に投稿 1件のコメント

傷つく、ということ

このエントリーをはてなブックマークに追加
このエントリーを Google ブックマーク に追加
[`evernote` not found]
LINEで送る

今日は朝から知人と共に鎌倉の円覚寺に座禅を組みに行った。
座禅は初めてだ。
GWということもあり、狭い経堂は直ぐに満員になった。
足を組み、目を半分とじる。
「一点だけを集中して見てください」と言われたので、
前の人の背中のシャツの皺に視線を縛り、
ゆっくりと呼吸を繰り返した。
本来は「無心」を目指すものだが、
それは無理だと思ったので、
ひたすら一つの事だけを考えるようにした。
愛についてだ。
愛について、というと壮大すぎるので、
具体的には、
誰かに「傷つけられる」
ということについて、考えを巡らせた。
暗い経堂の中、警策の音だけが鳴り響き、
五感が靄のようにすべらかに拡散してゆく。
その中にぼんやりと思考が立ち昇る。
私が以前、相談した人は、こんなことを言っていた。
「誰も、傷つけたくてあなたを傷つけたわけじゃない。
 それを許せるかどうか。
 傷つけられても、どうなっても、何が起こっても、
 あなたの存在価値は変わらないんだよ。」
禅語の中の一つに、
「心無罫礙 無罫礙故」と言うのがある。
罫はひっかかる、邪魔をする、
礙も妨げるという意味がある。
心のありかたを邪魔するものは、なにもない、という意味だ。
長い事、
傷ついたり、苦しんだりして、心が欠けたような気がずっとしていた。
他人と接していても、相手の心の傷ばかり追っていた。
恋人と接する時もそうだった。
でも、
先週くらいからの「変化」の中で、それは、違うあり方だったのかもしれない、と思うようになった。
人の心は、まるくて、完璧な形をしていて、
どんなことをしても、
どんなに傷ついたとしても、
それは「現実の出来事」が否定された、というだけで、
自分自身の心の本来の形は、損なわれることなどありはしない。
何があっても、
心のありようは、他人から与えられた傷では、決して変わらない。
その事に気付かないから、「傷つけられた」と感じる。
自分が損なわれた存在みたいに思えてしまう。
自分が「傷つけられた」と思っていると、
自分が相手を傷つけてることに気付かない。
それは相手も同じだ。
だれも傷つけるつもりで傷つけてなんかいない。
今朝、私を傷つけたあの人も
あの人なりにさみしくて、傷ついて、苦しんでるだけだ
さみしい犬に手を噛まれただけだ
24年間、やりきれなかった家族との関係も
なんのことはない、
互いに愛情に飢えた子どもだっただけだ
さみしい子供に裾をひっぱられても、振りほどこうとは思わない
誰も誰かを傷つけるつもりなんかなかったのだ
許せば、いいのだ
こちらが愛せばいいのだ
そこまでたどり着いたところで、時間が来て、
座禅の会は終了した。
外に出る。
暗い場所に目が慣れたせいか、日の光が二倍まぶしく見える。
感覚の途切れたふらつく足で、
円覚寺の山に登り、
頂上から鎌倉の景色を一望した。
天の底を突けそうなほどに澄みきった青空、
猛々しく繁る緑に、雨のように降り注ぐ太陽の光が照り返す。
景色の奥まで、ずっと続く山々。
風が目の前の生け垣の葉を優しく揺らしている。
その瞬間、思った
世界は完璧に綺麗だ、と
誰かが誰かに注いだ愛情も
私が誰かに注いだ愛情も
大した差じゃない
世界は丸くて、欠けがない
完璧な「愛」だ
ただ、あるだけ
世界はそれだけで美しいのだ
私が消えてもきれい
あの人が消えてもきれい
砂粒がひとつ消えても砂漠が尽きないのと一緒だ
じぶん が在っても無くても美しいのだ
だったら じぶん は無くても 同じだ——
二四年間、大事に抱えていた
「わたし」が 
ふっ、と
目の前に生い茂る
木の葉一枚一枚のあいだに溶けてゆくのを 
その時 感じた。

このエントリーをはてなブックマークに追加
このエントリーを Google ブックマーク に追加
[`evernote` not found]
LINEで送る