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傷つく、ということ

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今日は朝から知人と共に鎌倉の円覚寺に座禅を組みに行った。
座禅は初めてだ。
GWということもあり、狭い経堂は直ぐに満員になった。
足を組み、目を半分とじる。
「一点だけを集中して見てください」と言われたので、
前の人の背中のシャツの皺に視線を縛り、
ゆっくりと呼吸を繰り返した。
本来は「無心」を目指すものだが、
それは無理だと思ったので、
ひたすら一つの事だけを考えるようにした。
愛についてだ。
愛について、というと壮大すぎるので、
具体的には、
誰かに「傷つけられる」
ということについて、考えを巡らせた。
暗い経堂の中、警策の音だけが鳴り響き、
五感が靄のようにすべらかに拡散してゆく。
その中にぼんやりと思考が立ち昇る。
私が以前、相談した人は、こんなことを言っていた。
「誰も、傷つけたくてあなたを傷つけたわけじゃない。
 それを許せるかどうか。
 傷つけられても、どうなっても、何が起こっても、
 あなたの存在価値は変わらないんだよ。」
禅語の中の一つに、
「心無罫礙 無罫礙故」と言うのがある。
罫はひっかかる、邪魔をする、
礙も妨げるという意味がある。
心のありかたを邪魔するものは、なにもない、という意味だ。
長い事、
傷ついたり、苦しんだりして、心が欠けたような気がずっとしていた。
他人と接していても、相手の心の傷ばかり追っていた。
恋人と接する時もそうだった。
でも、
先週くらいからの「変化」の中で、それは、違うあり方だったのかもしれない、と思うようになった。
人の心は、まるくて、完璧な形をしていて、
どんなことをしても、
どんなに傷ついたとしても、
それは「現実の出来事」が否定された、というだけで、
自分自身の心の本来の形は、損なわれることなどありはしない。
何があっても、
心のありようは、他人から与えられた傷では、決して変わらない。
その事に気付かないから、「傷つけられた」と感じる。
自分が損なわれた存在みたいに思えてしまう。
自分が「傷つけられた」と思っていると、
自分が相手を傷つけてることに気付かない。
それは相手も同じだ。
だれも傷つけるつもりで傷つけてなんかいない。
今朝、私を傷つけたあの人も
あの人なりにさみしくて、傷ついて、苦しんでるだけだ
さみしい犬に手を噛まれただけだ
24年間、やりきれなかった家族との関係も
なんのことはない、
互いに愛情に飢えた子どもだっただけだ
さみしい子供に裾をひっぱられても、振りほどこうとは思わない
誰も誰かを傷つけるつもりなんかなかったのだ
許せば、いいのだ
こちらが愛せばいいのだ
そこまでたどり着いたところで、時間が来て、
座禅の会は終了した。
外に出る。
暗い場所に目が慣れたせいか、日の光が二倍まぶしく見える。
感覚の途切れたふらつく足で、
円覚寺の山に登り、
頂上から鎌倉の景色を一望した。
天の底を突けそうなほどに澄みきった青空、
猛々しく繁る緑に、雨のように降り注ぐ太陽の光が照り返す。
景色の奥まで、ずっと続く山々。
風が目の前の生け垣の葉を優しく揺らしている。
その瞬間、思った
世界は完璧に綺麗だ、と
誰かが誰かに注いだ愛情も
私が誰かに注いだ愛情も
大した差じゃない
世界は丸くて、欠けがない
完璧な「愛」だ
ただ、あるだけ
世界はそれだけで美しいのだ
私が消えてもきれい
あの人が消えてもきれい
砂粒がひとつ消えても砂漠が尽きないのと一緒だ
じぶん が在っても無くても美しいのだ
だったら じぶん は無くても 同じだ——
二四年間、大事に抱えていた
「わたし」が 
ふっ、と
目の前に生い茂る
木の葉一枚一枚のあいだに溶けてゆくのを 
その時 感じた。

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絶対触感

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調布にある、某カイロプラクティックの先生のところに相談に行く。
紹介してくれた知人曰く、
「身体を触るだけで、その人の悩みや人間関係、今までの生き方」
をぴたりと言い当てるのだそうだ。
診察台に寝かされて、足を交互に上げ、こめかみをトントン、と指で突かれ、、
頭蓋骨を触って、「推理します」と言って考え始めたあと、
いきなり、私自身が今一番心配していることを言い当てられた。
「私には、『絶対触感』というものがあります。」
そういって、先生は手のひらを見せた。白くてすべらかな、羽根のように繊細な手だった。
「私はこの力を使って、20数年間、人の身体を触り続けてきました。
つまり、小野さんが生まれた頃には、私はもう、この道に入っていたことになります。」
私は驚いて目を見張った。
診察室に入ってから、ずっと目の前にいたこの女性を、私は30代前半ぐらいだと思っていたのだ。
この道のプロ、と聞いていたのに、やけに若い先生だなあ、
もしかして本人じゃなくてお弟子さんなんじゃないの、とさえ思っていた。
「私は他人の頭を触っただけで、その人の感情がわかります。
人間の頭蓋骨は、つねにウネウネ動いています。
その凹凸が鍵盤を奏でるようにして、感情を起こ『させ』ているのです。
感情というのは、自分自身の心が感じているもの、だと思われていますが、
実は、体が自分自身に必要なものを察知して、
脳がそれに従った行動を取るように、
そういう感情を呼び起こ『させ』ているのです。」
先生は続けた。
「足が上がらなくなる、というのは、ストレスを感じている証拠です。
特に、左足が上がらなくなるのは、
自分が受けたストレスではなく、他人が受けている苦しみを自分も背負い込んでいるストレスです。
それで、こめかみのこの部分が痛い、というのは、
その相手を助けたい、という苦しさの証なんですね。
いま、あなたの盲腸が非常に弱っています。
盲腸というのは一見、働いていないように見えて、体内の細菌の量を調節し、免疫力の増減をつかさどっています。
いま、盲腸はあなたの免疫力を「わざと」低下させている。
免疫力を落とすことで、外からの刺激を受けやすい敏感な身体にしている。
なぜか。
それは、近しい人、あなたが親密に思っている人の異変を察知し、
危機的状況を細かく把握することで、その人をピンチから救おうとしているからです。
あなたが、相手のストレスや苦しさを背負い込もうとしているから、体が反応しているのです」
ずばっと言い当てられた。
驚きながら、私は今の自分と、自分が心配している相手の事を先生に話した。
先生は、指を私の盲腸のあたりに深くめり込ませた。
深く深く突き入れながら、指先でなにかを探るような動作をした。
まるで私のお腹を通じて、今、ここに居もしない相手の心を触っているような感じだった。
先生に「心配しなくなれば、相手に執着しなくなれば
直るのでしょうか?」と聞くと、
先生は
「執着しているとしたら、
それはあなたの体が必要としているからこそ、
執着するのです。
すべての感情は正しいのです。
それを否定しようとして、離れれば離れるほど、身体は拒否反応を起こしますよ。」
と言っていた。
先生に、ひとしきり悩みを相談したあと、
「免疫力が落ちすぎているので、とりあえず回復させます」と言って、
施術をしてもらって帰った。
感情は体が起こ「させ」るもの。
だったら今の苦しさは、なんのために起きているのだろう。
身体は私にどうさせたいんだろう。
どうやったらこの苦しさは取れるんだろう。
分かりもしない問いが、頭蓋骨の内側でカラカラ鳴って、
調布駅の、白い柵で囲まれた、まるくて入り口のくびれたロータリーが、
不意に髑髏の形に見えた。

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社員と肺魚

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社員になった。
1ヶ月半くらい逃げて逃げて逃げ続けて、
最終的に苦肉の策で「バイトがいいです!」と懇願しても「ダメだ」と言われ、
首根っこ捕まえられて、どうにかこうにか収まりのいい形に落ち着かされて入社に至った。
しゃ、
い、
ん。。。
「しゃいん」と平仮名で書くと、なんかの効果音みたいだ。RPGの金属音的な。
この、新卒の2割が就職できなくて、社員になりたくてもなれない人が大勢いるのに、
働くのには社員じゃなきゃ駄目だ、と必ずしも必要ないのに社員契約を結び、
儀礼的に面談をして肩を組んでピースして
「社員になったからにはファミリーだから」と役員の一人に言われ、記念写真を撮った。
私にはもったいなすぎるくらい、いい会社だ。
書面にサインをしながら、「正社員」って、すごい概念だ、としみじみ思った。
今日も明日も同じところにいて、同じ身分が保証されていて、同じように生産し続けている、と周りから確信されていて、
(すくなくとも、最近までの「正社員」の概念はそんなかんじだろう。)
体細胞がごっそり剥がれ落ちて、髪も皮フも内臓も全く新しい別人に生まれ変わっている
5年後も、今と変わらずそこにいる、と思われている人間。
働くのが嫌なんじゃない。
会社は好きだ。
けど、働くという行為に、擬似家族的な縛りがかかるのが嫌なんだ。
この、中も外も、非正規も正規もない時代に、
どこに所属するか、よりも、どんな仕事を創るか、のほうが大事、だと
薄々感じていたからこそ就活もできずにフラフラと蛾がランプに吸い寄せられるように
働く場所を見つけていた私にとって、
仕事の中身は全く変わらないにも関わらず
「社員になれよ」と、このバリバリの所属感を醸し出される
言葉をラバーマスクのように顔に被せられる事は、
まるで、「息を吸う」ことには変わらないのに、
いきなりエラの部分に手をつっこまれて水中からひきずりだされ、
「お前、今日から肺で呼吸せえよ」と言われた
大昔の魚のような、そんな気分になりまして。
シーラカンスも、肺魚に進化したとき、皆が平然と陸に上がっていく中で
一匹くらいは「やだなー」と思っていたんじゃなかろうか。
そう、そんなわけで、
書面にサインした瞬間から、
なぜか気管支をきゅっ、と絞められたような息苦しさがずっと胸のあたりをぐるぐるしていて、
都電荒川線の終電にのって会社から離れれば離れるほど、
その苦しさは増してゆき、
じっとりとコートと襟足の間に冷たい汗が溜まり、
「社員」という字の「ネ」と「土」と「口」と「貝」の間のすき間に
「私」がピーマンの肉詰めのようにぎゅうぎゅうに押し込められて横からプレスされ、
余った肉の断片がむりむりとはみ出して来るようなイメージが頭の中で繰り返し再生されていて、
それを前頭葉で直視しているうちに呼吸がどんでん逆流を起こし、
山手線の中で必死に過呼吸をこらえつつ、這うようにして家に帰った。
まれびとハウスに帰ると、「創職系男子」のうっちーとまっつんが起きていて、
一応、入社した事を報告すると、何事もなかったかの様に流され、
どんな会社か、と聞かれたので
「・・・“社員は家族”みたいな会社」と言うと、
横からフジタクがぼそっと
「・・・家族経営・・・」とつぶやき、
パソコンを開くと、おととい知り合ったジブリの人からメールが来ていて、
「会社の『外』、なんてないですよね。
会社に『入る』『所属する』とかいう発想は、
もうぼくらには必要ない感覚です。
いろんなところに足場を持つ。」
と書かれていた。
呼吸ができるようになった。

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