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斜陽産業で、それでも好きなことを仕事にするにはどうすれば良いのか

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先月、某週刊誌の仕事で、三味線奏者の葛西頼之さんにお会いした。

 

葛西さんは、小4から三味線の師匠に弟子入りし、今では世界で活躍する三味線奏者だ。若干25歳だが、中国、ロシア、シンガポールなどでもコンサートを開催している。

そんな彼の話の中で、一番興味深かったのは、

「斜陽産業の中で、それでも好きなことをするために、どうやってサバイブするか」という話だ。

 

彼は、東京で芸能プロダクションの社長も勤めている。今は4:6ぐらいの割合で経営と奏者、二つの仕事を両立させているそうだ。

本人は行きがかった縁だというが、そこにはきちんとした戦略が感じられる。

 

「邦楽を始めとする伝統芸能は、一舞台いくら、それっきりの商売。それ一本で食べてゆくのは厳しい世界です。文化的な扱いも今では低いし、コンサートの機会が多いわけでもない。エンターテイメントは景気が悪くなると真っ先に切られる。
だから僕は、会社を経営して金銭的な基盤を確保した上で、それを土台に芸の道を極めてゆくつもりです。
よく『一本にしぼった方が無茶が出来る』というけれど、そうじゃない。基盤があるからこそ、安心して自由な表現ができるんです。
伝統を重んじる三味線業界では疎んじられますが、今若手で活躍している三味線奏者はほとんどそういう考え方をしていますよ」

 

非常にクレバーで、先見の明のある考え方だな、と思う。

 

私はライターだが、この「物を書く」という仕事も、もはや伝統芸能というか、古典芸能のようなものだと思っている。

先日「脱就活シンポジウム」というイベントで登壇した時に、学生さんがライターという仕事を予想以上に神格化というか、あこがれの仕事のように扱っているのを知ってびっくりした。

だれもがインターネットで発信でき、タダで他人の書いた物が読める時代に、モノを書いてそれを売るというのは、本当にオールドファッションな仕事の一つだ。

基本的に、原稿は一本いくら、の買い切り制なので、特に単価の安いウェブメディアなんかは、座敷で演奏して一曲いくら、の流しの奏者とあまり変わらないと思っている。

ライターは、文章という芸に対して、投げ銭をもらう芸者。

私はブログからほとんどの仕事の依頼をもらっているので、特にそうである。読者のみなさまの前で芸をして、チャリンとお金をもらう。客(編集者、読者、出版社)の求める芸を知り、一生、自分の芸を磨いてゆかなければいけない。

 

しかし、出版業自体、斜陽産業だし、そのうえ業界の体質がすこぶる古い。仕事をしていて「今ってジュラ紀だっけ?」と思うような出来事も少なくない。

今、フリーでライターをしている人で、「このままの仕事のやり方がいつまでも続く訳が無い」と思っていない人は居ないのではないか。一本いくらの「もらい仕事」を、雇い主(出版社)の倒産に一生怯えながら、やっていくわけにはいかない。

 

それでも、なぜライターを続けるのかというと、やっぱりそれは書く事が好きで、書く事で何かを変えてゆきたいからだ。言葉で読者を突き刺したい。言葉で世界の色を変えたい。

もはや死滅しかけている業界で、どう生き残って行くか。

その中で、どうやって自分の「色」をつまびく弦に載せるのか。

そのために、基盤を作ることが必要になってくる。

 

他に本職があって、本を書いている人はたくさんいる。今後は逆に、物を書くという芸を続けたいからこそ、他に基盤を持ち、収入と心の安定を得つつ、自分の求める「良いもの」を書いてゆく、そういう発想のライターが増えてゆくと思う。会社を経営したり、副業をしたり、別の基盤を作りながら、生業(ライフワーク)としての芸(ライティング)を深めてゆく。

 

別に、片手間でやるとか、そういうわけではない。葛西さんはれっきとしたプロの三味線奏者だし、一生の仕事である。比重はそちらのほうが多い。

ただ、生業を一生続けるために、その技をより自由度高く深めてゆくために、クレバーになることが、斜陽産業の中で、それでも好きなことをやりたいという人には必要なことなんだと思う。

 

脱就活シンポジウムの中で、「どうやって、ライスワーク(食べるための仕事)と、ライフワーク(好きな仕事)を切り分けて、割り切ればよいのか分からない」という質問をされた。

その考えに当てはめると、葛西さんの仕事は三味線がライフワークで、プロダクション経営がライスワークということになるだろうか。

それも違う気がする。

 

このような考えの人は、「好き」というのは何か針のように尖っていて、好きなことで生きるというのは、それで突いた穴のように小さな点だと思ってるのかもしれない。

ライフワークは好きだけで成り立ち、ライスワークには好きが含まれない、そんな2項対立で、仕事というものを捉えていたら、それはつらい。

ノマド系の人の自己啓発本には「好きな事を仕事に!」とか「好きな事をして自由に生きてゆく」みたいなアオリが多くて嫌になるけど、100%好きを仕事にしなければいけない、みたいな強迫観念があると、それ以外のものは全部苦痛、のような気がしてきてしまう。

 

でも現実的に、「好き」を中心とした円を思い浮かべた時、「好き」と「好きじゃない」の間にあるのは「充実」という概念だ。

「好き」な仕事のほかに、自分が「充実する」仕事、というのがある。葛西さんにとって、プロダクション経営は嫌々やっている仕事じゃないだろう。好きとは1ミリ隙間があっても、きっとその奥深くには、充実があるに違いない。

 

好きな仕事の周りに、充実の仕事を敷き詰めて、何がいけないの?

 

好きなことだけでは食べれないけど、ライスワークはしんどいという人は、自分の好きの周りを包む、充実を探してほしい。

充実で敷き詰めた円の中心に、自分の「好き」を守ってゆければ、それはきっと楽しい生き方なのではないか。

そう思っている。

 

(三味線奏者の葛西頼之さんの記事は、明日12月2日発売の「AERA」巻末「U25」コーナーに掲載されています。ご興味のある方はご覧下さい。)

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見えないバケツ

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20131019-161042.jpg

東洋大学の学祭で、11月3日にやる講演会でパネリストとしてお話することになった。

「脱就活シンポジウムー仲間と楽しく生き延びるために」ってタイトルのイベント。

どうしよう。
脱就活っつったってあんた。
私の場合は脱「落」就活だからねぇ。
しかも、仲間と楽しく生き延びてないし。

これからのことを考えてる学生さんのために話せること、今から考えてる。

この講演会に来る学生さんは、将来のこと真面目に考えて、これからどうしようって考えるために来るのかなー。
それとも、なんとなく就活やだなって思って来るのかな。

前に読んだミカサさんのブログで、ああ、そうだなーと思うことがあったから、引用する。

「今やってることは、その先のなにかに繋げる工程」
っていうのを、意識的にやってる人のほーが多くて、それが「当たり前」ってことなのかなー、って思った。

ーひきこもり女子いろいろえっち
キリギリスのバイオリン」より

将来のこと考えて何かをするっていうの、
27歳までよくわかんなかった。
というか今も分かってない。

どうせ14で鬱病で引きこもりになったし、大学卒業しても就職できなかったし。
14の引きこもってた時から、精神は成長してないかもしれない。

就活のとき、「これから先のライフプランを考えて会社を選びましょう」とか、10年後の自分を想像してエントリーシートを書いてください、みたいなの、やらされたけど、無理だよ、って思ってた。

そもそも会社で働いたことないし、10年後に何がどうなってるのか、分かってる人なんか誰もいないのになー。

10年後、こうなってますって補償のある人としか、誰も付き合ってくれないのかな。

パーティーとか行くと、みんな、きらきらしてこれまでどんなことしてて、どんなことこれからやりたいんですって語る。
水戸黄門の印籠みたいに、金ピカピカの過去と未来を用意しないと仲間には入れてもらえないみたい。

シンポジウムとかで話できる人って、そういう金ピカの過去と未来をバーンと見せて、話せる人なのかな。

ジセダイの連載は、楽しかった。
これは!って思えるすごい好きなモノとか本のことを、これいいよ!って紹介させてもらえてたから。

自分の好きなモノや本について書くのは好きだけど、他人にこうしたほうがいいですよ、とか、こうしたらうまくいきますよ!って偉そうに言うことなんてできない。
てか、それ知ってたら自分がまずそうするし。
そしたら私の人生、もっと、成功してるし。

講演会とかで偉そうに話してる人は、みんな紙の印籠がほしいってわかってて印籠見せてあげてんのかな。そっちのほうが親切なのかな。

前に、二村さんともうひとり、歌つくってるんですって人のトークイベントに行ったら、歌つくってるんですのほうの人がずーっと自分がいかにモテなくて、いかに上手く恋愛できないかの悩みをずっと話してた。
飲み屋で話したら迷惑レベルだけど、こんな話でも、有名になったらみんなお金払って聞きに来るんだなと思った。

こわいよな。

話それたけど、
でも、私が一つ、これはあってるんじゃないかなと思って人に語れるのは、
「知らないバケツ理論」。

名前は自分で考えました。

自分の人生の背後に、大きな知らないバケツがあって、生きてたら、勝手に水滴がひとつひとつ、溜まってゆく。

ぴちょんぴちょん。

それで、いつか水がバケツいっぱいに溜まった時、その水は溢れだす。
どうなるのかは分からないけど、ずっと溜まってきたものが溢れる。

その時になって、あのしずくには意味があったんだなと思う。

将来ああしたい、とか、こうしたい、とは別に、
見えないバケツの中に、私たちの人生は、ある。

むしろ自分でコントロールできる、目に見えてる人生なんてほんのちょこっとだけで、見えないとこに溜まってるもので、人生はできている。

たとえば、ブログ。
ブログを書きはじめたのは、ニートになった時。
最初は、本当に恥ずかしくて、ごくたまにしか書かなかった。

ブログのタイトル、よくなんで「None」なんですか、って聞かれるけど、それは、その時働かせてもらってた会社やめて、私だれでもないじゃんって思ったから。
誰もいない、誰でもないからNone.。
なんでもない、のナン。

慶應大学出て留学してちゃんと就活したら誰かになれると思ってたけど、誰にもなれなかったから、None.っていう、諦めの気持ち。

そんな人が書いてるブログなんて別に面白くないですよっていう卑屈な気持ちで始めた。

でも生きて、シェアハウスでイベントやったりワークショップやったりして食いつないでたら、嫌でも書きたいことは出てくる。

生きて、生活して、ごはんたべて、おならして、風呂入って、セックスして、髪が伸びて、爪が伸びて、歯磨いて、恋愛して、たまにどっか行ったりしたら嫌でも書きたいことは溜まってくる。

爪のあいだに垢が溜まるみたいに、歯の裏に歯垢がうっすら残るように、髪に脂がつもるように、書きたいことは身体から押し出されてくる。

だから、月に一回とか二回とか、書きたい時に書きたいことを書いてたら、そのうちに炎上したりとかして、読者が増えて、ブログからお仕事もらうようになった。

引きこもりの時は、将来どうなるのかなーって思ってたけど。というか14歳からずっと不安で不安でしょうがないけど。
今やっと文章書いて、お金もらえてるから、よかったなー、って感じ。
そんなん無理だろ、ってずっと思ってたけど。

先のことは考えてないけど、バケツにしずくが溜まって、水面をつくって、いつか表面張力を破って溢れ出すだろうとは思いながら生きてきた。

で、正確にどれぐらい溜まってるかは見えないけど、ときどき、自分に問い合わせたら、
あ、いま水深五センチ、とか、
いま半分くらい、とか、
いまもうすぐいっぱい、とか、
あとちょっとで表面張力ぎりぎりだよ、とかは感覚でわかる。

資格を取ったらこうなる、とか、こんなキャリアプランを練ったら、幸せ、とかって、声高に言う人は、自分で見えるものに頼り過ぎだと思う。
そっちのほうが私はこわい。

というより、目に見えるものに頼れるほど、私、ちゃんとしてない。しっかりしてないし自信もない。
ただの非正規だし。

でも、聞かれたら今こんくらい溜まってるの、っていう、見えないバケツがあることは、よく分かってるから別に怖くない。
その存在は自分で感じられるから。

だから、将来のこと、どうやったら考えられますかって言われたら、そうやって自分のバケツに問い合わせてみてください、としか、若い人に言えないんだけど、でもみんなバケツがあるか分からないから、それも言っていいのかなー、って思う。

もしかしたら、私が人に偉そうに何か言えるのって、ずっと先かも。
歳取って、ハウルの動く城の西の魔女みたいな、指に宝石じゃらじゃら付けてるでかいおばさんになったら、やっと言えるかも。

でかいおばさんになれるかわかんないけど。

でもたまに、大きなバケツ背負ってる人、ネットとかで見つけると、すごく嬉しくなるよね。

関係ないけど、ミカサさんのブログで私のブログのこと言及されてて、発見した時おしっこちびりそうなくらい嬉しかった。
ミカサさんのブログ毎日読んでるけど、タイトル的に業務連絡なのかと思って、しばらく見逃してた。

私ははてなブログじゃないし、インタビューズやってないから、どこでお礼言ったらいいか分からないけど。

ミカサさんありがとうございました。
私もあなたのブログが大好きです。

今日は、書き逃げ。

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二村ヒトシさんのAVの撮影現場に行ってきた

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フィリップ・トルシエ監督の「工場の機械のような日本のセックス」というインタビューをウェブで読んで、ついつい今月号の「オール讀物」を買ってしまった。

 

 

スクリーンショット 2013-10-08 21.40.19

って表紙!!

桜井紫乃さんの新作小説も佐藤優のコラムもとってもよかったのに、なぜこのイラスト…。

じじいの目つきが卑猥にしか見えません。

狙ってか知らずかこのハズシ感、さすが老舗文芸誌…やり手だわ!!

 

 

それはさておき、

先週末、AV監督の二村ヒトシさんに誘われて、AV撮影現場を見学しにいった。

 

二村さんといえば、女性が攻めて、男性が受け身の、男女逆転モノのAVレーベル「マザーズ」。

私がお邪魔した現場は、

「射精伝導師」の朝宮先生(女性です)が、男優さんの性器にいっさい触れずに、オーガズムまで導く、というもの。

 

響きからもなんとなく実験的な匂いを感じるし、以前この記事で触れた、その後上手く行ってないアナル開発に関しても、何かヒントが得られるかなと思い参加してみたのだ。

 

マザーズのスタジオである、デザイナーズマンションの一室のフロアの中央に、まるで儀式の台座のように、青いシーツのベッドが陣取っている。

この日は私以外にも、8人の素人女性たちが観覧しにきていた。

仮面をつけて、ベッドの後ろに並べられた観覧席に、控えめに座る。これから何が起こるのかわからない。

 

男優さんが目隠しをつけてベッドに横たわり、撮影が始まった。

 

のっけから、朝宮先生が男優さんの耳元でなにかを囁き始める。

何を言っているのかは分からないけど、男優さんの緊張がずるずるとほどけて、どんどん身体の力が抜けてゆくのが分かる。

最初なのに、二人の間に壁が感じられない。

聞けば、撮影の前に、二人でお風呂に入って、先生がタオルで身体を拭いてあげたりとかしてたらしい。

朝宮先生は代々木忠さんの門下生らしいけど、代々木さんみたいに、催眠を使ったりはしていない。

 

そのまま、どんどん、耳や首筋、腰、背中のあたりをゆっくり触ってゆく。

浅瀬の波みたいな、やわらかい、ゆったりとしたタッチ。

 

どんどん男優さんが自我を捨ててゆくのが分かる。

そこから先は客観も主観もない世界。

愛撫が進むうちに、壇上の二人がどんどん性別を無くして、一体化してゆく。どちらが攻める立場だとか、関係ない。

 

空気はどろどろと重たく、濃密なローションの海のようで、二人の周りを満たす空間はまるで二人の身体をつなぐためだけに存在し、

傍観している観客たちは完全にアウェイ、むしろこの濃厚な海の中に一体化したい、朝宮先生と男優さんが生み出す磁場に混ぜてほしい、

ちょうど神輿を担いでる人たちを追いかけて行って自分も祭りに参加したくなるあの感じ、クラブで踊ってる人たちの輪に混ざりたいあの感じ、

いやらしいことが行われているはずなのに、いやらしさはまるでなく、いやいやらしくはあるのだけど、服も社会的な肩書きもなにもかもを取り払って人が人に作用する、その暴力性と神聖さ、仕草と行為と男優さんに語りかけるその声から溢れ出ているのは間違いなくやさしさであって、けれど、愛撫と言葉なぶりでもって問答無用で自分の世界にさらってゆく、その気迫と激しさを見ていると、朝宮さんから男優さんに向かうものを、愛だとかってそんな簡単な名前ではとても言い表せない。

母性というのはやさしさと愛にクレープ状につつまれた実は凶暴さなのではないか、と思ってしまうような、あらあらしい導き、人が人を支配するまるごしのエゴイスティックさ、ぜんぶあいまって押し寄せて撮影会場はもうまるでおおしけの海のようで、青くけばけばしい布がかぶせられた小さなベッドはまるで神殿のように神々しい。

もはや男優さんと観客である私の間に壁はなく、あーあーあーそれされたらきっついわぁ、あーそれあかんやろなうんうん、というかんじで完全に感情移入。この男優さんになりたい、最終的にはイカされたい、自分が女としていじられたいというわけではなく今ここで朝宮さんに甘えきってる男優さんに成り代わって人に託して託されて、存在自体を許してもらいたいみたいな、そこにはもう、男とか女とか、性差はなくて、えろいことを越えたところ、ちょっと成層圏つきやぶっちゃったあたりで、ベッドの上の彼と私の感覚がつながっちゃった感じで、観客の女性たちも、最初は若干引き気味ではあったけれど、最後は身を乗り出し、ベッドの上の儀式、を見つめ、まるで上質な舞台を見ている時のような、この前世田谷パブリックシアターでサイモンマクバーニーの「春琴」を見たけど、その時と同じ、舞台と観客が一体化して、舞台の上の俳優さんに身体も心も吸い込まれるような、そんな感じで、観客も男優さんも朝宮さんも、ひとつの小さなやわらかい繭の中にいて、感覚を共有しているようだった。

朝宮さんという、手の、声の、舌、の。

 

最後、男優さんが射精してクライマックス(挿入などはいっさいしない)を迎えた瞬間、みんな、拍手喝采。

「おめでとう!」「おめでとう!」って、まるでエヴァの最終回みたい。

バックに地球が見えた。

 

もうすんごい、朝宮さんに後光がさしていて、

男優さんの顔にもつるっと膜がはり、湯気が出そうなぐらいにてらてらと輝き、

 

これ、何かに似てると思ったら…

「動物の出産シーン」だわ!

 

お母さんと子供の、渾然一体となった命のエネルギーの神々しさ。

 

ディスカバリーチャンネルで放映されてもおかしくない感じ。

 

「太陽のしっぽ」っていうプレステのゲーム思い出した。

 

また、撮影中、男優さんはまったく性器に触られていないのにがんがんに感じまくっていて、びんびんに勃起してはいるものの、100%受け身の男のそれは性器というよりただの排出器官にすぎず、ただ最後に精子を押し出すだけのところてん突きの管みたいなもん。

性行為についてこれまで主役張ってきたはずのペニスが、よもや、おまけ、っつうかなんつうか、もはや男が感じるのにももうペニスいらないじゃん、的なムードで、とにかく、ここまでペニスが頼りなく見えたのは人生の中で初めてだった。

石原慎太郎が自著の中で「初めてお父様のシンボルを見たときの感想を母と娘で話し合いましょう」みたいなことを書いているらしいのだが、石原慎太郎もよもやペニスの感想に「ところてんの棒」とか「頼りないパスタ」とかは予期してないであろう。

 

監督も「おれ、撮影前に、朝宮さんに同じプレイをしてもらったけど、女性に対して、性行為のときに、構えたりモテようとしなかったのって、人生で初めてかもしれない」と言っていた。男はとにかく、風俗でお金払ってしてもらってる時ですら、モテようとしてるからね、って言ってた。

 

で、最初から最後まで、男優さんが朝宮先生にされてるのを見ていて思ったのは、

「あぁなんだ、人にされたいことって、男も女も関係ないんじゃん」ということ。

朝宮先生が男優さんにしていたことって、実は女子が男子にされたいことと一緒だし、

じゃあ、自分がされたいことを男性にしてあげたらいいんじゃん、で男性は逆に、このビデオ見て(他の男→女もののビデオではなく)女性がされたいことを学べば良いのである。

別に、代々木さんのビデオ見てても「これされたい!」とは思わなかったけど、朝宮さんのは、女性をベースに作られてるぶん、

女性がされたいこと、分かるような気がするな。

上手い男優さんをまねして上手くなるかって言ったらそうじゃないしね。

俺セックス上手いって言ってる男の人ってだいたいの場合、ずれてるもん。

あと、アナル開発が上手く行かなかった理由も分かった。

男のオーガズムってなんとなく一極集中的なイメージで、そこだけ責めてればいいような気がしてたけど、それって全然違うわ。

局所的な快楽だけを追求するってそれこそペニス的な発想だし、女の私が男の発想、してどうすんのー?って感じ。

局部の前にまず全身。受け身の快楽については、男性も女性も変わらないってこと。

それを忘れてたら、ただのヤリチンになっちゃうもんね女も。

次やる時はそこんとこ考えてしてみようと思ったよ。

 

まとまりのない感想ですが、とにかく、見に行ってよかった。

 

あと監督が飲みの場でのやんちゃな感じではなく、きりっと現場を仕切っていたのがとてもかっこよかったです。

 

監督ありがとうございました。

 

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うわっ…私の衛生観、低すぎ?コンビニの悪ふざけと、潔/不潔ラインについて

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2013-09-02 23.47.03

連日連夜のコンビニや飲食店での悪ふざけ暴露&炎上、終わる所を知らないですねぇ。

日本という国は女性の顔面から原発問題、社内の人間関係にいたるまで、表面上だけは徹底してクリーンでキレイに見せることに異常な心血を注いでいる国でして、その反動なのかこういう舞台裏が一度露呈してしまうと、みなさんとても耐性がなくて、なんてゆーか、サービスの受け手としてのプライドを崩された時の日本人の怒りってすさまじいよね。

そもそもコンビニもファーストフードも大した賃金で労働させてるわけじゃないし、大した対価払ってないんだから、そこでの従業員にまともな振る舞いを期待できること自体が不思議だなーと思うのだけど(たぶんあれ見て、80年代とかに大学生だったおっさん達で「やっべ俺もああいうことしてたわ」って人超いると思う)、

彼らがあそこまで吊るし上げられるのは、彼らによって飲食の裏側が暴かれたことで「私たちはこれまで、当然クリーンでまっとうなサービスを受けてきましたよ」という、日本が総力をあげて保ってきたメンツをことごとくつぶされた感があって、その共同幻想をぶち壊したことに対する制裁みたいな気がするな。

 

で、ですね。

私がここで取り上げたいのは、それについての是非じゃなくて。

 

私がこのニュースを最初に見た時に思ったのは、

「冷蔵庫の中に入るのって、そんなばっちいことなのかー」という感想と、次の瞬間の

「うわっ…私の衛生観、低すぎ…?」だった。

もちろん自分がコンビニの店長だったら超怒るし自分はぜったいやんないけど、アイスとかハンバーガーとかってビニールで包装してあるわけだし、直接肌が触れてたらそりゃ嫌だけど、そんな冷蔵庫まるごと取り替えたり店潰したりするほどじゃないじゃん。と思ってしまう。

けどそれってやっぱり社会的には衛生観、低いんだよ、ねぇ……。

彼らはそれが不衛生だと思ってなかったからこそやったわけで、その見る側との衛生観のズレが、多くの人の嫌悪感を起こさせたんだと思うんだけど、

こういう問題にしろ、放射能にしろ、

日常の中の潔と不潔の境目、ようするに「どこまで許せるか」っつうのは人によってほんとにバラバラで、その許せる/許せないラインがふとした瞬間に丸見えになったりするのって面白いよね。

 

共同生活なんかしてると特にそうで、たとえば私が前に住んでた6人ぐらしのシェアハウスでは、洗面所に各自の歯磨きとか洗面用具が置いてあるわけなんだけれども、歯を磨いた時の口をゆすぐようのコップはなぜだか誰が置いたのかわかんない一個がポツンとあるだけだった。てことはそのコップの持ち主以外はみんな手ゆすぎ派か、そうじゃなかったらそれを数人で使い回してるに違いなくて、私(手ゆすぎ派)的には(使いまわすのってどうなんだろう…)感はあったものの他人のことだしわざわざ確かめるのもなんだし…と思い、他の皆も真相を知るのが怖いのかなんなのか、数年住んでて誰もそのことに言及しなかった。

 

で、ある日、住民総出で家を掃除してた時、私は衝撃的なシーンを見てしまった。

 

なんと、住人の中でもキレイ好きで知られるRちゃんが、あの、洗面台の栓の部分、髪の毛とかごっつ詰まるとこね、あれを、ひっこぬいて、あの、誰のか分からないコップに、洗浄液を注いで浸しているのを…!!

私が「えっ」て顔して固まったのを見たRちゃん、平然と「えー、やっぱダメー?あとでゆすぐからさー。」
そのあまりの平然ぷりに私は黙るしかなかった。

そのコップ、Rちゃんのだったのか…という気持ちと、もしそうじゃなかったらどうなんだろうという気持ち、そしてRちゃんが良いって言ってるのならまあいいのかな…という気持ちが胸でマーブル模様を描き、結局何を言っていいのか分からずその場を離れてしまったのだけど、その後、ふとした拍子にその事を別の同居人のJくんに話したら、Jくんその場で思いっきり「おえええ」ってリアルえづいてて、そりゃそうだよね、ってことはJくんあのコップ使ってたんか、それはいいけど、他人と共同で使うものは当然他人の不潔/潔ラインに当然委ねられるわけで、自分が知らないところで何が起こってるかは分からないものだよな…この場合、洗面所を綺麗にしたい一心でやってくれたRちゃんに罪はあるんだろうか…という、色んな気持ちで、また胸の中はまだら模様になったのだった。

 

えてしてこんなふうに、何が不潔で何が潔なのかという基準は人によってさまざまで、生活の事ある場面で潔/不潔の合意を他人と取っていくのってけっこう勇気がいることだなあと思うんだけど、

そのうち最も他人と確認取りにくいのはやっぱり「性」の領域だ。

たとえば私はお風呂に入った時、全身洗うのにボディソープをついぞ使ったことがない。(タオル派)というのもこれは齢90になるのに未だ真珠のようにお肌ピカピカなうちのおばあちゃんの「皮膚は擦らなければ擦らないほど若さを保てる」という絶対的な教えを子どもの頃から深く刷り込まれているからなんやけど、

その話を超美容マニアかつオーガニック&ナチュラル生活のコンサルタントである美の巨匠、Bちゃんにしたところ、あからさまに引かれたので、あわてて

「でもさすがにまんこ等はちゃんと石鹸で洗ってるよ!!!」と弁明したところ、Bちゃん

「えっ、まんこは石鹸で洗っちゃだめなんだよ!!!!」と一喝。

今度は私が死ぬほどびっくり。

なんでもボディソープなどの石鹸類には膣などのデリケートな粘膜を守ってくれる大事な細菌までをも殺してしまう成分が入っており、そういうのでまんこ洗うのは厳禁らしい。

「じゃあ何で洗うの?」と聞くと

「水。」 

そっ、そう…。彼女がいくらオーガニック生活の師匠とは言え、さすがにこれは真似できなかった。

 

さらに、同性同士以上にそのへんの価値観がすれ違って困るのはやっぱり男女。

例えばセックス前にシャワー浴びる浴びない問題だけど、私はイキオイ重視なので相手が嫌がらない限り浴びなくて全然OK派なんだけど、ある時付き合った相手が「シャワー浴びないと絶対セックスしたくない派」で、それは「私が」ではなく「彼が」で、「美由紀ちゃんいいから、僕入ってくる」と毎回毎回、彼が風呂に入らないうちは絶対セックスさせてくれず、体臭好きの私にはそれがつらく、おまけにキスも、(彼が)歯磨きしたあとじゃないとさせてくれなかった。それでいて彼は私の歯クソとか目やにを舐めとるのが大好きという奇特な趣味の持ち主で、その不可解なギャップもあってか結局その人とは長続きしなかった。

こういうの、今どき男子って言うの、どうなの、わからないけど、あと別の相手で、自分の排便時の付着が気になってしょうがないから一週間に一回Oライン周りの毛を必ず剃ってる、という人もいたな。それ聞いた時のマジング感はすごかったけど、相手のデリケートな心情を思うと「気にすんなよ」って言えなかった。

衛生観の不一致って、男女の付き合いに多大な影響をおよぼすよね。私はもうちょっと寛大な人がいいな…と思ってたら、現代ビジネスでこんな記事を読んでしまい…。

“女性の子宮頸がんの原因となるヒトパピローマウイルスは洗っていない不潔なペニスから感染します”

ひ、ひえー。超怖い!!!!!
好きな人のチンカスくらい、まぁいいじゃん、って思ってたけど、チンカスで癌になったらさすがに浮かばれない。今度から気をつけよう。

自分は気にしなくても健康的には超NGってこともあるもんだね。

そういえば女子の恋愛本とかHOW TO本とか読んでると必ず「フェラチオしたあとにキスしてくれない男はやめとけ」的なことが書いてあるんだけど、じゃあアナル舐めはどうなん?とか色々考え…………
ごめんなさい、もうやめます。

 

とにかく。

 

何が言いたかったかというと、こんなふうに自分にとってはごく当たり前の潔/不潔ラインに基づいて「セーフ」だと判断してる行為も、他の人からしたらガンガン不潔エリアに入ってるかもしれないわけで、それを考えると、コンビニの店員さんの悪ふざけとか、不衛生な行為も、なんか、とやかく言えんなー……という気になってしまい、ばかだなーとは思うけど、やっぱり叩く気にはなれないのだった。

同じ共同体に属する他人は自分とだいたい同じくらいの価値基準で生きてくれてるっていう共同幻想は、できれば壊されたくないものだけれど、でもやっぱり、他人はみんな、隣にいる人だって、全然違う世界で生きてるんだよね。

 

ちなみに私は冷蔵庫に入られるより、路上や駅で酔ってゲロ吐いてるおっさんのほうがよっぽど嫌。金銭が介在してなかったら何やってもイイと思ってしまうほうがよっぽど問題だし不潔だわ。

 

ちなみにこれまでの人生の中で潔/不潔パラダイムが大転換した出来事があったのは、世界一周中のパキスタン。路上の安食堂で、オープンキッチンになってて客はみんなキッチンの前に並んで出来上がるのを待つ方式のとこで、ちょうど料理人のおっちゃんが鉄鍋で野菜を炒めてたのね。そしたら突然厨房の影からネズミがダーーーー!!!って走ってきて、コンロの角でこけて、こともあろうにその鉄鍋にドーン!て落っこちた瞬間、その場にいた全員が「あっ」って空気になったんだけど次の瞬間そのおっちゃんが目にも留まらぬ速さで野菜ごとそのネズミを食材用のゴミ箱にボーン!て放り込んで、そのへんのトイレットペーパーかなんかでちょいちょいってフライパン拭きとって、何事もなかったかのようにまた平然と油引き始めた時。

そんでその事に「あっ」てなってたのが私以外に誰もいなかった時。

 

私はもう、この世のすべての、自分以外の誰かが作った食べ物に関しての、一切の不潔は諦めよう、と悟った。

 

他人にあんまり期待しないほうが、ラクに生きられるよ。

 

 

 

 

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「旅ラボ」さんに世界一周とスペイン巡礼についてインタビューされました。

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手放していく旅 | TABI LABO – 旅を科学する、旅ラボ

 

世界一周の旅に出たのは、大学3年生の時(2007年)。

あまり世界一周人口も(そこまで)多くなく、私にとってお手本といえば沢木耕太郎さんの「深夜特急」のみ。(出発前に、中田に先越された…とか悔しがってた思い出が…。)

それから6年経ち、ローコストエアラインの爆発的な普及とネットでの旅の情報検索が容易になったことから、世界一周する人もずいぶん増えたように感じます。

 

ひねくれ者なので「世界一周した」というのが恥ずかしくてこれまで語ってこなかったんだけど、最近は旅関係の仕事も増え、スペイン巡礼記も多くの方に読んでいただけるようになって、ようやく「旅が好きです」と言えるようになりました。

今でも取材で、リュックサック一つ持って飛行機に飛び乗る時が一番興奮します。

やっぱり旅が好きだし、仕事で旅をしている時が一番楽しい。

もっともっと旅と関わりたい。

 

ブラジルのジャングルに飛行機が墜落してもピンピンしてた沢木耕太郎さんみたいに、

死ぬまで現役で、死ぬまで世界中飛び回ってるかっこいいおばさんになりたいな、と今は思っています。

 

インタビューでは「ブームに載って世界一周とかするな!」と生意気なことを言ってますがw

若い人にはどんどん旅してどんどん新しい世界を広げていってほしいなーと思います。

旅好きの方はご笑覧下さいませ!

 

手放していく旅 | TABI LABO – 旅を科学する、旅ラボ

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軽さと強度

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2013-08-03 00.05.16

8月のとある土曜の夜、渋谷でくろねこさん(参考:僕がナンパをしなくなった理由 – くろねこ日記 http://htn.to/gN8eS1V )とナンパをした。

 

くろねこさんのナンパは病的に繊細だ。

自分を極細の糸にして、相手の肩の上にそっと垂らすようなナンパをする。

繊細すぎて、傍から見ているとちょっと怖い。

けど、そういう風に扱われたい女の子にとっては嬉しいんだろうな、と思う。

 

終電後の渋谷は、崩れて閉館した水族館のようになる。

人のいなくなった広い道に、誰も通らない広い道に、するりするりと人が現れては、ふわりふわりと、どこかに泳いでゆく。

割れた水槽から水が出てしまって、行き場をなくした回遊魚が、とりあえずいつも泳ぐコースを泳いできます、といった感じで、街のどこかに流れて消える。

 

そういう人たちが歩いているのを見るのは、楽しい。

皆、どこにいくのかわからない。匿名性が彼らを夢の中に閉じ込めている。

本のページの間にふいに現れる、はさんだ覚えのない白い紙と同じくらい、彼らは私にとって未知で、なんでもなく、謎の存在だ。

 

人影もまばらで、ナンパする対象もいなくなってしまったので、フォーエバー21から少し離れたガードレールに座って街を眺めていた。

くろねこさんは退屈そうだった。

退屈ですと言われたので、私は楽しいです、と告げると、えっ、こんなのが楽しいんですか、という顔をされた。

 

目の前でエクセルシオールカフェの扉を手分けして閉めているバイトがいる。

女性を両脇に抱きかかえて目の前のしょぼいバーに消えてゆく男がいる。

 

渋谷はスクランブル交差点を中心にした蟻地獄みたいだ。

蟻地獄に吸い込まれて、街にぐちゃぐちゃにされて、でも絶対に街には同化せずに、みんなどこかに、最後にはさらりと、流れて消えて行ってしまう。

彼らはどこから現れてどこから消えるのだろう。

 

くろねこさんがiPhoneをいじりはじめたので、本格的にすることがなくなった。

 

ふと、ガードレールの少し離れたところに一人の男の人が座っているのに気づいた。待ち合わせふうでも、どこかに行くふうでもなかった。

ナンパしているのだろうか。

何度か目があった。

ふいに、あの人が何故、ここにいるのか知りたくなった。

あの人と話してみたいな、と思った。

あの人に声をかけていいですかと言ったら、くろねこさんはいいですよと言ったので、まっすぐ目を合わせたまま、その人に近づいた。

その人は目を逸らさなかった。

 

近づくと、彼の前歯のキレイさが目についた。

夜の闇の中で、あまりに歯ばかり目立つので、思わず「歯並びいいですね」と言ってしまった。

ナンパしてるんですか?と聞いたら、違います、と言われた。

話しかけても、相手が動じないので、逆にびっくりしてこっちが緊張してしまった。

焦って、へんなふうになった。

 

その人は心理学系の院生で、専門学校で社会心理学を教えているらしい。

だから動じないのかなと思った。そのまましばらく話をした。

彼は終電を逃して、途方に暮れていた。飲みに行きましょうと言われて、セックスがしたいわけでも、アルコールを飲みたい気分でもなかったので、断った。そのままたわいもない話をし続けた。

私がナンパをしている間、くろねこさんはどこかに行ってしまった。

彼とは番号を教え合って、別れた。

 

私が欲しかったのは、これなんだな、と思った。

 

帰りながら、昔のことを思い出した。

大学2年の冬、留学準備でフランスに短期滞在していた時、同じ時期にパリに来ていた女友達とクラブに行くことになった。

外国で夜遊びするのは初めての経験だった。

季節は冬で、日本から持って行ったコートは、まるでへびの皮のように役に立たなくて、私たちは歯を食いしばりながら、夜の街を歩かなければならなかった。

セーヌ川に浮く船の形をしたクラブの中で、着飾っている私たちよりもずっとカジュアルなのにずっと美しいパリの若者たちに囲まれて、ハートランドの淡い匂いと、靴の底でポテトチップスが砕ける音と、日本よりもずっと悪いサウンド・システムから流れる音に包まれて、その全部が嬉しくて、興奮して、はしゃいで、踊った。

明け方。

泥酔した白人客のざらざらしたあたたかい肌と、湿って貼り付くTシャツに、辟易しながら門をくぐった。

途中、何度かナンパをされたけど、とにかく寒くて、早くメトロの入り口にたどり着きたかった。

 

誰もいない、始発間際の地下鉄駅の構内は、しんとしずまりかえっていて、巨大な筒のようだった。

寒さがとなりの駅からとなりの駅までふき抜けていき、居てはいけない場所にいるような気分だった。

始発までは幾ばくもなかった。

ポケットの中の小銭で、戯れに自販機のジュースを買おうとして、コインの投入口に手を伸ばした。

 

「〜〜〜〜〜、〜〜〜〜」

 

その時突然、一人の男に声をかけられた。

青白い顔で、マイケル・ジャクソンをかっこよくしたかんじ。黒づくめで、毛足の長いコートを着ている。

見るからにあやしい。

 

とっさに話しかけられたフランス語を聞き取れるほど、私も友達もまだ、語学に長けていなかったので、

「やばい、へんなひとだ。どうしよう」と、とっさに身を固くした。

相手は何ひとつテンションを変えず、同じ言葉を繰り返しながら近づいてきた。あまりに淡々としていたので、私も友達も動けなかった。

近づいて、ようやく彼が何を言っているのかわかった。

「その自販機、壊れてるよ。さっき僕が買おうとして、出てこなかったから。」

 

そこから、メトロに乗って、別れるまで、会話をした。

彼はパリのファッションの専門学校で学んでいて、同い年で、クラブになぜか一人で行き、帰る最中なのだった。ナンパをしに行ったのではなさそうだった。

始発に乗り込んで、メトロの轟音と、頭のおかしなおばあさんが、それにも負けない大声で政治的主張をがなり立てているその横で、切れかけた蛍光灯がフラッシュして時折訪れる闇の中で、私たちは互いのことを話しあった。

そうするのが当然という気安さだった。

フランクな外国人に話しかけられることは度々あるけれど、それとはまた違った、繊細なものがふとした瞬間にむきだしになる気安さだった。

彼は2日後、自分の立ち上げたブランドのファッションショーがあると言って、私たちを招待してくれた。私は行けなかったが、友達の女の子は自分で服を作るぐらいファッションが大好きだったので、頬を真っ赤にして喜んだ。

目的の駅に着き、彼は何も言わず、番号も交換せず、ショーの会場の地図だけを渡してメトロを降りた。

日本のことは、好きでも嫌いでもないと言っていた。

 

今でも、彼の黒い目と黒い髪と、雪に濡れた真っ黒なコートを時々思い出す。

 

私がナンパに興味があったのは、このためだったんだな、と思った。

 

私が欲しかったのは、彼の持っていた、この軽やかさなのだ。

 

この、声をかける、という行為は、心が低い位置にあると、絶対にできないのだ。

沈む気持ちを、他人への恐れにつぶされて沈殿する感情を、すっと引き上げる、この軽さ。

陰鬱さ、他人の視線への恐怖、自意識を手放して、一瞬、その回路を切って、

自分がたどりつける、上まで、手をのばす、足を離す、その軽さに、私は憧れているのだった。

 

上の光源に向かって手を伸ばす、重力のかからない心。

始発前のメトロのなんでもなさ、汚い椅子のなんでもなさ、自動販売機のなんでもなさ。

 

そういう軽さを持った人はなかなかいない。

 

社交の場で出会うような、プラスチックの模造品のような軽々しさで武装した人たちのことではない。

社交的な場で、社交的にふるまっている人の中に、話したいと思う人に出会ったことがない。

彼らは一様に、コミュニケーションが下手なのを隠そうとして、社交的なふるまいを選択する。

 

けれど、実際に彼らは決して軽やかではない。

 

腹の中に沈殿した欲望、自分を売り込みたいという欲望、異性を口説きたいという重い欲望を抱えて、でもそれをむき出しにできないから、隠すために、軽さを演出する。いいねと言い合う。

他人に突き刺したい欲望を抱えているのに、それを突き刺せずに他人のまわりでうろうろしている。

 

そしてそれを突き刺せたからって、別にえらいわけじゃない。

知らない他者と向かい合える強度は、決して自分の欲望に支配された重さではない。用意周到に作り上げた即席の軽さでもない。全てを捨てた時に訪れる軽さだ。

その軽さのある人には、どんなにコミュニケーションを考えても、上手くなっても、異性を手に入れられるようになっても、敵わない。

 

私が尊敬している人の一人に、朝日新聞で「プロメテウスの罠」を連載しているジャーナリストの依光隆明さんがいる。

 

依光さんはえらいけど威張らない。

取材のために、田舎道で人に話しかける時、山の中で人に話しかける時、何も背負わない。相手に何も背負わせない。

人の話を聞くために、スーツで、田舎の泥の掘り起こされた畑にしゃがみこむ。

でも、してやってるという感じが一切ない。常に、誰に対しても、何も背負わせない。

その軽やかさが強度だと思う。

 

他人をコントロールできるのは強さじゃない。やろうとすればするほど傷つく。どんどん弱くなってゆく、弱くなるから、それを反転しようとしてどんどん他人をコントロールしようとする。ある種の洗脳に近い。冬の私は、なんでそれに気づいてなかったんだろう。

高石くんに、前に「小野さんに文章書けなくさせるのは簡単だよ」とか、「小野さんはトラウマだらけだね」とか言われてすごく嫌だったけど、同時に、人に支配力を持つのってなかなかつらいんだな、と思った。
カウンセラーとか占い師とかで、力はあっても本人が全然幸せそうじゃない人たちは、そんなかんじ。自分の弱さをかき消すために、他人に力を使う。

 

男とか、女とか、知らないとか、知っているからとか、関係なくあらゆるものを飛び越えて、その時、話したいと思った相手、触れ合いたい相手と触れ合える軽さ。

 

生まれとか生い立ちとか社会的立場を飛び越えて、空中ブランコのてすりを放して、空中で相手の腕をつかむあの感じ、あらゆる重力から解き放たれて、相手に手を伸ばせる、一瞬の自由。

他人に突き刺したい欲望を一旦全部捨てること。

ただそこにいる相手を発見する軽やかさ、 あの、パリであった男の子みたいな、一瞬の軽さを取り戻したくて、私は人に声をかけることに興味があった。

単純に、自分の陰鬱さ、すぐ重く下がる心が嫌で、それを無くしたかった。

それは多分、いくらコミュニケーションの事を考えても、ナンパしても、手に入らないものなんだなと思う。

 

 

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facebookと嫉妬とカースト

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写真 (1)

最近引き続き、女子大生間におけるカーストや専業主婦のカーストについて調べている。

インタビューしてみて分かったのだが、彼女たちが互いを格付けする時、どうやらfacebookが多大な影響を与えているらしい。

あるママ曰く、

「自分より収入の多い旦那さんと結婚したママ友が、豪華なホテルに泊まってたり、豪華なレストランでディナーをしてたりすると、凹む」
「独身の友達が豪華な旅行に行って居たり、高級ブランドで買い物してたりすると、嫉妬しつつ『いいね!』を押してしまう」そうだ。

 

なんか、悲しいなあ、と思う。

 

もちろん私だって、
オーストラリアに移住した女友達が現地で出会った中国系大富豪と結婚し、ヨットハーバー付き豪邸を購入してるのを見たりすると、さすがに羨ましいなと思ってしまう時も、ある。

 

でも、facebookには、他人に嫉妬するよりも、もっと楽しい使い方がある。

 

大学一年生の時の私は、本当に冴えなかった。
仮面浪人に失敗し、自暴自棄になっていた私は、知人の紹介のまま、とあるマイナースポーツのサークルに入会した。

そこは慶應の学生とは思えないほど冴えない男女が集う場だった。
大学入学前に思い描いていた「イケてる男の先輩」はどこにもおらず、
高校の時は確実にクラスの2.3軍、下手すると誰とも喋らずに便所飯を食べていそうな、そんな人たちが集まっていた。

きっと童貞率80%、処女率90%ぐらいだったと思う。

 

今から思えばそんな所に入らなければ良かったのだが、仮面浪人に失敗して自己評価がどん底にまで落ちていた私は
(自分ぐらい冴えない人間には、これぐらいの場所がお似合いだ…)と思い込み、そのスポーツのルールすらもろくに知らないまま入会した。

 

そのサークルの、同学年の女の子たちの中に、ボスザル的なポジションの女の子が二人いた。

見るからに処女で、髪型も容姿も垢抜けず、

底意地の悪さと、しょんべんくさい性格が、顔全体に現れているような女の子たちだった。

なぜか、私はその二人から嫌われていて、ことあるごとにイヤミを言われたり、つらくあたられたり、無視されたりしていたが、私も当時は処女で同じぐらい垢抜けなかったので、カースト上位の彼女たちに言い返す術もなく、なんでだろう…と思いつつも黙っていた。

しかし、ある日、その理由を彼女たちが話しているのをこっそり聞いてしまった。

「だってね、◯◯ちゃん(私)、初めてサークルの練習に来た時、電車の中で××先輩の隣に座ったんだよ?信じられる?」

 

この子たち、頭がおかしいのかな?と思った。
今時幼稚園児でも言わないようなセリフを、よりによって、最高学府の学生が口にするなんて。

更に、私がその××先輩と入会後に速攻で付き合い始めたこと(その冴えない集団の中では、一番マシに見えた)も、どうやら彼女たちが私を気に入らない原因の一つらしかった。

 

くっだらねー。

 

私はすっかりそのサークルへの意欲も、彼女たちと仲良くなる気も無くし、留学を決意してから速攻でそのサークルを辞めた。

 

それから7年経った今、当時のサークルの人たちが、少しずつFacebookで友達申請を送ってくるようになった。

彼女たちも、当時と同じ厚かましさで友達申請を送ってきた。

 

お前らの友達だった覚えはないよと思いながら、

私は彼女たちのタイムラインをチェックする。

 

彼女たちは、あの頃と変わらない冴えなさでそこに居た。

相変わらず冴えない服装に冴えない見た目、性格の悪さが全面に溢れ出た容姿。

彼女たちは、その抜群の冴えなさで、
相変わらず冴えないサークルの先輩たちとつるんで、冴えない居酒屋で冴えない飲み方をしているようだった。きっとあの頃と同じ、仲間内の噂話しかしていないのだろう。
そして、抜群に冴えないドレスを着て同じサークル仲間の結婚式の写真に写りまくり、抜群に冴えない余興をし、抜群に冴えない店でデートしているようだった。

 

私がさっさと抜け出した、その冴えない人たちによる冴えない世界が彼女たちの全てなのだった。

 

他の世界を彼女たちは知らない。

彼女たちはこれから、同じように冴えない相手と結婚して、冴えない安定した生活を送るのだろう。

性的魅力も乏しそうなので、旦那にちょいちょい浮気されながら、冴えない自分にそっくりの子どもを再生産して、幸福でも不幸でもない冴えない人生を送るに違いない。

 

そう思うと、ふつふつと身体の底から嬉しさが湧いてくる。

私を苛めていた人たちが、自分よりも下の世界にいることを、改めて確認できたことに。

 

私は夢想する。

いつか、豪華客船で世界周遊している写真を、いつか、誰もが知る著名人と飲んでいる写真を、いつか、ドバイの水中ホテルでくつろいでいる風景を、facebookに投稿して、冴えない専業主婦になった彼女たちに「いいね!」を押させてやることを。

 

冴えない彼女たちが、冴えない男の先輩たちを見下しつつもそのぬるま湯にどっぷり浸かっている彼女たちが、
一生かかってもできないような、体験をしてやる。

そして、その頃の自分はきっと、それを自慢とも思っていないだろう。だってそれが自分の日常なんだから。

 

彼女たちの冴えない写真が、タイムラインに流れてきた瞬間が、facebookをやってる時間の中で一番、楽しい。

 

今の自分の身分なんて、関係ない。

見返してやりたい人間の日常に、いいね!なんて押してる場合じゃない。

 

つまらないのに惰性でfacebookを開いて、「この人誰だっけ…」と思いながら一度パーティーで会っただけの人の投稿に「いいね!」を押してあげたり、

寝不足になりながら集合写真の上司の顔にタグ付けしてやったり、

友達の結婚式の写真に嫉妬しつつ「おめでとう^ ^」と書きこむくらいなら、

facebookなんて、これくらいの付き合い方をしておけばいいのだ。

 

どうせ、自分が嫉妬している世界と、相手にとっての現実なんて全然違うし、

自分の現実と戦うほうが、ずっと面白いんだから。

 

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「自分探し」したい人に、スペイン巡礼の旅をオススメする7つの理由

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巡礼イントロ

先日CIRCUSの「旅ラボ」さんから取材を受け、過去経験したスペイン巡礼について話しました。

スペイン巡礼の道(カミーノ・デ・サンティアゴ)とは

スペインの北西端にある都市「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」(キリスト教の三大聖地の一つ)を目指し、フランス南部から続く全1170kmの道(途中どこからスタートしても良い)を歩く、言わば『スペイン版お遍路』。
毎年、世界中から集まった約2万人が徒歩、自転車、馬など自由なスタイルで聖地を目指す、人種のるつぼの道。

2度も歩くほどにドハマりし、進路や就職に悩む人に「とにかく行って来て」と薦めまくり、実際歩いた全員に「行ってよかった!」と言わせている、カミーノ・デ・サンティアゴ。

日本ではマイナーなレジャースポットであるスペイン巡礼について、オススメする理由を7つにまとめました!

 

1.宿が激安!!費用がかからない

巡礼者たちは、巡礼路沿いの町や村の「アルベルゲ(巡礼宿)」に泊まれます。
スペインはキリスト教協会がめっちゃ金持ってるからか、驚くほど宿泊料が安い。だいたい5€前後。
中には、完全に「ドナティーボ(寄付)」で成り立っている宿もあり、タダでも泊まれます。

巡礼宿って、どうせボロボロなんでしょ…?と思うなかれ。
中には新しくできたばかりで、グッゲンハイム美術館かい!と思うくらい現代的でオシャレなアルベルゲも。

私は20日かけて全500kmの道のりを歩きましたが、宿代は全部で1万円くらいでした。もちろん、野宿すればタダです。

巡礼者のパスポートである「クレデンシャル(巡礼証明書)」を持っていれば、宿泊可能

 

2.メシがめちゃウマ&低コスト

巡礼路はスペイン北部、バスクから北西部のガリシア地方まで、7州を貫く一本の道。
州が変わる毎に異なるグルメが楽しめます。
しかも田舎だからめっちゃ安!自炊すれば食費も1日10€前後と、ほとんどかかりません。
レストランで食べたとしても、バルセロナやマドリッドに比べたら「えっ、こんなんでいいの?」と思うほど低価格で大ボリュームのスペイン料理が食べられます。

そしてワインは水より安い!

蛇口をひねればうどんが出てくるのは香川ですが、蛇口をひねればワインが出てくるのがスペインです。

一日の歩き終わった後に、巡礼宿の芝生の庭で、太陽の光を浴びながらワインをがぶ飲みするのは、め〜〜〜っちゃくちゃ気持ちいいですよ!

道の至る所にワインのブドウが山積み。

 

3.世界中の人々の多様な人生観に触れられる

巡礼路には世界中からあらゆる人種・階層・職種の人々が集まります。

アメリカの大企業の社長さんから、ギャップイヤーの学生、失業中の若者、5歳の男の子、リタイヤしたおじいちゃん、ブラジルのエリート、メキシコの牧師、南アフリカの大金持ち、ホームレスetc…

彼らが、それぞれの出自や身分などまるで関係なく、助け合い、聖地を目指します。
敬虔なキリスト教信者もいますが、最近ではもっぱらレジャー化しており、みんな目的は「自分探し」だったり、次の仕事のことでもゆっくり考えるわ〜、だったり、リタイア後に何しよう?だったり。

ピーク時の7、8月には、毎日200人ほどの「人生の夏休み」状態の人が集まり、人生について語りながら、ワインを飲みつつ楽しく道を歩いてゆく。

こう書くと暑苦しくて嫌だなと思われそうですが、そこはヨーロッパの個人主義。人間関係は非常にドライでフラット。

それぞれ価値観が多様すぎて、日本の狭い価値観なんて、本当にどうでも良くなる。

どうでもよくなった状態で、

「じゃあ、自分にとって人生で一番大事にしたいものって、一体なんだろう?」と考えられるのが巡礼のよいトコロです。

 

4.痩せてエエ身体に!!

巡礼では、毎日自分の好きなペースで歩けます。
だいたい1日25km〜35km前後。

一日6時間も深い森の中や山道を歩き続けるので、自然と筋肉がついてエエ身体に…。
スペインの油ギットリな料理とワインがぶ飲みしても太らないのが巡礼のいいトコロ。

じじい

 

 

5.風光明媚な土地や世界遺産が楽しめる

スペインといえば世界遺産。当然、歴史の古い巡礼路には有名な世界遺産建築がゴロゴロ。
有名どころではアストルガのガウディの教会や、ポンフェラーダのテンプル騎士団の要塞など。

また、大自然の美しい景色もそこここに。
私が一番感動したのは、巡礼路の一つのハイライトである、標高1000mのセブレイロ峠。
頂上でくたくたに疲れて眠りに着き、朝起きると、当たり一面、雲海に!昨日自分が登ってきた道が雲に埋め尽くされているのは言葉にならない感動でした。

6.語学が上達する

色んな国の人が集まるので、会話は英語中心。(フランス・スペイン人が多いのでそれらも)

下手したら一日中しゃべりまくることもあるので、
「2週間、語学留学したけど全く話す機会のないまま終わった…」となるよりはこっちのほうがよっぽど上達します。

英語全くダメ〜!という人でも大丈夫。スペイン人のおじいちゃんとか、英語全く分からないのにガン無視で話しかけてきますからね。「なんとなく」で通じるのが巡礼ワールドです。

 

7.「自分と対話する時間」が持てる

巡礼では一日の約半分を歩いて過ごします。

みなさんは普段の日常の中で、どれだけ歩いていますか?
なんの目的もなく、ふらっと長時間歩くことなんて、人生でそう多くないですよね。

カミーノでは歩いていると、嫌でも一人になる時間がやってきます。
一人きりで大自然の中をひたすら歩くのは、まさに「自分との対話」。

 

自分が本当にやりたいこと、というのは、
外や、周囲の意見や、SNSなんかを探していても見つからなくて、
ある日突然、脳の内側からせりあがってくる。

「こうならなきゃ」とか「これになろう」とか思っているうちではなく、
身体を酷使して、疲れて、くたくたになって、やっと空っぽになった時に、それはやってくる。

自分でひねり出すものではない。

空っぽの大地に湧く水のように、ある日突然あふれだすもの。

その「空っぽの自分」になれる浄化作用が、この巡礼の道には、ある。

日本でどんな環境でも、どんな生い立ちでも、どんな悩みを抱えていようと全く関係ない。

自分の内面を見つめながら、黙々と歩き続けることで、ふっと、次の道が見えてくる場所。

 

===
「自分探し」っていうと、なんだかかっこ悪いし照れくさい。

けれど、人生には一度くらい、どん底にまで追い詰められて、生きる気力も湧いてこず、
顔に青線(ちびまる子ちゃん的な)立てつつ
「もう自分探しくらいしかすることねーよ…」とつぶやきたくなる時があったり、する。

私は就活でパニック障害になり、もう人生どん底…という時に、藁にもすがる思いでこの道を歩いた。

その結果、巡礼のゴールで本当にやりたかった事が分かり、今それで食べている。本当に幸せだ。
黙々と、ただひたすら歩くことで、思っても見なかった自分が、内側からひょいっと見つかったりも、する。

“自分探し、カッコ悪い”んだけど、カッコ悪い自分を全部吐き出して、捨てて、「次に行こうかな〜」と思えるのが、カミーノ・デ・サンティアゴ。

 

と、いうわけで、

「将来なにしたいかとかわかんないしー、“テーマのある旅”とか流行ってるけど、別に途上国とか暑いし汚いから行きたくないし…。でも、就職もしたくないんだよねー」

と、ダラダラTwitter見ながらエアコン効いた部屋でアイス食ってる若者には今すぐカミーノを薦めたい!!!!

パツキンのチャンネーとワンチャンもあるから!!!マジで!!!

(巡礼宿はセックス禁止だけど、深い茂みなら至る所に…!!)

 

むちゃくちゃな結びになりましたが、
素敵なスペイン巡礼をする人が一人でも増えることを祈ってます!!

ブエン・カミーノ!!

 

 

★旅する若者を応援するWebサイト「TABILABO」さんのインタビューでも、スペイン巡礼と世界一周について話しています。
カミーノに興味のある方はこちらも合わせてご覧ください。
http://tabi-labo.com/tabi-athlete/onomiyuk/

 

↓カミーノについて詳しく知りたい方はこの2冊がおすすめです。

 

 

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風呂ナシ生活のスゝメ

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スクリーンショット 2013-07-18 17.40.28

風呂のない家に住んで半年が経つ。

今のところ、不自由はしていない。

 

最初に風呂なしの家に住もう、と思ったのは、家賃をおさえる意味ももちろんあったけれど、

単純に、銭湯通いをしたかったからだ。

生活の中に、自分だけのリズム、自分なりの、人生の起点を作りたかったからだ。

 

昨年の11月ごろの私は、いろいろなものや人に振り回されていて、ボロボロだった。

十二指腸潰瘍になって、仕事を辞めた当時の私は、あばらが浮くほどやせこけ、夜中に胃の痛みで飛び起きるせいで昼間はいつも朦朧としていた。

人生の中に、一日の中に、自分の基準がどこにもなかった。

仕事や人間関係で膿むのは、それ自体が問題なのではなくて、
自分を棹さす地点を、どこにも持っていないからだ、と思った。

 

昔、家をもたず、京都や東京をふらふらしていた時の経験で、銭湯のよさは感じていた。

どうせひまな人生だ。

銭湯に行く、その30分とか1時間の時間を、一日の起点にして、そこから一日のサイクルを作りたい、と思った。

たとえ生活の中で、なにかに振り回されたとしても、そこだけはぶれない、人生の中の自分だけの起点。

 

不動産屋さんは、女の人にはおすすめしませんよと言いながら、意外と簡単に部屋を探し出してくれた。

渋谷からひと駅。駅徒歩2分。

渋谷にも原宿にも歩いて行ける。

1K10畳、前年度リフォーム済みで家賃4万5千円ポッキリ。

なんのことはない。

「風呂がない」というだけで人々の選択肢から除外されているだけで、その条件さえ気にしなければ、格安の優良物件が、ちまたには溢れているのだ。

 

友人たちに銭湯通いを始めた、と言うと、「大変だね」とか、「高くない?」といわれたけれど、

月1万円かそこらで、だだっぴろい風呂(掃除つき、ガス・水道代含)をアウトソーシングしていると思えば、たいへんいごこちがよい。

月のガス代はだいたい1200円で横ばいだし、
たぶん、風呂代をプラスして5万7千円前後で風呂つきの家に住むより、ずっとよい生活をしていると思う。
(恋人と「神田川プレイ」ができるのも、楽しい。)
 

 

それ以上に、銭湯通いは大きな効果をもたらしてくれた。

 

銭湯には、他人がいる。

空間の中に、他人の裸体がみっしりとつまっていて、

それらは性的でなく紐解かれ、たがいの気配がたがいをほぐしあう。

そのことが、わたしをおちつかせる。

 

客のうち、代々木公園のランナー以外は、ほとんどが近所の商店街のおばちゃんだ。

彼女たちの

「あすこのテナントのオーナーはすこぶる態度がわるい」とか

「あすこに入った店はいつも半年ともたずにつぶれる」といったうわさ話を聞きながら、

広い湯船につかっていると、

他人の人生が、数限りないひだをもって迫ってくる。

 

電車の中で、仕事先で、街で、

これだけ多くの他人にもまれて生きているのに、

これほど密に、他人の人生が感じられる場所を、

わたしはほかに知らない。

 

銭湯は私にとって、命のつまった神聖な祠だ。

 

洗い場で、シャワーに髪を任せながら、首を90度かたむけて、

清潔な湯船にたゆたう、三十路前後の白い乳房が、おなじ乳白色の蛍光灯の光を反射しつるりと輝くのを見ると、

今、まさに生きている、なんとはない、他人の人生が、網膜にきつく迫ってくる。

 

陽の光が差し込んで白くけぶる海中に、遠目に揺れる珊瑚のような、細く淡い血管が、

血がめぐり、赤みを帯びた女性の臀部のやわい皮膚のしたに、本人にも知れず浮かびあがるのを見ると、

肉の下に重層的に刻みこまれた、ひとりの人間の歴史が宇宙のように私を取り囲む。

 

肉をすべて、家族のために使ってやってしまって、皮の袋みたいになった老人たちのからだ。

美しい老いもあれば、悲しい老いもある。

シャワーで泡を洗い流したあとの、彼女たちの皮の照りの違いで、それに気づく。

そのことが、私をきりりとさせる。

 

銭湯は空白だ。

他人の手垢にまみれた価値基準にも、じぶんに染み付いた価値基準からも遠く離れて、空白の場所をもつことが、

わたしをどれだけ、やしなってくれることか。

公共というにはいささか私的すぎ、かといって決して自分を閉ざせない。他人の私的がさらされている場所。

他人の私的に自分が埋め尽くされる場所。

 

 

すこし前、ブログを読んでくれた童貞の男の子からメールをもらった。

「自分は26歳だけど、未だ童貞で悩んでいる。どうやったら童貞を捨てられるか教えてほしい、そのためならナンパ修行でもスポーツ修行でもなんでもします」と。

冬だったため、思考が冷えているのか、追い詰められたようすでせつせつと書いてあった。

私は「ナンパも筋トレもしなくていいから、まず、毎日風呂にゆっくりと浸かること、できれば銭湯にいくこと、それが無理なら足湯をすること」をすすめた。

彼が実行したかは分からないが、しばらくして「思考にとらわれないで、リラックスして過ごせています」と返事が来た。

 

 

自分とセックスしても、ろくなことにはならない。

それよりも「自分から距離を取る」ことの重要さ。

他人がいる場所にいくこと。他人の人生を感じること。

そのほうが、不安はなくなるし、葛藤は減る。自分をすりへらすものを自然と手放せる。

 

一日の中の、いっときでも、自分というものを遠くに投げること。

その空白に、いま、生きている現実の世界が見いだせる。

 

 

シェアハウスもよいけれど、人と関わるのが苦手で、つい自分にひきこもりがちな人には、銭湯もよいものだと思う。

 

たまに、しこたま飲んで酔っ払って、閉店時間に間に合わず、台所の流しについ頭をつっこんでしまうことは、格好つけたい相手にはひみつだよ。

 

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日常のルーティーンを壊す

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もうナンパには興味がないが、asapenという人のナンパブログは定期的に読んでいる。

 

六本木でナンパしながら起業する

 

この人のブログは痛々しい。痛々しさが心臓に突き刺さってきて思わず読んでしまう。
読みながら、彼同様、自分自身が今ある何かをぶち壊さなければいけないということを意識させてくれる、貴重なブログだ。

このブログには、ナンパで成果が思うように上がらないという彼の悩みが、延々と書かれている。

彼はブログで「ルーティーン」という言葉を多用する。フレグランスルーティーン、手相のルーティーン、なんとかルーティーン。
彼の中で一定のノウハウがあって、それを女の子に使用することで、同じパターンの中で女の子と即る(=すぐセックスする)事を目指しているようだ。

ルーティーンを捨てないから、成果が上がらないんじゃないの、とも思うけど、彼自身が、限られたルーティーンのみを使ってナンパできるようになりたいという制約を自分に課しているのかもしれないし、それはわからない。

 

ルーティーン。ルーティーン。ルーティーン。

 

私のブログを読んで、家族の悩みや恋愛の悩み、仕事関係の悩みをメールしてくださる方がいる。

例えば、
童貞が脱出できない。
上司とうまくいかない。
恋愛がうまくいかない。

等。

昨日は久しぶりに、悩みを寄せてくださった方にお会いした。40代の男性だった。
私はカウンセラーではないので、インタビューのつもりで色々聞いていく。目の前に透明な箱があって、その箱の形や大きさや色はわからない。その中に手をつっこんで、その人の内側になんでもいいからぺたぺた触ってゆくと、色がついてその人の容貌が分かってゆく、そんな感じだ。

そうして聞いていると、その人がその人自身をどんなルーティーンに閉じ込めているのか、分かることがある。

ナンパにしろ、恋愛にしろ、友人関係にしろ、仕事関係にしろ、人間関係に悩んでいる人の、その悩みの根幹は、自分が或る特定のルーティーンに囚われていることに気づいていないことにある。
傍から見れば一目瞭然なのに、本人はそのルーティーンに囚われていることに気づかない。

 

コミュニケーションはルーティーンの繰り返しだ。

飽くまで人が繰り返してしまう同じコミュニケーションの円環。
それは、10年単位の、非常にゆったりとした時の流れの中で繰り返しているものかもしれないし、毎日毎時間毎秒、繰り返してしまうものかもしれない。

同じルーティーンを繰り返してしまうこと、そのことに気づかないまま、人は悩んでいる。

ルーティーンに囚われた時、人は自らを問えなくなる。

私はその円環する流れの中に棹をさして、その人自身に自らが囚われているその流れの環の形を気づかせてあげるだけだ。他人なら、だれでもできる行為だと思う。

 

どんな行為もルーティーンでできている。それを変えたいと強く望むなら、一秒でも早く自分がルーティーンに囚われていること、そしてそれをどうやったら壊せるのかを考えなければいけない。
囚われていることを自覚するのはみじめだ。ただ、自覚を可能にするのは痛さへの慣れでしかないし、壊す事自体は技術でしかない。

ナンパは自分が囚われているコミュニケーションのルーティーンから抜け出すための技術の一つかもしれない。恋愛ができない、童貞を捨てられない、すぐセックスできるようになりたい。

ナンパに限らず、日常の中に、自分が抱えるルーティーンから抜け出すチャンスはあふれている。
今までとは違う恋愛がしたい。違う仕事がしたい。違う人間になりたい。

 

今ここにあるルーティーンから抜け出して、全く新しい関係性、コミュニケーションの型、そういうものがあると思って、それを信じて人は飛び込んでゆく。飛び込もうとする。飛び込んで、新しい境地にたどり着く。
「やった!もう◯◯は怖くない」。そうして前の古いルーティーンをゴミ箱に捨てる。捨てた瞬間からまた新しいルーティーンに絡め取られてゆく。ルーティーンから抜け出せると思った瞬間、人はまた円環に落ちる。それがゴミになるまで。

 

私たちは毎ゲーム、全く同じ色、同じ大きさ、同じ重さでゲーム台に載せられ、円を描いて穴に落ち、また穴から拾い出されて台の上に載せられる、変わらない球だ。異なる軌道を描いたつもりでも、行き着く先は同じ形の穴。どこに落ちたとしても、拾い上げられて、載せられる先は一緒である。台の上と穴の中の円環を、ぐるぐるぐるぐる繰り返すだけの球。

 

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球の自覚のないナンパ師は愚かだし、無論、そうでない非ナンパ師だって愚かだ。

ただ、それが分かった上で尚、そのルーティーンを壊してゆく。
その壊したいという欲望、そして、自分の手で壊した瞬間にきらきらと破片が舞う、その一瞬の隙の希望が、人が関係するという行為の美しさなのかなと思う。

 

 

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ドトールと許し

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京都なのに、ドトールにいる。

ドトールが好きだ。

ドトールには何もない。

代々木八幡のドトールに一ヶ月前に入った新人のバイトのお姉さんは、未だに新商品の「スパイスショコラ」を「スパイシーショコラ」と間違えて覚えている。誰も教えてあげないのだろうか。お姉さんの目は、いつも焦点が合っていない。

右となりで格闘技やってそうなおっさんが、ニートで引きこもりらしい男の子に生活指導している。親子ではない。引きこもりの男の子は、輝いた目でハキハキと返事をしているけれど、よく聞くと全く会話が噛み合っていない。精神が危ない人特有のギラギラとした目。目の前で男の子を鼓舞する男の人はそのことを全く意に介していない。

従業員、お客さん、店内のすべてにおいてのコミュニケーションの成り立ってなさがドトールの良いところだ。

代々木八幡のドトールはいつも人で溢れている。

ニートみたいな人、営業のサラリーマン。フリーランスっぽい人。

左となりのおじさんが日記を書いていたのでふと見ると「仕事がない。死にたい。」と書いてあった。毎ページ同じことが書いてある。大変だ。
この死にたいと書き続けているおじさんが、横でなくて、私の目の前のイスに座っていたとしたら、ドトールなんかに居ないで散歩しにいきましょうと言うだろう。ドトールにいたら、死にたくもなる。

 

ドトールには毎日、だいたい同じような人がいて、私もたぶん他の人からそう思われている。

渋谷のドトール本店にはいつだって風俗嬢とネットワークビジネスの人と宗教の勧誘がいるし、霞が関のドトールにはやる気のなさそうな国家公務員がちゃんといる。

そのことにいつもほっとする。お洒落なお店にはこのほっとする感じがない。

ドトールにはなにもない。

 

取材だの打ち合せだの、交流会だのイベントだので、たくさんの人に触れていると自分の輪郭が二重、三重にぼやけて、わけがわからなくなる。

それがドトールに来ると瞬時に戻る。
何にも触れない無関心が、私を裏返して、からっぽにしてくれる。ぐちゃぐちゃになった輪郭を、束ねてもとに戻してくれる。

 

大好きなマンガの一つに、「ちひろ」という風俗嬢を主人公にした漫画がある。

ちひろは空洞だ。性と欲のつまった世界で、誰にも依存せず触れ合わず、自分の中をからっぽにして、他人をただ、眺める。

ドトールのような徹底的な無関心。誰もを許すけど、誰もをその中に留めておかない。

でもその空の中に自分がある。今まで何かがぱんぱんにつまった、その自分をひっくり返して中身を出したら空だった、そういう思い切ったものがある。ぱんぱんにつまった外の世界。それをいろんな人がドトールという空洞に持ち込み、またそれを抱えたまま、去ってゆく。何もしなくていい。何もその空間に残さなくていい。

 

柔らかくてかさかさした、触り心地のまったくない、セロテープにマジックで書かれた許しのようなもの、それがドトールだなと思う。

 

 

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「忘れる」の効能ー震災から二年を経て

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3日前の3月11日で、震災から丸二年が経過した。

 

1年目の3月11日は、自分に何ができただろうかと自問する日だった。

2年目のこの日は、震災を忘れていないだろうか、と自問する日になった。

特に今回、取材のために訪れたランカウイという南の島ー東日本大震災の、匂いとも空気とも全く無縁なこの場所で、2年目のこの日を迎えたことで、「あの日のことを忘れる」ことの罪悪感について、嫌でも考えさせられた。

同行していた編集者の先輩が言っていた。

「震災が起きた当初は、“亡くなった大勢の方の代わりに、自分は一生懸命生きよう、日々を大切に生きよう”と強く思った。

でも、日々の生活で色々なことに追われていると、なかなか決意したようにはできず、元通りの生活に戻ってしまっている。

震災に備えないと、とは思うけど、毎日毎日、“もしも”のことを考えては暮らせない。

あの時の危機感を忘れている自分に、罪悪感を感じることもある」と。

 

私は今でも東京に住んでいる。

狂った街だなと思いながら渋谷に住んでいて、時々、この街で人と会ったり飲んだり、代々木公園をぶらぶら散歩したり、八幡湯に浸かったり、狭いアパートで寝たりして、生活している。
その行為のはしばしに「震災の“あの日”を忘れているからこそ、できること」を感じる。

 

一個人の生活という、膨大なページの間に、ときおりすっとポストイットが挟まれている。

「震災の瓦礫を踏まえたうえで、今もなお成り立っているくらし」だと。

 

あの日のことを忘れてしまうことに、罪悪感を覚える人は、きっと沢山いるんだろう。

 

「忘れる」という行為は、人間が生きるためにとても重要な機能だ。

毎日細胞が生まれ変わり、新陳代謝を繰り返す中で、私たちの体はさまざまなものごとを忘れてゆく。

骨盤が動いたり、汗をかいたり、生理があったり。

身体が起こすひとつひとつの動作すべてが、過去のことを捨てて、新しい身体、次の身体で生きてゆくために必要な事だ。

すべてを覚えながら、生きてゆくことはできない。

忘れたほうがいいことを、どうしても忘れられず、それがその人の生活を阻んでいる時、それを「トラウマ」と呼ぶように、私たちの身体は、忘れることで正常に機能するようにできている。

だから、いくら「忘れないぞ」という意気込みを持ってしても、左右できない部分はきっとある。

私たちは、忘れることで生きてゆく。
次の命を産んでゆく。

国全体としては、震災の経験を忘れることで、どうかなと思う方向に進んでいる部分もある。けれど、ひと一人の幸せ、ということを考えた時、「忘れる」という事は、決して責められないはずだ。

 

では、もし、私たちがあの日の震災のことを、日々の生活の瑣末な行為に追われる中で忘れていったとして、あの震災から何も学ばなかった、と言い切れるかというと、そうじゃない。

私たちは、忘れたとしても、あの経験から何かを学んだはずだ。

 
一つの例としては、前回の震災の時のように、もし、自分から遠く離れた場所で苦しんでいる人がまた現れたら。自分とは直接関係の無い不幸な出来事が起きたとき、対岸の火事のさなかにいる人たちのことを、どう、自分のこととして引き寄せるか。

あの時東北に向かった多くの想像力は、時を経て消えたのかというと、決してそうではない。

対岸の火事を自分に引き寄せる、その作法を、私たちそれぞれが各自のやり方で学んだように思う。

 

具体的な行動を、取れる人、取り続けられる人、取れなかった人、色々かもしれないが、それでも私たちは、対岸で火事が起きた時、そこにいる人たちに対してどういう態度を取るか、どうやって寄り添うのか、自分に引き寄せるのかを、国としての大きなまとまりではなかったものの、個々人の身体の中に、筋反射的に覚え込んだのではないか。

それはけっこう大きな学びではないか。

 

もちろん、今でも東北には、忘れないでいてほしい、忘れられることで生死を分かたれてしまうような人たちが数えきれないほど暮らしている。震災以降、福島に多くの知り合いができたので、なおさらそれを感じる。

でも、人は自分の痛みとして一旦引き寄せた部分は、きっと忘れないように思う。

 

私は東京という自分のふるさとがとても好きなのだが、震災以降、東京が今までとは一転して、知り合いがどんどん去っていき、力の無い都市になってしまったことがとても悲しかった。

原発絵本プロジェクトをやっているのは、もしかしたら数年後には忘れられてしまうかもしれない、原発問題に揺れたこの2年間の、私たちが生きてきたこの時代の空気をなんらかの形で表現したい。福島の人たちと同じだけの苦しみは感じられないかもしれないけれど、都市部に住み、電気で暮らしてきた同じ問題の対象者として感じてきたことを残したい。「原発絵本」と銘打ってはいるけれど、そのテーマだけに限定せず、多くの人がこの2年間に直面した、エネルギーだとか、科学技術だとか、倫理だとか、この社会でどう生きるかだとか、そういったことごとー2011年3月11日以降、多くの人が考えた、未来のいのちに向けての課題を、誰にでもわかる形で留めたい。忘れられたとしても、忌避したり、ふたをされるものにはしたくない。

また、福島連携復興センターなど、知人が活動している団体があって、それらに売り上げを寄付することを目的として動いているのは、プロジェクト設立当初から変わらない。

すごく個人的で勝手な気持ちで始めたことで、一部分の局所的な支援にしかならないのかもしれないけれど、そういう引き寄せ方しか自分はできなかったので、それならそれでいいかな、と思っている。

個々人によって、引き寄せ方、自分にずっとひっかかっている震災のフックは、きっと異なるだろう。

 

震災のことを、いつまでも覚えておくことはできないかもしれない。○○のために、とか、忘れるな、とか、そういう自戒を持ち続けながら暮らすのは、難しいことかもしれない。
けれど、あのときを経て、人がそれぞれ、対岸で起きた火事をどう自分へと引き寄せるか、その自分なりの答えを身体レベルで覚えたとしたら、それは、忘れたことの容積より、ずっとずっと大きな学びだ、と思う。

そしてそれは「震災を忘れた」ことにはならないんじゃないかな、と思う。

 

そういうことを全く震災の匂いのしない、ランカウイの街で考えた。

 

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