誰かを恨んだり、不幸を人のせいにしないために、好きなように生きたほうがいい。―「傷口から人生。」発売によせて


 

表紙

2月10日に、拙著「傷口から人生。メンヘラが就活して失敗したら生きるのが面白くなった (幻冬舎文庫、626円)」が発売した。

 

この本を通して私が書きたかったのは、

「他人や社会を恨まないためにも、自分の好きに生きたほうがいいよ」という事だ。

 

インターネットを覗けば、恨みと怒りが溢れている。

ヘイトスピーチ、社会的な不平等、性差、育児問題、恋愛、社会への不満。

「外国人が、男が、女が、夫が、妻が、会社が、上司が、日本の社会の仕組みが、恋愛のあり方が」、“私たちに、不幸を運んでいる”。

誰かのせいにして、批判する意見ばっかりだ。

 

まったくもってくだらないと思う。くだらないけれど、同時に、そうなってしまう仕組みもとてもよく分かる。

 

みな、恨みたくないけど恨んでしまう何か、あるいは恨みたいけど恨みきれない何か、に対して怒っている。

その怒りが、社会や他人への不満として噴出している。

 

また、私はブログで家族問題や対人関係、恋愛について多く書いているせいか、よく読者から悩み相談のメールが来る。

「就活に失敗して苦しいです」

「母が私のことを分かってくれません」

「コミュニケーションが苦手で友達ができません」etc。

私はそういうメールに対して、よほどのことがない限りは返事をしない。他人の悩みに関わり続けるのは、とても難しいからだ。

 

その代わり、そういうメールをくれる人に対して、

「あなたがもし、自分のことを「イケてない」と感じているならば、それは他人や社会を恨んでいるからだ」という事を突きつけたくて、この本を書いた。

 

この話は、「軟弱で、不幸を社会や他人のせいにしていた女の子が、母親を殴り殺して、自立する話」だ。

 

私は長い間、母親を恨んでいた。

母親だけではない。今から振り返ってみれば、就活しかり、仕事しかり、恋愛しかり、その都度、社会や他人も恨んでいた。

そのせいで、だいぶ遠回りしてしまった。

今となっては、それは自分のせいだと分かるけど、その恨みの渦中に居る間は、自分を受け入れてくれない社会や母親を恨んでいた。

恨んで、そして、逃げていた。

本当は、「自分がしたいようにしていない」だけなのに。

 

ずっと前に、毒母問題のシンポジウムを見学しに行った時に、壇上でパネリストの人が、母親から受けた被害やトラウマについて延々と訴えたり、怒りを吐露したりしていた。

その時、パネリストの一人に、有名なカウンセラーの女の人がいて、その人は、会場にいる誰よりも怖い顔で「母親なんか許さなくていいんですよ!」と叫んでいた。

私は、その怖い顔を間近に見ながら、「この人のほうがカウンセリングが必要なんじゃないか」とぼんやり思った。

この会に来ている人たちは、他人の、母親に対する恨みや怒りを聞いて、スカっとするかもしれない。でもそれは、リストカットがスカっとするのと同じで(なぜリスカがスカっとするかについては、拙著の中の「私はいかにして、自傷をやめたのか」という章に書いてある)

根本的な解決にはならないんじゃないかなとは思った。

 

また、よく「他人を許さないと幸せになれないよ」と言う人もいる。

それは圧倒的に正しいとは思うけど、でもそういうことを言う人はたいがい説明不足だ。

「なぜ他人を許さないと」「幸せになれないのか」のロジックについて、恨んでいる最中の人が納得できるように説明している人を、私は今までに見た事が無い。

私もうまく説明できない。だから、代わりにこの本を書いた。

「他人を許さないと幸せになれないよ」とか「親を愛さないと自分も愛せないよ」とか言うことは、「親なんて許さなくていいんですよ!!」と激怒することと、正反対に見えて全く一緒だと思う。

人が、誰かを許したり、恨みを止める過程、そこにたどり着くまでのプロセスというのは千差万別だから(それは佐々木俊尚さんの「愛の履歴書」のインタビューをしてみて思ったことだ)

何が正しいかは私にも分からない。「こうしたらいいですよ」と言うのは言えない。

ただ、この「許さなくていいんですよ!」という怒りと「許さないと幸せになれない」という振り幅の、その間にある繊細な葛藤を書きたいと思った。

 

恨むんだったらとことん恨み尽くしてもいいと思う(それは、たいてい、やる前には思いもしなかった結果をもたらすものだけど)。

ただ、誰かを恨んでしまうことに苦しさを感じたり、恨みたくないのに恨んでしまうのを、もう辞めたいと思うなら、人生の中の、「誰かのせいで好きに生きれないなあ、しんどいなあ」という部分を解決しようとフォーカスするのではなく、「自分の好きに生きる」領域を、少しずつ、押し広げてゆくことが有効なんじゃないかと思う。

“どうにもならない今の時点”の中で、「自分の好きな事、快適にいられること」を押し広げてゆく。本当に、1ミリ1ミリでいいから。

そうしているうちに、思いも知らなかったやり方で、いつか、恨みから脱却していると思う。

 

(蛇足だけれど、「自分の好きな事、快適にいられること」を押し広げるためには、そのことについて、自分で言語化することがけっこう重要だな、と思う。そのために、文章を書いたり、カウンセリングを受けたり、あるいは誰かと話したりすることは、役に立つのかなと思う。)

 

これだけたくさんの人間がいる世の中だから、いつだってままならない事はいっぱいあるし、社会のひずみというのはどうしたって生まれてしまうものだけど、でも、「自分が心地よく、快くいられる方法」を探す事は、誰にだって許された権利だし、今は辛くて、ああ、もうだめだ。自分なんかにはそんな権利がない、と思ってしょげている人にも、それを求める力は、身体の奥深くで眠っているものだと思う。

だから、今、何かが上手くいかなくて、苦しかったりもやもやしたり、自責感に苛まれている人は、安心してほしい。

無理に、元気を出す必要もない。

もやもやした人生を、ただ、快なるままに過ごすだけでいいと思う。誰にどう思われるか、他人に迷惑をかけていないか、社会的にどうかなど気にせずに、ただ、すこしずつ、一個一個の不快のスイッチを、快に切り替える作業に淡々と励めばいいと思う。

そうしているうちに、人生が自分をどこかに運んでくれる、ということがある。

悩みのメールをくれる人に対しては、私は返事はしないけど、ただ、それぞれが、自分の快なる道を歩んでほしいと、そう強く願う。

 

 


満席に付き〆め切りました:【「傷口から人生。」出版記念トークイベント】魁!メンヘラ塾!!~死にたくならずに生きるには?!2月11日(祝)


※満席になりましたので、〆切りました。

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どーして死にたくなっちゃうの~?
こんなに健康なっのっに~?
ト ラ ウ マのー、せいなのね、そうなのね?
(辛いぜ、マジ!)
ウィッス!!!!

……わしがメンヘラ塾塾長であるッッッ!!!!!!

2月10日に初のエッセイ集である「傷口から人生。 メンヘラが就活して失敗したら生きるのが面白くなった (幻冬舎文庫)」を発売する文筆家の小野美由紀と、「愛の授業」などで宮台真司らと対談し話題となった、元ナンパ師で心理カウンセラーの高石宏輔がメンヘラについて徹底討論!!

メンヘラとは:元々は精神疾患や人格障害など、メンタルヘルスに問題を抱える人を指すネットスラングだが、最近では「私昨日まじメンヘラだった」「元カノから朝起きたらLINE50通来てたんだけどメンヘラなのかな?」などと言うように、悩んでいる人、執着ゆえに何かに振り回されている人々の事を広義に指す。

 

対人関係、家族関係、恋愛……。

なぜ私たちは悩むのか!?

なぜ、朗らかに生きられる時間は短いのか?

できるだけくよくよせずに生きるには、一体どうしたらいいの?

自傷、不登校、毒母、パニック障害、セックス依存症、うつ、摂食障害……etc、
元メンタル問題の総合商社の2人が語る、落ち込みがちな人がこの世で生き延びるための戦略とは何か?!?!?!

今回、質問の時間を多めに取り、皆様から寄せられた疑問に二人が答えます。

・仕事につまずいている
・コミュ障が治らない
・なんでかいつも恋愛が上手く行かない
・飲み会がイヤでイヤで仕方が無い
・毒親、毒家族がマジで重い
………etc、対人関係、家族、仕事の悩みに、劇薬的に効く2時間!

 

ふるってご参加ください!

当日会場では、「傷口から人生。 メンヘラが就活して失敗したら生きるのが面白くなった (幻冬舎文庫)」の販売も行います。

通常626円のところ、600円で販売いたします。消費税分安くなりますので、ご来場になられる方は、Amazon等で買われるよりも少しだけお得です。

(登壇者)

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小野美由紀
1985年生まれ。慶應義塾大学仏文科卒。ライター。エッセイスト。
コミュニケーションや家族、対人関係を取り扱うブログが人気。
2月10日、自身が経験した家族問題、仕事、対人関係の悩みについてを描いた「傷口から人生。 メンヘラが就活して失敗したら生きるのが面白くなった (幻冬舎文庫)」を発売する。
他の著書に「ひかりのりゅう」(絵本塾出版)など。
http://onomiyuki.com/

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高石宏輔
1980年生まれ。慶應義塾大学仏文科中退。カウンセラー。催眠療法師。
自身のナンパ経験を元に「ラポールと身体知」など、多数のワークショップを開催。セッションに身体的なアプローチを得意とする。
2012年には、新宿ロフトプラスワンで行われたトークイベント「宮台真司の愛の授業」で、ナンパや性愛について対談し話題に。
http://takaishi-hirosuke.com/

<日時>

2月11日(祝) 18:30開場 19:00開演(終演21:00)

<値段>
1000円

<定員>
40名(先着順:定員を超えてからお申し込みの方は、お立ち見となる可能性がございます。予めご了承ください)

会場:CreativeHub131 5階イベントスペース 「NICAペントハウス (Nihonbashi Institute of contemporary arts)」

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〒103-0011東京都中央区日本橋大伝馬町13-1 地下1階

※1階が「RENSA日本橋」というカフェです。カフェの裏手に周り、エレベータで4階までお越し下さい。その後、階段にて5階までお上がりください。

詳しいアクセス方法はメールにてご案内します。http://publicus.jp/sp/

営団日比谷線小伝馬町駅から徒歩3分 JP総武線快速馬喰町から徒歩4分

地下鉄 都営浅草線東日本橋駅から徒歩5分

他、JR神田駅、秋葉原、浅草橋より歩いて15分程度

<応募方法>
※満席になりましたので、〆切りました。

 


【お知らせ】2月10日、 仕事、恋愛、対人関係、家族について取り扱う処女作エッセイ集「傷口から人生。メンヘラが就活して失敗したら生きるのが面白くなった」が出ます。


 

表紙
傷口から人生。メンヘラが就活して失敗したら生きるのが面白くなった

2/10、幻冬舎さんより、エッセイ集

「傷口から人生。メンヘラが就活して失敗したら生きるのが面白くなった」(幻冬舎文庫、626円)

が出ます。

・就活失敗して死にたい

・飲み会がイヤでイヤで仕方が無い

・毒親、毒家族が重すぎて困っている

・仕事につまずいて身動きとれない  

………等の悩みに、劇薬的に効く一冊です。

まだまだ有名ではない、新人なので、全部脱いで書きました。
仕事、恋愛、対人関係、家族について、つまんないジブン地獄にモヤモヤしているすべての人に向けています。メイン読者層は18〜25歳くらいではありますが、不登校とか就活に悩んでる子どもを持つ、お父さんお母さんにも読んで欲しいです。

Amazonで予約を開始していますが、できれば、発売日に書店で購入していただけるととても嬉しいです。

表紙イラストは、でんぱ組等とのコラボで注目度急上昇中の愛☆まどんなさんの絵に一目惚れして、彼女にお願いしました。

キラキラ目のインパクトある表紙が目印です。

電子版も同時発売です。

どうぞよろしくお願いします。

 


2015年の目標 ヒット、お金の使い方、小説


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ふと、2013年の年始に、3つの目標をfacebookのノートに書いた事を思い出して、読み返してみたら、2014年に全部叶っていました。一年遅れで目標は叶うみたいです、どうやら。なので、今年の目標を3つ。

・3冊出して大ヒット

今年は2月10日発売の「傷口から人生。〜メンヘラが就活して失敗したら生きるのが面白くなった」も含め3冊刊行予定なので、一冊一冊を丁寧に作り、かつちゃんと売ってく。この一冊にあることもないこともすべてを書いてしまったので、もうなんにも怖いものはないのでパブもがんがんやってく。それで、作るのに協力してくれた編集者さんに、ちゃんと恩が返せるように、一冊一冊をヒットさせる。ちゃんと。

・人のために金を使う

これまでなんで生きてこれたのか自分でもよくわかんないくらい安定しない収入でしたが、フリーになって2年、ようやくちゃんと入るようになってきたので、次は、人のためにお金をたくさん使えるようになる。年下にオゴれない人は、女であろうと男であろうとダサいなって思う。目上の人にそうしてもらってきたからこそ、他人に対して、これからはバンバンお金使えるようになりたい。

私のメンター的な存在である、とある経営者の方は、毎晩、赤坂の高級韓国クラブで好きでもないのにマッコリとワカメスープをすすりまくり、毎晩うん十万円にもなる料金を同席者が何人いようとすべて自分もちで支払っています。なんでそんなことをするのかと聞くとこれが自分の修行なのだ、自分に常に負荷をかけることで稼ぐ意志が湧いてくるのだ、と今にもレッドブル2、3本がぶ飲みしないと倒れそうなほどに苦い顔で言っていました。そこまでとは言いませんがまぁそんくらいのオトコっぷりは見せれるようになりたいすね。金は潔く使う。

・小説を一本書く

最初のエッセイが完成した後、ありがたいことに「次は小説を書きませんか?」と編集者さんからオファーをもらったので、今年は小説を書きます。書いたことないけどたぶん書けます。とはいえやったことないことなのでちまちま少しずつやります。やったことないことは、ゆっくりやるべきなので。これまでの経験則的に。でも面白いの書きたいな。

 

去年でやっと、自分の書くものに自信が持てたので、今年はそれを地道に確実に磨いてゆきたいです。


上手い自己紹介


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自己紹介が下手だ。
人前で、自己紹介をしてください、と言われて、上手い自己紹介をできた、と思った事がいっぺんもない。

あるとき、いわゆるリア充っぽい人たちばかりが集まるパーティーに参加したことがある。
その中でホスト役の男の子が「一人30秒で自己紹介をしよう。」と言い出した。
全員に緊張が走った。
私は焦った。ここで何を言うかが今後の人間関係を決めるかもしれない。順番は10番目だった。あと10番のうちに、面白い自己紹介を思いつかなければ。
一人ずつあいさつをしていく。「○○商社の××です」とか、「某有名IT企業の企画部です」とか。
そのうち一人が言った。
普段滑り慣れている滑り台を、何千回目かに滑り降りるような口調で、抑揚も無く彼は矢継ぎ早に言った。
「東大出て電通行って、アメリカでMBA取って今コンサルです」
ロイヤルストレートフラッシュだと本人だけが言っているけれども、その中の一枚にもキングが描かれていないような、そんな自己紹介だった。
その場にますます、あからさまな緊張が走った。男子も女子も、全員の目の色が変わった。すでに自己紹介を終えた人間からは憎悪が、これから自己紹介をする人間からは怯えが立ち上った。

こんな下手な自己紹介は聞いた事がなかった。
今、この場で、彼ぐらいコミュ障な人はいないだろうな。
こんなに彼自身のことを表している、そして、表していない自己紹介は無いな、と思った。

次に、私のとなりにいた友人が、自己紹介をすることになった。
その会場には大きなテレビがあり、お洒落感の演出のためか、会の最中ずっと、古い白黒のアメリカ映画が流れていた。
彼が自己紹介をはじめたとき、画面の中では、マフィアみたいな、いかにもろくでなしっぽい男の人が、バーでタバコを片手にマリリンモンローみたいな女性を口説いていた。

「自己紹介が始まるまで、ずっと、この映画を眺めてたんですけれど」
彼は言った。会場にいる全員が、思わずテレビの画面を見た。
「この主人公は、毎日、ブラブラして、酒を飲んで、タバコを吸って、女の人とセックスしてるんですけど、ぼくも、ちょうど今、そんな生活を送っています」

会場の全員が笑った。MBAの人は、しまった、みたいな顔をしていた。
なにひとつ彼のことは分からないけれど、彼のことをこれ以上言い表している自己紹介はないなと思った。

このMBAの彼も、後者の彼も、私も、根底では同じ欲望を抱いている。
みんな、良く思われたくて必死だ。
働くために、何かを成すために、コミュ力が必要なのではない。
さびしさを紛らわすために、コミュ力が必要なのだ。

私はまだ、上手い自己紹介ができない。それはたぶん、緊張せずに他人と関わることがまだできない証拠だ。
でもそれでもいいと思う。人とうまく関われないさびしさを否定せずに生きてゆきたい。
そしてもし、次に自己紹介をする機会があるなら、その時は後者の彼のように人を笑わせたい。


人前で話す


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人前で人と話す。

たったそれだけのことなのに、なぜか緊張する。

まるで他人の視線という妖怪に取り憑かれたみたいだ。



「性と生のディアローグ」という連続トークイベントの第二回が終わった。

以前、別のイベントスペースで、「小野さんファシリテーターでなにかイベントをやりませんか」とお声がけいただいたのをきっかけに始まった企画だ。

この会では、私の好きな人を呼んで話している。

来てくれる方々には私の興味にお付き合いいただいている感じだ。お付き合いいただいているのだからもう少し来場者の立場に立って話せればと思うのだが、興味があることしか聞けないので申し訳ないが個人的な聞き方になる。

第一回の代々木忠さんの時には相手が大物で、初回とあって緊張した。

この時は、西村佳哲さんのワークショップの作り方を徹底的に真似した。

西村さんの、「『自分の仕事を考える3日間』を作るワークショップ」を受けたときに習ったことを総動員して、全部ぶち込んだ。なのでこの回の構成は西村さんのやり方の丸パクだと思ってもらってよい。雰囲気づくり、会場との距離、流れ、代々木さんとの関係性。トークの最中も、西村さんになりきるつもりで話した。代々木さんと話しながら、西村さんの目を、声を、手の動きを思い出していた。

真似するのが果たして良いことだったのかどうかは、分からない。

模倣はあくまで模倣であって、話すのはあくまでも私だからだ。

西村さんには見せて恥ずかしくないイベントになったと思うけど、聞き手の方々に随分と助けられたからこそ、そうなったような気がしてならない。



第二回の奥谷さんの時は、ボイストレーナーの徳久ウィリアムさんが教えてくださった、集中と発声のワークが役に立った。

『無理してリラックスする必要は無いんですよ』と徳久さんは言った。

『それよりも、必要なのは集中なのです』

私はこれまで、人と話す時には緊張をほどかなければいけないものだと思っていた。けれどそうではなかった。身体を使って集中状態に持ち込むワークを、徳久さんは教えてくれた。話すというのは頭で行っている行為のようであって、じつは、身体に任せることなのだ。対人関係は身体のことだから、身体に任せたほうがじつは上手くのだと言う事に、私はこの時、はじめて気づいた。

奥谷さんの身体の底からいくらでも湧いてくるパワフルなトーク力と、楽しんでくれた来場者の方々の柔軟性で成り立ったイベントだなと思う。



当たり前のことだけど、イベントというのは毎回、雰囲気が違う。

同じ箱でも、来場者の方とゲスト、全員のその日のテンション、それが全部合わさって場を作る。私の企画だとしても、それは私のものではない。本当に何が起きるのか私にも分からない。私にできることは、ただ、はじまりの合図をすることだけだと思う。この場に生まれる雰囲気にたゆたうつもりで、今後も好きな人たちとしゃべりたいなと思う。




絵本「ひかりのりゅう」発売によせて―原発という、答えの出ない”問い”とどう付き合うのか


 

 

私が文章・原案を担当した、「原発絵本プロジェクト」の絵本「ひかりのりゅう」が本日、絵本塾出版さんから発売されました。

 

同内容で違うバージョンの電子版「ひかりのりゅうとぼくの国」も、iBooksストアで発売中です。

 

この絵本は、福島で起きた原発事故、および、原子力発電の歴史をモチーフにしています。

しかし、事故から3年以上が経ち、事態がよりいっそう複雑化する中、最終的には原発そのものの是非を越えて、

「人間がコントロールしきれない、科学技術全般と、私たちはどう付き合ってゆくべきか?」

という普遍的な問いを投げかける内容の絵本になりました。

 

原発事故が起きたとき、私の心に浮かんだのは「ごめんなさい」という言葉でした。

それは、福島の人々に対してなのか、日本全体に対してなのか、世界に対してなのか、それとも、壊れてしまった原発に、なのか、わかりませんが、とにかく、私の心に浮かんで来たのは、その言葉だったのです。

東京に住んで、のうのうと暮らして、電気を使って来た私が、謝らなければいけないような気がした。リクツではないのです。

その謝り先を見つけられぬまま時間が刻々と過ぎてゆき、手に入るのは正しいのか正しくないのか分からない情報と怒りの言葉ばかりで、それらが脳をびゅんびゅん飛び過ぎてゆく。ちがう、と思いました。私は怒りたいのではなく、知りたいのだ、と思いました。

この出来ごとを説明できる言葉を得て、ただ、自分自身が納得したいのだと思いました。ただのエゴですが。

また、寄付もしたいことの一つでした。個人の行いなので、微額ではありますけれども、少しでも福島の役に立ちたいと思ったのです。

その時に、なぜか絵本をつくろうという考えが、ぴーんと降りて来たのです。

 

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絵本を作る中で感じたのは、「何かを正しいとか、正しくないとか、決めつけることの難しさ」でした。

この絵本を作るために、何度も福島に足を運び取材をさせていただきました。本当にたくさんの、福島の方々や、原発関係の方々にご協力をいただきました。

東京で聞いていた通りのこともあったし、東京で聞いていたのとは、180度違うこともたくさんありました。

志田名地区という山奥の限界集落は、高線量を記録しているにも関わらず、行政の対応の遅れで除染が進まず、今もお年寄りばかりが50名ほどひっそりと暮らしていて、福島県外からの「なぜ避難しないのか」という言葉はあまりにも非現実的だと気づかされました。

福島第一原発から一番近いファミリーマートには、棚のひとつがまるまるカップラーメンで埋められていて、その、ずらりと並んでこちらを向いたビニールの丸い面が、スターウォーズの敵のロボットの頭のようにのっぺりてらてらと光っていて、このコンビニの一番多い利用者は、命をかけて事故の収束に向かっている原発作業員の方々であろうに、その方々の食べるものがこれでは、と、いま、自分が吸い込んでいる放射性物質のことよりも、そちらの方に薄ら寒さを感じました。

楢葉町からいわき市に避難して来て、近隣住民とトラブルになり、嫌がらせを受けて自殺してしまった方のご家族から「復興、復興と言っているけど、何が復興だ」という声を聞いたあとで、いわき市の復興に携わるNPOの方に会い、その方は「いわきは比較的放射能の被害が少なくて、もう復興しつつあるのに、『福島』というレッテルを貼られて、差別されるのが本当に悔しい」と言っていて、私は何も言えなくなりました。

そのどちらもが正しいと思います。事態は3年経ってなおいっそう複雑化し、福島内外に関わらず、数えきれない利害が対立していると言うのが、福島の方々の話を聞いて私が得た所感です。誰も何が正しいかなんてわかりません。これからどうなるかも分かりません。その中で私が「これはこうだ」「これは正しい」という考えを人に押し付けることはできないと思いました。そんなわけで、この絵本は、何か特定の考えを「正しい」として押し付けることを、極力除くように作ってあります。

 

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でも、何も分からないからと言って、私たちには何も希望がないのでしょうか?

 

南相馬の沿岸部にあった友人の家は、土台からねこそぎ津波に押し流されていました。それを見たとき、悲しいと感じました。でも、悲しいと感じる一方で、私は、なにかがはじまるような気がしてしまいました。

被害を直接経験していない私には、住んでいた場所や家族を津波で根こそぎ奪われてしまった人のかなしみは、想像できる分量だけしか分かち合うことができません。悲壮感というものを、当事者が感じているようには、感じる事はできません。

なので、ここで感じた素直な感想を書くと、本当に不謹慎かもしれませんが、最初にその何も無い光景を見たとき、私は「能の舞台みたいだ」と思ってしまったのです。

能の舞台のように、ここから何かが、何も無い地平に、すうっと一本、堤防の走っている、この「無」の空間から、何かが始まるような気さえしてしまったのです。

だって、私たちは、生きているのですから。

 

 

福島の人々の踊る「HAPPY」を見た時にも、同じ感想を持ちました。

絵本のラストシーンについてかなり悩んでいたのですが、この動画を見た時に、自然と決まりました。
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この絵本を出版して思う事は、まだ何も終わっていないんだな、まだ何も知らないんだなということです。

私は「できれば原発は無くなってほしいと思っている」のですが、それが現実的にとても困難であることも想像がつきます。それは、今も日本にいてのうのうと電気を使っている人間だからこそ言えることです。

でも、難しいからといって、以前のように何も考えずにのうのうと生きてゆく事はできません。

「安全」という神様はいなくなってしまった。だからこそ、一人一人が、最善と思われる策を探し、実行してゆかなければなりません。

それを考えるためにも、私はこれからも、福島の人々の声に注意を払って聞き続けたいと思っています。

 

福島は今、一番言葉の詰まっている土地です。

これだけ多くの人々が、口に出さないけれども言いたい思いを抱えていて、でもそれが曲解されて伝わってしまう場所。場所の名前だけで、聞いてもらえなくなる場所。

私には福島が、言葉を持った肉体そのものに見えます。飲み込まれた言葉が、福島にはまだまだたくさんある。

福島の詩人の和合さんは、インタビューの中で「ひとつだけ確かなのは、考えるよりも、涙が浮かんでくること、そこになんか真実があるような気がして、僕は詩を書いています」とおっしゃっていました。

私は、人々がそれぞれ抱えている、そういう言葉たち、埋もれている言葉たちに、これからも耳を傾けたいと思っています。

 

言葉がなんだ、言葉なんて無力だと思われるかもしれません。

確かに言葉なんて金に比べたら圧倒的に無力です。

けれど、人が人を知る時に、人が人と関わるときに、一番必要なのは言葉の力です。

金で人の心を知る事はできません。

私はそういう言葉の力を上手くつかって、どうすれば人々が善く生きられるか、その最善の方法を模索してゆきたいと思います。

 

最後になりますが、この絵本の制作にご協力いただいた多くの方々に感謝いたします。本当にありがとうございました。

この絵本の売り上げの一部を、福島の子どもたちの健康を願って、「公益社団法人東日本大震災復興支援財団」に寄付いたします。

BGM、ナレーション入り電子版はこちら→「ひかりのりゅうとぼくの国
 


台風は日本の味


 

台風は日本の味がする。

 

今、本郷三丁目のスタバにいる。
台風前なのに、すごい人だ。学生さんがノートをひろげて、必死に勉強している。台風前なのだから、家にいればいいのになぁ…とおもうのだけど、そうはならないところが、学生さんと、スタバらしいのだなぁ、とおもう。そういう私も、家にいないで、わざわざスタバに来ているのだった。 さきほど、カミーノ中に出会った外国人の友達からメッセージが来ていた。 彼は私が帰国したあとも巡礼を続けていて、今、聖地サンティアゴの15km手前にいるとのことだった。朝ごはんを食べていて、そこには大きなテレビがあって、日本の台風のニュースが流れていて、心配になってメッセージをくれたようだった。スペインの片田舎にも、日本の台風のニュースが流れていることに驚きを覚えるのだけど、彼に、「心配ないよ」と言う事を伝えたくて、 「それは日本の風物詩だよ」とか 「日本らしい天候だよ」みたいなことを言いたくて、 英語でなんて書こうか、と一瞬考えたあとに、出て来たのは

 

「it’s a Japanese flavor.」

だった。

 

台風は日本の味がする。

 

きっと、英語的には間違っているのだろうし、伝わるのかどうかわからない。書いたあとに「flavor」じゃぁないだろうなぁ、とは思ったのだけど、周りを見渡して、うん、確かに、この、風が強くなる前の、スタバに、わざわざ学生さんがいっぱいきて、勉強してる、この感じが、「日本の味」なんだろうなぁ、と思って、そのまま消さずに、エンターキーを押した。

  


身体をつかって、今を生きる――整体師の奥谷まゆみさんと、トークイベントを開催します。


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10月13日(祝)の夜、整体師であり、女性の身体や妊娠出産について、数々の著書を書かれている、奥谷まゆみさんとトークイベントを開催します。
トークイベント:性と生のディアローグvol.2 奥谷まゆみさんと語る、イイ女、イイ男になる身体の活かし方ー身体を知れば、恋愛・結婚・セックスが見えてくる!

 

奥谷まゆみさんは、私の整体の師匠である。

昔、私が仕事と恋愛の両方に疲れて心身ともにボロボロで、人間らしい生活すらもままならなかった時、どうにかして身体だけでも立て直したいと、奥谷さんの整体サロン「きらくかん」を訪れたのが始まりだった。

奥谷さんの整体は、一般的なイメージ通りの「人をばきばきやって、治す」整体ではない。

身体を触ってその人の不調の原因を探り当て、その人が日常の動作の中でそれを改善してゆけるよう、ストレッチやボディワークの方法を指導する。その人が自力で不調を治せるように指導する整体だ。奥谷さんの整体には、依存がない。使うのはすべて、その人自身の持てる力だからだ。私は奥谷さんの著書を読んで、そういうところにも惹かれていた。

 

奥谷さんはどっしりとした岩みたいな女性だ。樹木と言った方がいいかもしれない。屋久島の大自然とか、アンデス山脈の麓の森に生えていそうな、樹齢を重ねた、たくましい太い木の幹。ちょっとやそっとじゃ動じなさそうな、経験を盾に変えた人の、ふてぶてしい輝きがある。でも反対に、奥谷さんの指先は、おどろくほど繊細で、あったかい。

奥谷さんに身体を触られると、指先が触れた場所が、じんわり溶けてゆくかんじだ。骨の内側に、あたたかいものが広がってゆく。もしも人間に「気」というものがあるとすると、奥谷さんの気が私の中に入って来て、ミックスジュースみたいに混じりあう感じだ。触られているだけで、涙が出そうになる。

 

最初にぼろぼろの状態できらくかんを尋ねたとき、奥谷さんは私の身体を触ったあとで言った。

「大丈夫、悪い身体じゃないよ」

これが悪い身体じゃなければ、何が悪い身体だと言うのだ。私はびっくりした。

奥谷さんはこう言った。「身体っていうのは、その人の生きて来た結果なんだよ。これまでの生活パターンとか、ライフスタイルとか、生い立ちとか、その人の経験の結果が、その人を作るの。身体をさわるとね、その人の生き方のクセ、みたいなものが、だいたい分かるよ。

頭でっかちな人は、実際に頭をさわってみると、現実にちょっとブヨブヨ、膨らんでる。何事にも動じない、俺は俺だ!って豪胆な人は、文字通り、“腰が据わってる”んだよね。ひっこみじあんな人は、胸がうしろにひっこんだ、文字通り“開襟できない”身体。

身体はあなた自身の、これまでの生き方の集大成なんだよ」

 

そうか。じゃあ、私の抱えている身体の不調は、これまでの私のダメな生き方のせいなのか。私は少し憂鬱な気持ちになった。

 

そんな私に、奥谷さんは続けて言った。

「でも、大丈夫。だからこそ、身体を変えれば、人生も変えられる。不調の身体っていうのはね、使い方をちょっと間違っちゃっているだけなんだ。使い方さえ変えれば、身体は答えてくれるんだよ」

 

そう言われてから、私は奥谷さんの整体講座に通い、身体の使い方を学びはじめた。

 

 

身体というのは、知れば知るほど面白い。私たちが「身体」と呼んでいるものは、じつは一枚岩ではなくて、骨と内臓、それと筋肉、神経系統と生殖器、そうした膨大なパーツの寄せ集まりによってできているということが分かる。それらがなぜだか分からないけれど、複雑に絡まりあって、人体と言う一つの塊を作り上げている。

身体と思考と感情もまた、驚くほどに繋がっている。

身体が変わると思考も変わるし、感情も変わる、ということを、私は実践しながら学んでいった。

 

 

「体の軸は時間軸なんだよ。」

と奥谷さんは事あるごとに言っていた。

「未来のことばっかり心配していたり、余計な思考に振り回される人は、立ってみると、おでこがちょっと前に出てる。身体の真ん中に自分がのっかってないかんじね。腰で立ってないの。逆に、過去にばっかり囚われて、なかなか行動できない人は、腰がひけてて、すぐに動き出せない身体なのね。

今・ここにしっかりフォーカスして、自分のやるべきことにコミットして生きられるようになるには、身体の中心に一本、すーっと通った体軸を作る事が大事。

それにはまず、下半身を育てることが必要なんだよ。

立つ、歩く、座る。人間の基本の三動作がしっかりできることが人間の生きる力を育てるんだね。

自分の足でしっかり立つ、ってことを身体で覚えると、生き方って言うのは、変わってくるんだよ」

 

 

身体を使ううちに、私はどんどん、元気になっていった。それとともに、自分の足でしっかり立つ事、自分で自分の責任を引き受ける、ということを覚えていった。

 

私はそれまで、いろいろなことを人のせいにしてきたんだなと思う。それは全部自分が選びとってきたことなのに。

自分の身体を使うと言う事は、そのまんま、自分にコミットすることなんだ。自分の生き方を知り、生き方を選ぶ事。そういうことを、私は奥谷さんから学んだ。

 

 

「どんな身体だろうと、よくなることはできる。人は、変わりたいと思った時に、変われる」。

人は変われるのか、変われないのか。よく聞かれることだけど、私は、人は変われると思う。

人は変わりたい時に変われる。それが奥谷まゆみさんに教えてもらったことだ。

それにはまず、自分の身体を知る事。身体は今の自分を知るための糸口なのだ。そうして、今の自分をまるごと受け止めて、現実の足場に、しっかりと立つことなんだなと思う。

 

 

彼女の話の魅力は決して精神論に留まらないこと。気がついたら実践と結びついている。今回のテーマは女と男の性だけど、セックスの話だけじゃない。生殖の話は人間の生き方まるごとと深く関わっている。それを机上の空論ではなく、体感として「なるほど!」と思わせてくれる、「手応え」のある会話。

何かしら、活きる話ができるはずだ。

ぜひ、ご来場をお待ちしています。
トークイベント:性と生のディアローグvol.2 奥谷まゆみさんと語る、イイ女、イイ男になる身体の活かし方ー身体を知れば、恋愛・結婚・セックスが見えてくる!

 


若者には欲がない?


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いやね、なんでこんなこと言い出したかっていうと、最近ものすごくよく言われるんです。50overのおじさまたちに。

「最近の若い人って欲が無いよね。車とか服とか欲しくないの?今、若い人って何が欲しいの?」って。

新聞社のおじさまとか出版社のおじさまとか、バブリーな時代を経験した人ね。

「まず“若い人”とかでくくんなよ」ってイラっとくるけどまあそれは置いといて、そういう人に私は良く答える。
「欲はあるんです。でも、それは上の世代の人たちとは違う欲なんです」って。
その違う欲ってなんだろう?って今改めて考えてんだけど。

今の若い人って、なんとなくだけど承認欲求は上の世代よりずっと強いと思うんだよね。自分も含めて。
起業する人とか、人とは違う生き方を求める人が多いっていうのもそのせいじゃないかと思うし。
心のどっかが満たされないから承認してほしいわけだよね。
まあ生きてる人全員心のどっかが満たされないものだとは思うけど、その満たされない度が全体的に高いよね。若い世代は。なんかそんな気がする。全員が全員そうじゃないけど。
モノを買うってことは、モノを持つ事で周りから認められるってことだよね。「あいつはおしゃれなやつだ」「あいつはリッチなやつだ」「あいつはイケてる」って。そういう承認欲求の満たし方が上の世代では普通だったわけだよね。
でも、今の「モノ」って大量生産で安くて良いものが手に入るし、手に入ったとしても似たようなもんばっかりだから、そこで承認欲求を満たすのって難しい。安いもの買って、満たして、また買って、っていう細かな「満たし」を延々と続けるしかない。お金もないし、飽きるよね。
だからSNSだったり、表現活動だったり、お金のかからない承認欲求の「満たし」に走るわけだよね。
ケーキの写真とか、ぶっちゃけみんな一緒じゃん。犬の写真撮る角度とかもだいたい一緒だし。犬種と大きさが違うだけでしょ。誕生日にあげる写真とか、ぶっちゃけ誰も変わらない。変わらないけどでもまあちょ〜〜っとずつは違うし、「いいね」はとりあえずつくわけで、そういうすっごい細かい差異につく「いいね」で承認欲求を満たしてく。

SNSとか、お金の発生しない表現活動ってなんとなくコンビニのスナック菓子的なところあるよね。なんとなく食べ続けちゃう。本当に美味しいのかはわからないけどなんとなく小腹が空いたらつまめる。それでなんとなく満たされる。でもすぐお腹がすく。また食べる。そうしてどんどん中毒になる。こういうブログも含めてね。

パーソナルトレーナーの先生が「今の子たちの身体はヤバい」って言ってて、「スナック菓子で空腹を満たす事になれちゃってるから、本当に美味しい物とか、栄養のあるものが分からなくなってるし、そういうものを求めなくなる。どんどん不健康になってるのに気づかない」って。

セーフティネットってそういう細かい承認欲求の満たしあいが相互にできてる状態だよね。今いきなり有事みたいなことにはならないから。そういう平和な状態のときのセーフティネットってそういうことだよね。ヤンキー社会とかもう究極のセーフティネットだし特定のグループの帰属意識って承認だよね。そこにいれば死ぬまで満たされるわけだから。
べつに「モノ」は欲しくないけど、承認欲求が満たされそうなことをするのが好きなのは今の人の特徴だよね。
仕事につかない若い人が多いとかひきこもりとかニートが増えているのも「仕事で承認欲求がなんとなく満たされなさそう」って思ってる人が増えてるからじゃないかと思うんだよね。それは思い込みなんだけど。結婚も出産も育児もしない人が増えるのは「なんとなくそれじゃ承認欲求が満たされなさそう」って思っちゃうからだと思うんだよね。
じゃ、若い人がなんでそこまで承認欲求にこだわるのか?それは、それが満たされてないからだよね。もともと。被災地で支援活動してる人が、以前「被災地で今一番辛いのは仕事がないこと。これまで仕事で承認を得てたおじいちゃんおばあちゃん世代が、仕事を失って、苦しくて鬱になって死んじゃう人もいるし、アルコール依存する人もいる」って言ってた。被災地と都心部って全然違うけど、なんかちょっとずつ心の中が被災地みたいなことになってんのが若い人たちなんじゃないかと思うんだよね。そこにあるべき、本来なら子どもの頃から自分の中に育っているべき承認がぽっかりない状態。いじめとか親からの虐待とかも子どもからしたら被災みたいなもんだよね。若者に限らずなんかちょっとずつ承認が満たされていない状態をいろんな人が抱えているのが今の日本で(じゃあ承認欲求がみんな満たされてる社会なんて過去にあったのか?って言われたらわかんないけど)でもお互いに「これはだめ」「あれはだめ」って叩き合ってるわけだし(電車内のベビーカーへの不寛容さとか、妊娠中の女性へのアタリの強さとかね)叩いてる人は叩いてる人で満たされてないから叩くんだろうけど。互いに互いの満たされてなさで叩き合ってる感じするんだけど、これって昔からなの?どうなの?今の時代しか知らないから分からないけど。50代くらいの人にこの話すると「承認欲求ってなに?」みたいなきょとんとした顔されるんだけど上の世代の人はそういう実感って感じた事ないのかな?どうなの?わからん。
「今の日本にはなんでもある。ただ、希望だけがない」って言ったのは村上龍だけど希望を抱くにもまず承認が必要なわけでそれがないのが今って感じするね。小さい承認のシステムはいっぱいあるけど、でかい承認のシステムに飢えてるよね。皆。
なんか上半期の話題とか見てると小保方さんもポイズン群馬の人もゆうちゃんもみんな承認欲求ゆえの事件みたいな感じするし(サムちゃんとののちゃんは知らん)物欲よりもなによりも承認欲求が一番先の重要課題になってる人が多いのが今の若い世代、っていうかひいては日本全体な気がするけどどうなんだろ。なんか超ありきたりの結論しか出せないんだけど改めて「今の若者は何が欲しいの?」って言われたらこうなのかなって思ったけどどうなの?電通の人とかどう分析してんのかな?
ここまでダラダラ書いてても、これが合ってるかどうか分かんないんだよねー。他の人はどう思ってんだろ。
みんな「若い人って欲がないよね!何がほしいの?」って聞かれたらなんて答えてんの?
あーそれにしてもover50くらいの人に「若い人って物欲ないよね」ってヘラっと言われるとなんかムカつくのはなんでだろ〜?私サーフボードとかめっちゃ欲しいんすけど。


想念の溜まる場所


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教会が好きなのは、想念の篭る場所だからだ。

今、スペインの巡礼路に来ている。

スペイン北部にある聖地を目指して、約800kmの道を1ヶ月かけて歩く訳だけれども、一年に約2万人もの人が世界中から訪れるこの場所は、ちょっとした想念のたまり場になっている。

たくさんの人が、なんらかの理由を抱えて、ひとつの場所に泊まり、寝て、食べて、歩いて、語り合う。けれど、一日として同じ場所には留まらない。人が流れてゆく場所だ。澱の溜まらない、ただ、想念の残滓だけが、ふよふよと道の形を作る場所。

ある日、歩いている途中にとある小さな教会に足を踏み入れた。13世紀に建てられた、とても小さな、名もない教会だが、一歩足を踏み入れたとたん、涙が溢れて止まらなくなった。

教会や寺院などの宗教施設は、そこを訪れた人の感情を受け止める器そのものだ。人は立ち去るけど、祈られた感情は残る。石でできた古い外壁に、内側の象牙色の塗り壁に、何万、何十万、何百万もの人々の祈りが、800年続く人々の想念が、手あかのようにびっしりとこびりつき、教会そのものになっていた。

その教会はメインの巡礼路からは少し外れているため、観光地化されていない。来るのは地元の人々と、通り過ぎてゆく巡礼者たちだけだ。純粋な人々の感情が光の速さで降り積もった場所。

周りを見ると、号泣している巡礼者もいた。

入り口でぼーっと佇んでいると、教会の管理人のスペイン人の女性に、ポストイットを渡された。イエス像のそばに、自分の祈りを貼り付ける方式だ。イエス像の周りには、ブドウの葉のように黄緑色のポストイットがびっしりと貼付けられていた。

何を書こうか、考えるより先に答えが身体からやってきた。
福島のことだった。

気がついたら私は、ポストイットをにぎりしめて、泣きながら福島について祈っていた。

福島。私は別に、福島に親戚が居るわけでもない。知人はたくさんいる。絵本をつくるために、仕事のために、何回も足を運んで取材に行ったからだ。でも、だからってべつに彼らのことをいつも心配しているわけではない。

3年前のあの時は、日々、そのことを、考えざるをえない雰囲気があったものの、3年が経ち、日々の暮らしに忙殺される中で、わたしはそれを忘れてーいや、正確に言うと、思い出さないようにしてすらいる。

日々、そのことを気にかけていたら、生きてゆけないから。そんなことは心の奥底に沈殿させておけばよいものだと、私の理性が判断して、私はそれを、心のどこかに、押し込めている。日常を「正しく」送るために。

「前向きに生きる」という言い訳をして。都市で生活するとは、そういうことだ、と自分に言い聞かせて。

けれどもなぜかこの場所で、私の心をつきやぶっていきなりあふれてきたのはそれだったのだ。

日常の、誰彼が幸せに暮らせますようにとか、自分が健康でありますようにとかそういうどこからかやってくる願望の速さを追い抜いて我先にと心の弁を押しわけて現れてきたのはそれだった。

福島の人々を気にかける気持ち。そこで暮らす友達の安否を気にする気持ち。どうにか、どうにか原発事故が、収束してくださいっていう、普段、生活してゆくために、無理やりねじふせておしこめている気持ち。

それが今、急に掻き出されて、表面に全部、浮上してきた。

心臓から目に管が生えたようになって、どろどろの涙になって流れ出てきた。

心配してたら生きてゆけないから、日々の小さな局面で、気にしないことを選択してきたけれど、それは実はすごく無理して行ってきたことなんだ、本当は自分はこんなにも、福島とそこで起こったことについて気にしているんだ、ということが、この小さな教会に入った途端、全部、溢れ出てきてしまった。先人たちが残した、圧倒的な量の想念たちによって、私の心のどこかのバーが、ぴんと押し上げられて、ダムが決壊してしまった。

なぜかわたしは祈って「しまった」のだ。それは自分の意志ではなかった。裸の私の上に、福島について、祈る気持ちが降って来た。

リクツではないのだ。

祈る。私は別に熱心なキリスト教徒ではない。特定の宗教を信仰したこともないから、祈るという行為は全然身近ではない。信仰に人生を捧げる人々の、祈りの実直さには遠く及ばない。でも、思わず手を組んでうつむいてしまうことにおいて私と彼らは平等だった。聖地と名指される場所は、簡単に、人々の気持ちをこじあける。余計なものを削ぎ落としてしまう。巨大な歴史、人の行いの蓄積。匿名の大きな力が、自分一人ではけして取り払えない外殻を、簡単に取り払う。

自分が実は、日々生活してゆく中でどれだけ福島のことを気にしているか、こんな遠くの場所にきて、やっと気づいた。

この道で多くの人にあったけど、フクシマについて聞いてくる人はほんの少数だった。もっと聞かれると思っていたのに。ヨーロッパの小国出身の人に、「ヨーロッパにいると、フクシマの情報は入ってこないんだよ」と言われた。世界の人々は、もう、フクシマのことを忘れている。私たちも忘れようとしている。

本当は、忘れたくないのだ。

原発事故が起きたとき、私の心に最初に浮かんだのは「ごめんなさい」だった。なぜか私は謝っていた。誰に対して?分からない。けれど、とにかく私の中には、私があやまらなければ、という気持ちが生えてきたのだった。テレビであのもくもくとあがる煙を見た時に。

それは福島の人になのか、日本全国になのか、世界中の人々になのか、それとも壊れてしまった原発に対してなのか分からないけれど、なんでかしらないけれど、東京に住んで、のうのうと電気を使って暮らして来た私が、あやまらなければいけないと思ってしまったのだ。思った所でどうにかなるわけではないけれど、私はとにかく、謝りたかったのだ。「起こってしまった」なにかに。

そのあやまりの先を、正確な先を、見つけぬままに3年が経ってしまった。福島と聞いて一番最初に思い浮かぶのは、そこで日々暮らす友達たちの顔、飯館村の避難所でうなだれていたおじちゃんの顔、志田名で泊めてくれた酒井のおかあさん、それから、楢葉町まであと14kmの道路標識。福島の地形。福島に対する想念は、いろいろな形になってあらわれてくるんだけど、とにかく、「福島」という巨大な概念を前にして、一対一でどうにかできることじゃなくて、巨大なまるっとの相手に対しての返答を考えたときに、わたしができること、したいこと、それはまず間違いなく最初に「祈り」だったのである。今まで、気づかずにいたけれど。

私は一心不乱に祈っていた。お腹の底から神様福島をお守りくださいわたしたちが私たちの友達が平和に暮らせますようにと祈っていた。今まで、寺やら神社やらで、形式にまかせてへらへらと自分のことを祈って来た、あれは祈りなんかじゃなかった。チベットとかでよく五体投地して祈る人、いるけれど、その映像を見ては「そんなんなるほどまで祈りたいことってあんねんか」とか今までぼへっと思っていた。その欠片が、私の中にも、じつはあったんだ。

今日の体験で分かったこと、それは、人って多分、自分のためだけに真剣に祈ることってないんだなってことだ。祈りっていうのは、なんかしらが用意されてあらかじめ約束された形で行われるものではなくて、いきなりはじまるものなんだ。自分以外の大きなものに動かされて、なんでかしらないけれど、いきなり祈ってしまうのだ、人は。そこには形式なんて無用なのだ。なんだかしらないけれど、突然自分以外の何かについて、祝福やら加護やらお願いしたくなる、それが祈りなのだ。想念はどこからともなくやってきて人の意志を流してゆく。他の自分以外の大きな力、人が紡いで来た、巨大な想念の集積を前にして、こざかしい一人一人のの意図なんて、あまりにも無力なのだ、たぶん。


自分探しは悪なのか?


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この記事がシェアされて来たので読んだけど、内容とイントロの文言の不一致感と、それから「お前が言うなや」感がすごかった。

 

「自分探し」の奴隷から脱出せよ! クリエイター紀里谷和明、蜷川実花が熱く語る

http://enrique5581.net/post-10501/

 

>「アナと雪の女王の「ありのままの〜〜♪」ではないですが「自分探し」という言葉が流行しています。」

 

っていう書き出しからしてセンスなくて笑っちゃいそうになるんだけど。何年前の話だよって言う。5年くらい前の記事かと思ったら一昨日のだった。


いつも思うけど、たいてい「自分探しなんてしなくていい」っていう有名人に限って、いやお前まだ自分探してるやろって感じがしたり、自分探しさんざんし終わってドヤってる感じがして、いやそれ、し終わった人間が「する必要ない」って言ったからって、それって童貞脱した人間が童貞に向かって「いや童貞のままでいいって。大した問題じゃないって!!」っていうようなもんででもそれ当の童貞からしたら納得するのなんてまず無理で、いやそれお前が言うなやぁ!!!!って本人にとっては大問題なんだってばってな感じが童貞じゃない私にもすごくよくわかるんだけど。
この人は「流行ってる」っていうけど、どっちかっていうともう「自分探し」ってカッコワルイものみたいに思われている気がする。この前もある学生さんに
「世界一周したいけど、周りに『お前、自分探しかよ』って言われていじられたら恥ずかしいし…」って言われてえーーーーっ!!!お前はときめきメモリアルの藤崎詩織かぁ!!!って思わずのけぞってしまった。そんなこと言われんのかよ。どういうこっちゃねん。
で、試しに周りに「自分探しってどういうイメージ?」って聞くと、これがだいたい「インドに行く」とか「海外を一人で放浪する」とか、陳腐なイメージしか出てこないのだ。旅=自分探しかよ。ステレオタイプすぎだろ。


私は自分探しって、旅に出る事でもなんでもなくて、「本人が“こう生きる”と決めるまでの迷走の過程」だと思う。
今の自分は嫌いで、だから変わりたくて、でも、変わり方も、変わった先の理想の自分も、上手く想像できないから、よくわかんないまま宛先不明の手紙をずっと出し続けて返事が来ないからずっと海老ぞりと胎児のポーズを繰り返して、そのままどこにもいけないイメージ。

だから、そういう意味では、丸の内のオフィスビルで働いていたって自分を探している例もあるし、インドを何年、旅していたって、自分探しじゃない例なんて多分にある。

生き方をある程度決めてしまったらあとは楽だ。村上春樹の小説みたいに、たんたんと事を運べばいい。けど、自分探ししている人たちには、それができない。「こう生きる」と決めたい自分と、今の自分の不一致が苦しいから。どう生きたらいいかわからなくて苦しんでいる。

ずっと前にナンパ師の男の子の話をブログに書いたけど、彼のやっていることだって立派な自分探しだ。異性愛に関する、理想と現実の自己像の不一致を埋めたくて、必死にもがいている。

私がシェアハウスに引きこもって暮らしていた時にも、周りには定職に就かずにふらふらしている子がいっぱいいた。彼ら、彼女らはよく「やりたいことが見つからないんだよね」とか「働きたくねーから」みたいなことを言う。でも、そういう悪ぶった、ちょっとふてくされたようなことをいう人たちに限って、本当はもう一段階、深刻な悩みを抱えている。つまり、「どう生きていいのか、わからない」っていう。

そういう、だれもつまづかなそうなところでつまづいてしまった自分に苦しんでいる。誰もつまづかなそうなところだから、誰にも相談できない。本当は社会に適合したいし、自分なんか探さないですんなり生きたい。けれど、誰もつまづかなそうな所でつまづいている自分が、またつまづいたらどうしよう。そういう、「まさかの葛藤」が、彼らを苦しめている。

そういう人に「四の五の言わずに適当なところに就職して働け」と言ったって、無駄である。

言われて聞くようなら彼らは最初からうだうだ自分探ししていない。

聞けないから迷っているのだ。自分探しする人は、頑固なのだ。

 

もうこのさい、不謹慎を覚悟ではっきり言うけど、自分探しをせずに何の疑いもなく大人になれた幸せな人たちを健康体だとすると、自分探しをしてしまう人たちというのは、もう、ビョーキみたいなもんである。
幼少期にアタマ打ってどうにかなっちゃったんだよ。だからしょうがない。そういう人は。周りが「自分探しなんて辞めろ」なんて言うだけ無駄。
そういう人は、もう、諦めて自分探しに邁進するしかない。
「自分探しなんてするな」というマトモな大人の意見なんか、聞いてはいけない。脳のビョーキなんだから、聞こうとするとエラーを起こしてますます迷走の期間が延びるだけ。
自分探しなんて、まじで超超超カッコワルイものなのだ。
みじめだしじめじめしていてもう途方も無くカッコ悪くてやばい。まじやばい。そんなもう超自明のことを、「自分探しかっこわりいww」とかって笑うヤツは、カッコワルイものをカッコワルイとそのまま笑うっていうなんのクリエイティビティも芸もないことをやっているだけだという自覚をしたほうがいいと思う。
自分探ししているやつなんて世間的には基本大メーワクだし、家族にもヨメにも夫にも上司にもあらゆる人から褒められないし、まんがいちそういう人が「自分が見つかった!」なんて喜び勇んではしゃいでも返ってくるのは「あっそう」だけである。
だからこそ、カッコワルイものをカッコワルイままやればいいんじゃんと思う。カッコワルイ事をわざわざ避けても、じぶんがひしゃげるだけだからつまんないと思う。自分を探したくなるカッコワルイ自分を抑えて社会にテキゴーしようとするとカッコワルイ自分が心の中で暴れ回るのを黙殺しないといけなくなるから、反動で年取ってから若者に飲み屋で説教するような「俺すごい」って言わないと気が済まないような、影で若い人に後ろ指さされまくるようなカッコワルイ大人になっちゃうと思う。
もう、自分がカッコワルいことを分かった上で、開き直らずに、淡々ともがけばいいと思う。他人のカッコワルさって他人はあんまり気にしてないから。やれるだけ、社会と自意識の狭間で七転八倒して、Mr.ドリラーみたいに掘りまくって掘り尽きて、自分を延々と微分しまくってああもうなんにも出てこないよなんも見えねぇってなった時に、はじめて、社会に目を向けられるんだから。