか、現実の行為に振り回されることも多いだろうけど、
生い立ち、アイデンティティといった自分自身に振り回されている人はとても多い。
何かに振り回されているとき、
「おまえはそれに振り回されている」と言っても、
絶対にその人は認めない。
むしろ、
「いや、自分は振り回されていない。」
と意固地になってしまう。
これは自分で選んでいるんだ、とか
振り回されるのが好きだからだ、とか
自分の中でいいわけして、「振り回されていない、自分は自分だ」と言う思いを強める。
「自分は自分だ」と言っている人は、たいてい自分じゃない。
結果、振り回されている事に苦しんで
最終的には振り回している対象に、「人を振り回すな」と怒ってしまう。
けれど、振り回されているのは自分なのだ。
執着したり、振り回されることは、恐れや怯えから生まれる。
それを失うこと、奪われること、それがなくなることで自分が変わってしまうこと。
それを恐れているから、執着する。
恐れや怯えから始めた行動は、大抵、ぜったい、うまくいかない。
そのことに気づかないから、振り回されるし、執着する。
振り回されていることに、どうしても苦しさを感じてしまうときは、
「自分が振り回されている」事をいっそ、みとめてしまったほうがいい。
自分の軸がなく、相手に振り子のように振り回されている自分を想像してみる。
そうすると初めて、「あ、自分は振り回されてたんだ」と言う事に腹落ちする。
いっそ、すがすがしいほどに、自己の中心に何もなく、ただ翻弄されるだけだった自分に気づくことができる。
振り回されている自分に気づいて、そこで初めて、振り回されない自分に戻ってゆく。
振り回されていた対象を「どーでもいい」と思えることによって、初めてその対象に慈しみの情が湧いてくる、ということがある。
振り回されるのを辞めて初めて、振り回された相手を尊重することができる。
恐れや怯えを捨てたところに、より強い自分、が育つことがある。
だから、何かに振り回される事の最終到達点は、その対象を「どーでもいい」と思えることだと思う。
それを目標に、振り回されてみるのも面白い。
ただ、振り回されることが悪いことかというと、そうでもないんじゃないかな、と思う。
人は群れで生きている以上、誰かからの影響を受けずに生きることなんてできない。
たとえば、自分の最愛の家族が病気になったとして、
本当にその人を愛していたら、家族のせいで、自分は振り回された、とは思わないだろう。愛する子供の面倒を見る母親は、子どもに振り回されている、とは思わないだろう。
振り回されることで、なにかに気づくことがある。
余剰が生まれる。
自己の軸がずれることで発生する豊かさは存在する。
けっきょく、「生」というものに執着している時点で私たちは最初から振り回されている存在なのだ。
だから、振り回される事を、悪いと思わないことで、「振り回されないこと」への執着も消す事ができる。
なんとなく、それは他人への愛にも似ている気がする。
最終的に、「生」そのものをどーでもいいと思うことだけど、そこまでいくのはもうちょっと、時間がかかりそうだな。

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誰かを変えようとする、という事

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ちいさいころ、母と祖母が運動会などの行事に来るのが嫌で仕方なかった。

 

他の子のスペースには、父親と母親、カラフルなお弁当と、

この日のテンションに合った赤や青など原色のはじけるTシャツ、

それらとのコーディネートは全く考慮されなかったであろう、

同じく極彩色で彩られたキャラクター物のレジャーシートが決まって揃っていた。

 

幼いわたしはそれに激しく嫉妬していたし、その嫉妬がどこから来るのかも分からないまま、

他の子のスペースでごはんを食べたりして、母と祖母を悲しませた。

 

小学校高学年になる頃に、こうした自分の態度の意味と、その態度が母と祖母に与えた影響をようやく理解し、今度は自分を恥じた。

 

たぶん、その感情と、「だれかにこうなってほしい」「こう変化してほしい」と思う気持ちは一緒なのだ。

 

祖母と母しかいないのと、

うちのお弁当が地味なのと、

母の服装が運動会にしてはシックすぎて浮いていた事、

それらの、決して変えようにも変わるはずのない事実に反抗していた、子供の私の気持ちと。

 

私があの小さい私でなかったら、

祖母の作るお弁当が美味しかったこと、

母の服装が他の子のお母さんよりずっとお洒落であったこと、

二人がわたしを応援しているまなざしに気づいただろう。

 

他人に変わることを願うということは、それと同じだ。

相手にとっての幸せが何かも分からず、他人を変えようとなんて、しちゃいけないのだ。

その人の、あるがままの尊さに比べたら、

誰かを変えて、幸せにしたい、というかたくなさは、光の前の、ひとひらの雪に過ぎない。

あるがままでいいのだ。

そのひとの、そのひとらしさのぜんぶ、そのひとがもつもの全部、あるがままでいいのだ。

その人の、あるがままが、一番、尊いんだ。

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去年の今頃無内定だった自分が、今年無内定の学生におすすめしたい本三冊

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最近ツイッター上で「無内定の学生たち」の話題を良く見かける。2012年の新卒採用がもう既に始まっている事もあり、2011年卒で内定をもらっていない若者は、やはりこの時期になると就活に疲れ果てているし、院試を考えるには遅すぎるしで、途方に暮れている時期だろうと思う。
なんでそう思うかというと、自分も去年そうだったから。
自分の場合は、1回目の就職活動時に初めて「パニック障害」の症状が出て、就活を途中で辞めた。もちろんそれだけが内定を取れなかった理由とは限らず、自分の責任ではあるんだけど、慶應義塾大学という、一応高学歴とされる大学なのに、無内定のまま卒業を迎える事になっていて、どうしよう、もうダメだ、とこの世の終わりみたいな気持ちになっていた。パニック障害になったことより、就活という「規格」から外れたことに対する苦しみが大きかった。
■「コミュニケーション能力不足」で落ち込むのは馬鹿らしい
最近では「現代ビジネス」のこの記事のように、内定が取れない学生の最大の原因は「“コミュニケーション能力“が無いからだ」というのが一般的な論調になっているようだ。
この記事の結論はあまりにも陳腐だ。「コミュニケーション能力」の中にはいくつもの分類があって、たとえばノリ良く話す力がないとか、考えを発言するタイミングが上手く掴めないとか、論理立てて説明する力がない、とか、いろんな小分類があると思うんだけど、その中のたった一つが欠けている故に面接などが上手くいかない学生に対して「君はコミュニケーション能力がない」なんて言うのは、一粒が痛んでいるぶどうに対して「これは全部駄目だ」と言って、そのぶどうの育て方を否定するようなもんで、相手としてはここまで育ったものを全部否定されちゃったら今更どうしようも無いし、そんなに自分は他の人と比べてダメなのか、と思って途方に暮れるだけだ。
就職活動が上手く行かない理由は千差万別だろうけど、マスコミなり、就職活動全般なりの論調として、「コミュニケーション能力が無いから君は就職できない」なんていう言説がまかり通っているのはあまりにもくだらなすぎると思う。会社に入ればわかるけど、コミュニケーション力がないけど会社で働いている人なんてゴマンといるし、だからって、そういう人が働くための職種・業種も、同じくらいたくさん存在する。
だから、そんなことで落ち込む必要はまったくないんだけど、就職の目処が立たないまま卒業を迎えると思うと、不安だったり、落ち込んだり、周囲からのプレッシャーを受けてストレスフルな毎日を送っている無内定の学生はきっと多いだろう。
なので、今日は、無内定だった自分が去年の今頃に読んで励まされた本、無内定でこれからどうしようか途方に暮れている学生に読んでもらいたい本を紹介する。
遊牧夫婦 (近藤雄生著、ミシマ社)

東大院卒業後、定職につかず、夫婦で5年間の海外旅行へ—そんなイレギュラーなシチュエーションながらも、ライターである近藤雄生さんが、海外で定住・就職を繰り返しながら旅を続けた様子を描いたノンフィクションである。
近藤さんは、東大の工学部卒で、宇宙飛行士を何人も輩出するようなエリート学科に在籍していたが、自身が本の中で書いている通り、「吃音」を気にして、自分には普通の就職は無理だ、と思っていたらしい。旅の間に偶然、吃音は解消されたそうだが、当時はそれはそれは大きい悩みの種だった。近藤さんは「吃音」だったけど、私の場合は「パニック障害」で、もちろんこんなふうに顕在化した形じゃなくても、何かしら「自分はこれがあるから他の人みたいに就職するのは無理なんじゃないか」と思っている人、きっといると思う。例えば「飲み会とか苦手だしノリ悪いから就職とか無理」「事務作業とかどう考えても向いてない」とか。でも、私自身、会社に入って気づいたけど、けっこう皆、ダメな所あるんだよね。私がいた会社では、毎日遅刻してくる人もいたし、絶対に締切りが守れない人とか、電話に出るのが苦手な人もいた。でもけっこう、お互いがそういうところをカバーしあって働けば意外と上手くいくんだなぁ、というのを感じた。じゃあ就活で無理やり浮き彫りにされて取り沙汰される「自分の弱み」とかって、実は大したこと無いんじゃないの、と就職した後で初めて感じた。
そうやって、あ、わりと大丈夫だな、と思えることが一番だけど、吃音とかパニック障害とか、どうしても面接をくぐり抜けられないようなクリティカルなコンプレックスがある場合は、思い切って他の道を探してみてはどうだろうか。近藤さんは、会社勤めという道以外を探したとき、ライターとしての道を探して5年もの長期旅行に出た。それと同じで、仕事は決して就職活動で見つかるとは限らない。また、近藤さんのインタビューにも出てくるが、日本じゃなくても、就職の可能性、自分で稼ぐ可能性は大いにある。あわせてこのブログも読んでみると面白い。海外で職を得ることは、もちろんエネルギーがいるが、自分が明らかに苦手とする就職活動にあまりにも多すぎるエネルギーをつぎ込んで疲弊しきってる人には、もしかしたらオススメかもしれない。この本を読むと、「まあ、日本で就職できなくてもなんとかなる」という前向きなエネルギーを得ることができるので、オススメだ。
フラジャイル 弱さからの出発 (ちくま学芸文庫) 松岡正剛著

 
最後に紹介するこの本は、若干思想的なので向き・不向きはあるが、稀有な題材を扱った良書なので就活生以外にもお薦めする。
本書で語られるのは、「弱き者」の文化史である。
遍く文化に偏在する「弱さ」の感覚を掘り下げ、フラジャイル的視点から文学・文化・歴史を読み解く。
この本の中で言われている弱さとは、夜明けの月がまさに朝日にかき消されんとする一瞬に、身を翻して放つ最後の閃きのような、そんな鋭さを持つ「か弱さ」—三島由紀夫の言葉を借りれば「うすばかげろうがてのひらの中で羽ばたくがごとき感覚」—の事である。
神話の王から日本の妖怪まで、ホモセクシュアリティからネオテニーまで、「欠けたもの」—「“壊れ物注意”!の繊細さ」がいかに歴史の文脈の中で、表舞台に現れずとも地下水脈のように揺ぎ無い、強い意味を持っていたかが分かるだろう。古今東西の事象の引用と例示の数が夥しく、辞典的な面白さがある。
競争の中で権力を握り、成功への階段を駆け上がるような分かりやすい「強さ」を求めるのはある意味簡単なことだろう。しかし、そのような強さを求めずとも、元からある性質としての弱さは、その背面に、繊細さ故の強さ、生まれ持った片端の性質ゆえに発する、反逆としての強さをあわせ持つ事を知る。ありきたりな強さを求める事が、愚直すぎてつまらなく感じる程だ。
就職活動のような競争に馴染まない人、自らの弱さを疎んじている人。世界のどこかには、このような弱さを内包する優しさ、か弱いものが放つ鋭さを持って活きる道が残されていることに、本書を読むと気付かされる。必ずしも、就職活動で求められるようなのっぺりとした一枚岩の強さだけが強さではないのだ。
■終わりに
この記事で紹介しているのは具体的対策本ではなく、精神論で自己啓発本みたいなのばかりだから、「そんなもの役に立たない」と思うかもしれない。そういう人は他のブログや記事を参考にして欲しい。けどそういう対策的な本はいくらでも本屋の就職関連コーナーに並んでるし、無内定の人はもうとっくにそんな本は参考にしていると思うので、あえてこういう本をすすめてみた。
なぜなら、ここまで来たら「イイ意味の開き直り」こそがもっとも効力があるからだ。本当に、これほど効力のある態度は他に無い。だって、時代が違うんだもん、全員に内定が出る時代は終わった、むしろそっちのほうがイレギュラーなんだ、と割り切るほうが、次の道も見つけやすい。去年の今頃、無内定だった私の友達も、今は「良い開き直り」を動力にして生き方を選んでいる。「イイ開き直り」をもって、採用活動経由での就職か、院か、もしくは違う方法での就職か、海外を目指すのか、もしくは違う道なのか、を焦らずじっくり考えてみよう。
「次の道は見つかっているが、どうすればいいのかが具体的に分からない」という人であれば、「問題は「タコつぼ」ではなく「タコ」だった!? 「自分経営」入門 (ディスカヴァー携書)」や、山田ズーニーの「おとなの進路教室。」あたりがオススメ。この2冊は「悩みのカタログ」と言った感じで、きっと自分が今抱えている悩みと同じ例が載っているはず。
茂木さんだって「日本の新卒一括採用の習慣は愚かだ」(参照:とぅぎゃったー)と喝破しているくらいだし。本当は開き直りたいんだけど、自分の考えは間違ってるかもしれないと思ってヘコんでる人にとっては、有名人が同じ考えをしてると思ったら元気出るでしょ。ミーハーだけど、まあ、別にいいじゃん。
というわけで、この記事が今、無内定の学生、どう考えても自分は内定が取れそうに無いと思っている就活生にとってささやかでも役に立てば嬉しい。

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違和感ありあり、瀬戸内国際芸術祭

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瀬戸内国際芸術祭に行ってきた。
瀬戸内国際芸術祭は、瀬戸内海に点在する7つの島々(直島、豊島、女木島、男木島、小豆島、大島、犬島)を、あのへん特有のものっそい痛い日差しを直にザクザク浴びつつフェリーで移動しながら、各島に設置された作品を見て回る、という仕組みになっている。
同行者が瀬戸内芸術祭の内情に詳しい人だったので、「出展作品は玉石混合だからね」と言われつつ、出展作品を見てまわった。
うん、確かに島は良かったよ。
路上に脈絡なく咲きあふれるヒマワリと色あせたトタン屋根と潮風で表面がそげ落ちて黒ずんだ板張りの家家と、クリーム色のセメントの壁、日差しを凝縮してぎゅよんぎゅよんに濃い緑とぼたぼた落ちるバター色の日の光、その全ての具合が、昔見たイスラエルの空港からエルサレムの市街地へ抜ける、あのオリーブ畑続く国道に激似でふとした拍子に懐かしさが迫ってきて感慨。海も綺麗。
だけど、だけども。
アート作品自体はというと、うーん。なんというか、とっても微妙。
あまりに微妙すぎて、4日滞在の予定を2日に短縮して帰ってきてしまった。
なんでかっていうとそれは、展示作品と、それを置かせてもらってる島との「文脈」が、さっぱり見えてこないからだと思う。
私はアート素人だし、作品の背景を知らないままに見ても、見たままの事しか感じ取れんし、なぜこの島にこの作品なのか、とか、そういう事前情報を一切仕入れないまま見に行ったという事もある。
だけど、それを差し引いても、普通にガイドブックを見て、作品を見に行く、という、多くの人が取るであろうごく一般的な鑑賞法を取ったところで、なんでこの島にこの作品で、この展示に関わった人のこんな思いがあってこれはここにあるんです、というのが、全く伝わってこず。
島の町屋を改造して無理やり作品をはめ込んでても「なんで?なんでそこなん?」という違和感がありあり、
それらの質問を投げかけるために周りを見渡してもボランティアスタッフの人は客をさばくのにせいいっぱいでなんか話しかける隙もないといった雰囲気。
ボランティアスタッフが圧倒的に足りてないらしい、と同行者から聞いてたけどほんとそんな感じでコミュニケーションは果たせず。
たぶん一般のお客さんとかもっとそんな感じじゃないかしら。
そもそも島になんかつくればそれで地域活性、ってゆうのもなんか、なんか違和感ありありでして、美大の子らの出展作品で、古民家を改造して作ったイベントスペース、というのがあったけど、島とアートの融合を目指してるのかわからんけど、古民家を改造してなんか作ればそれは地域活性になるん?という疑問もあり。
でもどちらかっというと私には、海水浴客が捨てて行ったプリキュアのビーチボールがドブに詰まってんのを誰も片づけないままになってるのの、アニメ色のどぎついピンクとナチュラルなドブ色が図らずもいい具合のコントラストになってるのとか、「めぎほいくじょ」の看板とか、モアイ愛好会とかゆう脱力系の人がつくった似てるのか似てないのかわかんない何で君、ここに建てた?!と思ってしまうようなモアイ像のほうが、無文脈だけど島感にじみ出過ぎてて愛着。こういう暮らしの偶然が作った景観のほうがよっぽど島アートや!と思うんですよ。
2010080916230000.jpg
2010080916340000.jpg
そう愛着。
島から作品への愛着も作品から島への愛着もいまいち感じられんよ。
なんか島とアートの間の関係性が見えなくて、まるでヨソの子をいきなり預けられたお母さん、みたいな感じで島からアートが思いっきり浮いてた。
今回の同行者は瀬戸内芸術祭に知り合いが多数参加してて、内幕や裏事情に精通してるから、そういう話を聞いた上でウォッチャー的な目線で見ればそれはまた面白いのかもしれんけど、そういう内輪のルールが分からないと参入できず、ハタから見てても面白くない、例えるならマージャンみたいな、そんなお祭りにしたかったわけじゃないよねぇ。
美大生と関係者とその周辺、しか楽しくないんだったら、島でやらんでもいいんじゃ。
ただ、芸術祭側の願いとして、アート目当てで来たお客さんが島の魅力に気付いて、芸術祭後もリピーターになってほしい、というのはあるみたい。
その気持ちはよくわかるし、実際、島はすてきだな、と思うんだけど、の割にみんな注目してるのはどうも直島ばっかなのよね。
閑古鳥の鳴いてる他の島をヨソに、直島行きのフェリー乗り場は人でごったがえして乗りきれず、地中美術館は3時間待ち、とかなっててディズニーか!状態で。
直島、瀬戸内芸術祭の作品は展示されてへんで!!ベネッセばっかりや!みんなそれ分かって行っとるんか。余計なお世話か。
これ島が潤うというよりベネッセが潤うために芸術祭やったんとちゃうの。と思わざるを得ない。
でも、くやしいかなどう考えてもベネッセ美術館群のほうが圧倒的に見ごたえアリという事実は否定できず。ベネッセはベネッセっつう文脈で完結してるからね。
聞くところによると、瀬戸内芸術祭に関わっている方々は、「開催すること」そのものより、「開催後に何をするか」のほうをすでに見ているらしく。そっちに期待しろ、っつうことなん?
というわけで微妙な手ごたえのなさを味わいつつ4日滞在を2日に切り上げて帰ってきたわけだが、瀬戸内芸術祭よりもぶっちゃけ、最終日に泊まった岡山県・倉敷の美観地区のほうがよっぽどおすすめの場所ですわ。
昔ながらの町屋が並ぶ通りには伝統工芸のお店が軒を連ね、日本全国の粋な土産物が集まった「平翠軒」は1時間以上眺めていても飽き足らず。特に「倉敷町屋トラスト」は町屋を改造した宿泊施設で外は昔の雰囲気ありありなのに中はデザインホテルみたいな作りでセンスがエロいね。このクオリティで11800円。
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あと芸術祭はあれでも香川県の骨付き鶏肉専門店「一鶴」とデザイナーズ・温泉である「仏生山温泉」は大大大マスト。温泉だけでアートを制した気になるね。本持って湯船に入れます。
というわけで瀬戸内国際芸術祭自体はあれやったんだけれども、芸術祭に関わっている方々が今後どんな展開を見せるのか見守りたい、そんで小さいひなびた島々が芸術祭以降どうなっていくのか、楽しみに見ていきたいと思っております。

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サハラ砂漠は正義か?ーブラジリアンワックスに行ってきた。

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毛の諸問題、ロンドする。

 

肉と並んで女子の二大命題であるのが「毛」の処理問題であることはみなさまにおかれましては概ね同意されることと存じますが、女子界において、毛の「どこまで処理すればOKか問題」は、マグロ問題(どこからがマグロなのか)と並ぶ、他人に聞きたくても聞けない永遠にロンドする問いの二大巨頭であります。

 

かくいう私も、かつてはこの問題に頭を悩ませた一女子でありまして。

大学時代、留学生の友達に

「ミユキ、なぜ日本の女性は下の毛をはほったらかしなのか。」

と真顔で聞かれて面喰らい、

「そういう文化だから・・・」

と言いかけて、

ふと彼の専攻が民俗学である事を思い出し、

これはひょっとしたら彼の日本人観に大きく影響を与えてしまう、たいへんアカデミックな答弁ではないか、

だとすると迂闊なことは言えぬ、でもどうしよう、

よく「日本人は日本文化について何も知らない」と批判される事が多いけど、その通り、日本人の陰毛観なんて知らないし・・・と悶々とし、結局黙り込んだ覚えがあります。
しかし、このごろ下の毛の処理は世界的にはもはやごく当たり前の常識になっているそうで、オシャレの先端N.Y.Cはもちろん、アメリカ南米ラテン系では処理はもはや当たり前、何もしないのは日本人女子がわき毛をほったらかすのと同じくらい罪なんだとか。
そういえば、留学していたモントリオール—あの、1ブロック毎にSEXショップか麻薬の売人が立っていると言われる荒廃した都市モントリオールにて、興味本位でふらりとその手のショップに入った時、陳列していたビデオのパッケージの女の子たちは、皆、そろいもそろって美しい肌色のランドスケープを披露していたような。
だとすると、彼の疑問もごもっとも。

彼の祖国においては、各人のデルタ地帯にはさわやかな風が吹き抜ける砂漠のリゾート的風景を構築することが当たり前として認識されているのなら、日本に来て、日本女性のあまりの“熱帯雨林”ぶりにカルチャーショックを受けるのも納得がいく。

かといって、日本においてその需要はあるのか、というと、そこが問題なわけで。

外国人男子はともかく、日本人男子は女性が自主的に密林を伐採することについてどう思うのか?

もしも初めて、そういうコトに及んだ場合、女子の某所が鳥取砂丘だったとしたら、その時、どんな感想を抱くのか。

ここが問題の肝ですよ。

これがもし男女逆の立場だとして考えると、男子となんだかイイ感じになりまして、いざコトに及んだ時、相手の局部にもしもなんの装飾も無かったとしたら、

私なら

・それは自分の趣味なのか、それとも誰かに強制終了させられた名残りなのか

・もともとは他の誰かの趣味だったが、徐々に自分もはまってしまったのか

この疑問が頭をよぎってとても営みに集中できない。

 

元々野を駆け地を這い、獲物を追っていた狩猟民族の西欧人に比べ、八百万の神を信仰し、自然と共生しながら「育つに任す」方式で暮らしを営んできた農耕民族・ジャパンの男子の繊細なハートが、力技で人工的なデザイン・ランドスケープを作り出す、西欧文明的美意識に、果たして耐えられるのか。
彼女がサハラ砂漠だったら、引くのか引かないのか、いやむしろアマゾンのほうが正義なのか。

 

「人による」というのがもっともな答えであることを分かりつつも聞かずにはおれないこの問題。毎年夏になれば、この問題こそが、テレビのCM帯を埋め尽くすキンチョーと青雲と同じくらい、私の頭を占拠するのです。

 

体育会系ゆえに…。

 

かく言う私はというと、昨年夏、例のおしゃれ女子なら一度は煩悶するであろうサービス、全世界的流行のあのサービス、「ブラジリアンワックス」を施行したことがありまして。
2009年の夏、私はなぜかノリで浅草サンバカーニバルに出場することになり、毎年上位を争う強豪サンバチームの一員として、優勝目指し汗水垂らして練習を重ねることに。
サンバの世界と言うのはそれはもう、あっけらかんとしたイメージとは裏腹に、大変厳しい勝負の世界でして、評価はフィギュアスケートのごとくきっちり項目点数制、その一点の差が勝敗を決めるという大変シビアな世界。そのためチームはバリバリ体育会系で、先輩ダンサーは後輩が一点のミスをも起こさぬようきっちり指導する、大変に上下関係の厳しい世界なのであります。
その厳しい指導の一環に含まれているのが、「陰毛指導」。

 

ある時新人ダンサーだけが集められ、不安げな顔の私たちとは裏腹に、仁王立ちした先輩ダンサーが神妙な顔つきでこう言うのです。
「下の毛がはみ出ていると審査員の減点対象になります」

 

減点ってどれくらい・・・?怖くて聞けませんでしたが、その場できっちりと処理の仕方を体を張って教え込まれ、(線香がいいとか、専用の鋏でねじりながら切るのがいいとか)「あんたら絶対にミスは許されへんよ」と喝を入れられ、優勝目指すチームのマジ度を頭に叩き込まれて帰された。
勝負のためにまさかそこまで、でも確かに、一人の粗相がチーム全体に迷惑をかけ、「今年入賞できなかったのは○○さんのハミ毛のせいだ」と言われるのは一生忘れられないほどの恥辱だろうな。
そう思い、ブラジリアンワックスでは日本でたぶん一番有名であろうと思われる、原宿は神宮前のオシャレエステティックサロン、「Boudoir」の門を叩いたわけです。

 

アンダーなのにアンダーじゃないヘアカット代

 

なにやらエロティックな外観に、ドアを開けるのを躊躇しつつ、中に入ると受付のお姉さんに個室に通され「全部脱いでバスローブ着てね」と言われて放置される。

部屋の内装は、紫のシャンデリア、赤いビロードばりの椅子にアールデコ調の鏡が置いてあったりして、19世紀フランスの秘密クラブ的な雰囲気が醸し出されておりまして、「これから陰毛抜きますよ」的なテンションはゼロ。日本女子を緊張させないための配慮なのでしょうか。
しばらくするとエステティシャンのお姉さまが部屋に入ってくるのですが、これがもう、いかにも外国人男性と付き合ってます的お色気ムンムン美人なわけで、当然この美人も下はアラビアンリゾートばりのさわやか設計なんだろうなと思うとむしろそっちのほうに興奮する。

 

ここでどんなカッティングを注文するか、大変悩ましいのですが、思い切って「Bold」にするか、「Landing strip」(ググってね)にするか……。

でも「Landing strip」だと見られた時に日本人男子相手では「カ、カトちゃん?!」みたいになりかねず、むしろ性欲から笑いに移行、してしまうのではないか。だとしたら困る、避けたい、

しかし「Bold」はあまりにもトンガりすぎ、ドライブ感効き過ぎで、付いてこられない男子多数、だと困るし。そういえばセックスアンドザシティでも、サマンサが15歳年下の彼氏に「おれ、もじゃもじゃがいいよ」と言われてしぶしぶ毛、生やしてたな……。

と、色々煩悶した結果、Vラインを控えめに処理、という、日本人女子らしい大変中途半端で冴えない注文をすることに。

で、ベッドの上で極めて事務的に恥ずかしい恰好をさせられ施術するのですが、ご想像の通り、涙と血が出るほど激痛です。
最初のVライン(ここの処理はもはやありふれてますね)だけでも死にたくなるほど痛く、もうだめやめて、となりますが、ここはブラジリアンワックスのお店、それだけでは終わらず、文字にするのも恥ずかしい秘密の花園、IラインとOラインも当然、サービス範囲内(意味が分からない方はググってね)。
恥ずかしさに死にたくなっている自分とは裏腹に、お姉さんは陰毛専用ハサミ、ワックスシート、ピンセットを巧みに駆使し、手術の様な冷徹さと華麗すぎる手さばきで処理を進めてゆきます。
30分もかからずに施術は終了、「もう二度と来たくない」と思いながら服を着るも、終わった後のエステティシャンのお姉さんの、一戦交えた感のある、てろんとした笑顔を見ると

「この人はこんな大変な作業をやってくれたんだなぁ・・・偉業。」

と、感謝の念があふれます。

支払いは最後。6700円。高い。アンダーヘアの癖に普通のヘアカットよりもアンダーじゃないってどういうことなの。

 

セドナはやはり遠い、心理的に。

 

しかしですね、身を持って気付いてしまったのですが、一度伐採してしまうと、正直、正直ですよ、快適さ具合が、熱帯雨林時に比べ、半端ないのです。

スカートの足の間には観光地的に程よく整えられたアメリカ・セドナの頂上のごとく快風が吹き抜け、暑い夏はとにかく爽快。こら熱帯気候のブラジル人が行わない訳ないわ。つーかむしろ高温多湿の日本においてはかなり有効な衛生法だし威力は倍?!
人生の中でも数少ない、上手く言葉にできないほどのパラダイムシフトを味わいました。
おかげでサンバでも大変思い切りのよい踊り方ができ、そのおかげか分かりませんが、チームは見事歴代初の準優勝。
じゃあ思い切って全部つるつるにすればいいのか、というと、下の毛はフェロモン分泌の大事な要素、とか、皮脂線から汗が出なくなるからかえって臭くなる、とかいろいろなうわさもあり、せっかく伐採しても肝心の男子に引かれたのでは元も子もないわけで、なかなか踏み切れず。しかも、セドナ状態を維持するには2週間に一度サロンに通うだけの財力と気力が必要なわけで。

 

でも逆に金閣寺の苔庭的な繁茂の仕方も自然の豊かな恵みを感じられ、そこは昭和の日本ポルノに出てきそうな、まさにコケティッシュな魅力があるわよね、白黒だと黒く映るのそこだけだし。

 

ということでやはり一度の施術で思い切りよく世界水準に達することはできず、やはり心は思い切りのわるい大和撫子、伐採と植林について、現在もうじうじと悩み続ける日々は続きます。セドナはやはり、遠かった(心理的に)。

 

一番の解決法はお金は出すからサハラにしてくれ、と言ってくれるソッチ系趣味の彼氏を作ることよね。募集してみようかしら。

 

追記:togetterで伐採に関する男子のご意見をまとめました

今のところやはり日本的石庭が人気のようです・・・しかし砂漠支持派の意見も。

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(※セドナで挑んだ晴れ舞台の証拠写真。ノーパンではありません、念のため。)

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重要なのは筋肉の間

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気づかい要請、深刻。
先日ふとした拍子に海に行くという企画が持ち上がり、さあらば、となんの気なしに身体のもろもろの部位を測定したところ、24歳女子の厳しい現実をつきつけられ驚愕、そらそうよね、10代後半ごろより若さを盾に運動はおろかろくにダイエットもせずのうのうと過ごしておったけれども、20代中盤ともなればなんの気づかいもなしに美しい体型維持は少々厳しくなるわよね、思えばここ数年は身体を維持するためのケアに時間などまったく割いてこず、さんざん好き放題飲食と怠惰を貪っていたわけで、そら当然です。
であれば、時間だけは溢れる湯水のごとくあるニートの優位性を活かし、昼夜徹底的に身体を鍛えてやればいいわけで、昨日メジャーを持ちながら私を馬鹿にしたまれびとハウスの住人の面々に、2か月後、うっとりボディ、見せてやろうじゃん。セクシーはつくれる、とばかりに鼻息荒く財布を掴み、家から一番近いメガロス田端の扉を叩いたのであった。
筋肉が主役なのよこの園は
さて、中に入るとそこはもう、筋肉の世界であって、人体標本のような肉体の方々がご自身の体にうっとりしながら闊歩しておりまして。その艶めく人肉林の間には、銀色に光り輝くなにやら難しそうなマッシーンの数々。筋肉と同じくらい磨き上げられたソレにみなさん肉体を絡ませてらっしゃる。
それは肉体と機械のぶつかりあい、いわば人間と機械の戦争であって銀河鉄道999かスター・ウォーズか、って話なんだけど、ジェダイの騎士よろしくの真剣さで、己が肉体の限界を更新すべく、こちらの熱気とは裏腹に冷酷に負荷をかけてくる機械に対し渾身の力で対峙なすってるわけで、観察しててもみなさん頭にあるのはもう肉体のことだけ、しかもそれはエロ方面ではなく本当に筋肉繊維、あのタンパク質でできてるとゆう、あの部位のことだけをひたすら想い焦がれ追い求めているのであって。
思えば普段、肉体に思考を集中させたりとか、しないよなあ、日常、肉体は思考のいれものであって、決してそれ自体に意識を巡らしたりはしないのに、であればジムという場所は肉体のほうが精神より優位している特異な場所であって、なにやら神聖な空間のように思えてきて、如何、というようなことを考えながらとりあえずランニングマシンに向かう。
走ることについて私は何も思わん
思えば肉体を酷使する代償として喜びを得る行為なんて、ここ数年の人生の中でもセックスと踊りとヨガ、くらいしか見当たらなくて、けれどもまあセックスはさておき、ダンスというのはそれ自体が祝祭的な何かであってルンルン。ヨガ、あれも肉体と言うよりもほとんど精神的行為であって、ポーズよりもポーズを取ってる間の精神活動のほうに重きを置かれてるわけであって、ただ寝転がってるだけの怠惰MAXなポーズも、ヨガ界では屍のポーズと呼ばれて精神の浄化をするっつうんでたいへん重宝されてたりして、なもんで単純に筋肉の伸び縮みとか、走る事で喜びを得るとかいう、肉体のいちいち一つ一つの動作そのものを目的とした行為は久方ぶりである。
巷ではジョギングがブームとかって、村上春樹も言ってるね、OLさんも美ジョガーっつって皇居の周りは大人気のランニングコース、御堀の傍には美男美女が喜んで順番待ちの長蛇の列に並んでるとか、そんな噂を聞きつけても、なんでみんな走るんやろ、そもそも私は「急ぐ」という行為が大変に苦手であって、走る時は急ぐ時以外のなにものでもなく、できれば極力走りたくない、すぐに心拍数が跳ね上がるし、めまいもするし、あんな全速力で駅の階段を駆け降りるなんてそんな怖いことできん、走るくらいなら遅刻してでも一本電車を見送る人生を送ってきた、それなのにわざわざ金払って走りにきてるわけであって、意味が分からん。
しかし脂肪を燃やすには有酸素運動が一番、っていうわいね。仕方ない。と思っていたら何やらAMTという、工科大学みたいな名前のあやしげな、ほら、深夜の通販で外人がやってるような、ハンドルを振りながら足を前後に動かすやつ、あれのすごい剛健なバージョンの機械がでんと鎮座しておって、本を読みながら乗ってもよいみたいなので川上美映子のエッセイを読みながら1時間くらいペダルをふみふみしてたらあっというまに400キロカロリー消費してしまった。怖。文明の利器すごいね。
重要なのは筋肉の間
で、女子更衣室に行くと、一転して桃色裸体の数々、若い子も60代のおばあちゃんも鍛えているだけあって局部は隠しつつも堂々と歩いているわけ。なのだが、だがしかし、なんというか当然というか、これだけ筋肉コンシャスな場所であったとしても、ムキムキに鍛えた美しいボディの女性たちが闊歩しててもだよ、人間つい目が行ってしまうのは、やはりというかなんというか、まあ、上腕二等筋と胸筋の狭間でゆれる秘密の球体、そう、反射的に、おっぱいよ。
みんなそら見ますわ。視線の最重要ターゲット、インパクト的王者はもう、そこなのであって、おっぱいの神聖さの前では、正直、鍛え上げた前腕筋とか腹筋とかは敵うすべもないわけで、どんなふくよかな体型をしてようと、そこ、そこが人より優位性を保っている女性の方にはもう、筋肉も何も、敵わんくて、負け。負け負け。
わたくし第二次性徴以降、そこに関しては量には自信がないかわりに質、で勝負してきたわけですが、いくら意気がろうともそこは量が圧倒的強さを持つ箇所なわけで、量的優位者の前では恐れをなしてただひれ伏し、その神々しさに羨望のまなざしを送るしかありませぬ。
で、思ったのは、それって男子も一緒で、まあジムに通ってる若い女性の中には当然、男子との桃色バトルに備えてええカラダ、作ってる方もいらっしゃるわけですが、しかし結局彼女がいくら上腕二等筋を美しく鍛え上げてバトルに挑んだとしてもだよ、初戦開始時、脱いでしまえば所詮はその瞬間の最重要課題はもうとにもかくにも、美しい上腕二等筋ではなくて、その間に位置するものであって、他の課題は全て後回しじゃあるまいか。おっぱいの優位性に筋肉はただ黙って引き下がるのみですよ。
おっぱいの強さは全てを凌駕する。
となると、人類が発展するのに威力満点なのは、マッスルボディを目指す方々が撃退したくてたまらない憎っくき脂肪、むしろそっちが全て、であって、となると生命的強さにおいては明らかに脂肪>筋肉、なのであって、なんつうかアンビバレント。だよね。
というような矛盾に首をかしげつつ、量より質で勝負という苦境に立つ身にとっては、その他の質もあげることが重要課題には変わらなくて、起きてはさっそくジムに通う毎日ですが、ここまでつらつら書いて、ふと、マッスル東大院生を目指しておられる舘野さんのブログを読むと、なになに、
「ジムの効果は三ヶ月くらいで目に見えてくる」 なんつって、ギョエ。三ヶ月もかかるのか。
「一ヶ月くらいでも、ほんの少しですが変化を感じるようになります」 あ、よかったよかった、そっちに期待。

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筒になること

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一昨日、久しぶりにゼミの同期の男の子と食事をした。
キャバクラのスカウトと、ラポールを築くこと
でも書いたけど、彼はカウンセリングの勉強をしながらキャバクラのスカウトをしている。
彼とは主にコミュニケーションのあり方についてよく議論をする。
というより、彼から一方的に教えを受けているのに近い。
彼は職業柄、当たり前の事かもしれないが聞き上手で、その時その瞬間に私が言ってほしい事、教えてほしい答えを実にうまくポン、と出してくれるのだ。
一昨日、話したのは「聞くこと」について。
私は、人の話に耳を傾ける時、
自分がまるで透明な一本の筒になったような感覚になる。
そしてその中に相手をそっくりそのまま「入れる」。
全部、そのまま。
相手の、話を聞いてほしい欲望とか、今、この瞬間に発話に至るまでの前提とか、
こうして自分の話をすることで相手が生み出したいと思っている答えとか、
全部ひっくるめて自分の中の空洞に相手を入れる。
その意味で、私にとって「話を聞くこと」はセックスや食事に近い。
感覚なので、その日の体調とか気分とか、コンディションによるけど、
いつでもその感覚を引き出せるようにメンテナンスをしている。

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絶対触感

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調布にある、某カイロプラクティックの先生のところに相談に行く。
紹介してくれた知人曰く、
「身体を触るだけで、その人の悩みや人間関係、今までの生き方」
をぴたりと言い当てるのだそうだ。
診察台に寝かされて、足を交互に上げ、こめかみをトントン、と指で突かれ、、
頭蓋骨を触って、「推理します」と言って考え始めたあと、
いきなり、私自身が今一番心配していることを言い当てられた。
「私には、『絶対触感』というものがあります。」
そういって、先生は手のひらを見せた。白くてすべらかな、羽根のように繊細な手だった。
「私はこの力を使って、20数年間、人の身体を触り続けてきました。
つまり、小野さんが生まれた頃には、私はもう、この道に入っていたことになります。」
私は驚いて目を見張った。
診察室に入ってから、ずっと目の前にいたこの女性を、私は30代前半ぐらいだと思っていたのだ。
この道のプロ、と聞いていたのに、やけに若い先生だなあ、
もしかして本人じゃなくてお弟子さんなんじゃないの、とさえ思っていた。
「私は他人の頭を触っただけで、その人の感情がわかります。
人間の頭蓋骨は、つねにウネウネ動いています。
その凹凸が鍵盤を奏でるようにして、感情を起こ『させ』ているのです。
感情というのは、自分自身の心が感じているもの、だと思われていますが、
実は、体が自分自身に必要なものを察知して、
脳がそれに従った行動を取るように、
そういう感情を呼び起こ『させ』ているのです。」
先生は続けた。
「足が上がらなくなる、というのは、ストレスを感じている証拠です。
特に、左足が上がらなくなるのは、
自分が受けたストレスではなく、他人が受けている苦しみを自分も背負い込んでいるストレスです。
それで、こめかみのこの部分が痛い、というのは、
その相手を助けたい、という苦しさの証なんですね。
いま、あなたの盲腸が非常に弱っています。
盲腸というのは一見、働いていないように見えて、体内の細菌の量を調節し、免疫力の増減をつかさどっています。
いま、盲腸はあなたの免疫力を「わざと」低下させている。
免疫力を落とすことで、外からの刺激を受けやすい敏感な身体にしている。
なぜか。
それは、近しい人、あなたが親密に思っている人の異変を察知し、
危機的状況を細かく把握することで、その人をピンチから救おうとしているからです。
あなたが、相手のストレスや苦しさを背負い込もうとしているから、体が反応しているのです」
ずばっと言い当てられた。
驚きながら、私は今の自分と、自分が心配している相手の事を先生に話した。
先生は、指を私の盲腸のあたりに深くめり込ませた。
深く深く突き入れながら、指先でなにかを探るような動作をした。
まるで私のお腹を通じて、今、ここに居もしない相手の心を触っているような感じだった。
先生に「心配しなくなれば、相手に執着しなくなれば
直るのでしょうか?」と聞くと、
先生は
「執着しているとしたら、
それはあなたの体が必要としているからこそ、
執着するのです。
すべての感情は正しいのです。
それを否定しようとして、離れれば離れるほど、身体は拒否反応を起こしますよ。」
と言っていた。
先生に、ひとしきり悩みを相談したあと、
「免疫力が落ちすぎているので、とりあえず回復させます」と言って、
施術をしてもらって帰った。
感情は体が起こ「させ」るもの。
だったら今の苦しさは、なんのために起きているのだろう。
身体は私にどうさせたいんだろう。
どうやったらこの苦しさは取れるんだろう。
分かりもしない問いが、頭蓋骨の内側でカラカラ鳴って、
調布駅の、白い柵で囲まれた、まるくて入り口のくびれたロータリーが、
不意に髑髏の形に見えた。

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大学生活について

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3月の終わり、大学、カタリバ、道塾と相次いで卒業式を迎えた。
大学生活の「仕舞い」をつける度に、自分がどんな道を歩んで、
いま、どんな自分としてここにいるのか、を何度も考えさせられた。
自分にとっての「大学生活とは」を、
社会に出る今日、ここで示しておこうと思う。
「人生打って出し」というのが、私が6年間を通じて得たひとつの答えだ。
確かに、一本道をまっすぐ進んでいける人、「自分はこれだ!」って決めて進んで行ける人はかっこいい。
でも、大学1,2年生の段階で「自分はこれだ!」が決まっている人って、そうそういないと思う。
私自身、大学6年までやっていたことを振り返ると、表面的には何にも一貫性がない。
もうそもそも、入り口からしてコケてたから。
第一志望に落ちて、行きたい大学に行けずに「ちくしょう、見返してやる」と決意して仮面浪人を始め、キャバクラで予備校の授業料を稼ぎつつ大学と受験勉強を掛け持ちするも、3ヶ月で体力的に挫折。
腐ってテキトーに選んで入ったサークルは本当に面白くなくて。
なんかもう、これがあるべき大学生活の姿なのか。あまりにもしょぼくないか。本当はもっと違うことがやりたいのに、と、エネルギーの使い道が見つからないことに憤りを感じ、溶鉱炉のように悪い熱を溜め込んだ心の蓋はがちがちに硬くなっていた。
で、ちょうど専攻選択のときに、「自分の中のフランス性を検証する」とかいうテキトーな理由をつけて、フランス一人旅に出た。
「とりあえず」のエネルギーのぶつけ先を、見つけてみたんです。いいかげんに。
そしたらそれがムチャクチャ面白かった。
よし、じゃあ次はもっと海外に長く行こう、と思った。
そしたら交換留学の制度があることが分かって、しかもフランス語だったから、選抜の倍率も英語と違ってめちゃゆるい。これはチャンス、と思った。
でも一年のうちに全然単位なんか取ってなかったから、やばい!ということで、2年は全力で勉強しました。
オールA取らないと出願資格にも届かなかったから。本当に勉強以外しなかった。
で、カナダに交換留学が決まったら、6ヶ月の休みが取れることがわかった。
じゃあ世界一周すればもっと広い世界が見られるじゃん、と思って、思い切って世界一周に旅立ち、インドからアルゼンチンまで、22カ国を周った。
で、帰ってきたら、日本の若者、特に高校生は、今まで見てきたどの国の若者より目が死んでて、ショックだった。
小学館の筆記試験で、ボロボロの寒い会場の中、悲壮な顔で列に並んでいる大量の同じ格好の大学生を見て、
「ライフイズビューティフル」のアウシュビッツの風景とダブって、
そこに、つい3ヶ月前には4WDで駆け回ってた、遮る物ひとつない広大なアルゼンチンの大草原がフラッシュバックしてきて、
なんで3ヶ月前は大草原の小さな家を地で行ってた自分が今やアウシュビッツやのん、と思ったらとたんにパニック障害を起こして泡吹いて倒れて、就活をやめた。
やめて、これからどうしよう、東京には大草原は無いし、もう自分は駄目だ、と思っていたとき、
些細な偶然からカタリバ代表の今村さんを紹介されて、
「カタリバ」の職員に誘われ、どんな仕事かも知らないままに飛び込んだ。
1年間、80校以上の高校に行き、高校生に向かって自分の思いをプレゼンした。
話を聞いて泣いてくれる子、16年間負ってきた心の傷を初めて打ち明けてくれる子もいた。
体育館のそこここで、生徒のそれぞれが他人に今まで見せたことのなかった感情を沸騰させる瞬間を、
毎日毎日見ていた。
カタリバの職員の任期を満了した後は、学生記者、ビジコン、憧れの出版社でのバイト、出版甲子園、とにかく何でも手を出した。多くの人に出会った。
全部、偶然チャンスが転がってきたときに、躊躇せずに「やります!」って自分から飛び込んだことだった。
それが自分にとって何の意味を持つのか分からなくても、
「次」のチャンスがあったら、いいかどうか判断する前に、飛び込んでみる。
自分にとって何がいいボールなのか、わからないうちは見送らず、なんでも打ってみる。
「自分には打つ姿勢がある」ことを明示し続ける。
「打つ姿勢」がある人のところにはどんどんボールが来ます。
自分はなんでもやる、なんでもやるからやらせてくれ、という姿勢さえ持っていれば、
それがいつの間にか、自分の輪郭を作ってくれるし、それを求めて声をかけてくれる人に出会わせてくれる、と思う。
それは縁とか運とか、そういうあやふやなもので、確証なんか全く無いけれど、
次の足場が見当たらずに「どうしよう」と思っても、谷底に落ちかけたタイミングで誰かがひょいっと拾ってくれる。
斉藤孝は「貧乏ノススメ」という本で、
若いころ、超ド貧乏で、仕事を選んでられないからとにかくなんでも引き受けていたら、いつのまにかベストセラー作家になっていた、と書いていました。
それと同じで、「心の貧乏性」でい続けて、とにかく貪欲になんでもやること。
「それ、自分がやりたいです」と表明するのは怖いし恥ずかしい。
でも表明し続ける。
他者に向かって胸襟を開き、自分のこころのうちをきちんと伝える。自分という人間の輪郭を明示する。
志とか、一本筋とかが無くても、恥じることは無い。むしろそんなものは無くたって、
目の前に転がってきたものを、柔軟に全部吸収して、いろんな世界を見てゆけば、
ひとつの世界にずっといる人には見られないような景色とか、
自分にしかない観点とか、色々なものを吸収してふくらんだ豊かな土壌とかを、自分の中で育ててゆけると思う。
だから、志とか、やりたいことが今は無い、というひとは、
チャンスを拾うことに、貪欲になってほしい。
同時に、自分の心のうちを開き、自分の気持ちを表明するのを恐れないこと。
人や社会と自分をごりごり擦り合わせて、常に発熱し続けること。
それが「次」を作るし、自分の輪郭を育ててくれると思う。
以上が、私が大学生活を経て得た小野美由紀という人間の輪郭です。
今の「自分」が、今後どう変容していくかはわかりませんが、
ひとまず、これらのかたちを私に与えてくれた6年間の生活の「仕舞い」として書きました。
これからもおつきあいのあるみなさん、離れていってしまうけれど、今まで私を形作ってくれたみなさん、
ありがとうございました。
これからもよろしくお願いいたします。

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