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違和感ありあり、瀬戸内国際芸術祭

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瀬戸内国際芸術祭に行ってきた。
瀬戸内国際芸術祭は、瀬戸内海に点在する7つの島々(直島、豊島、女木島、男木島、小豆島、大島、犬島)を、あのへん特有のものっそい痛い日差しを直にザクザク浴びつつフェリーで移動しながら、各島に設置された作品を見て回る、という仕組みになっている。
同行者が瀬戸内芸術祭の内情に詳しい人だったので、「出展作品は玉石混合だからね」と言われつつ、出展作品を見てまわった。
うん、確かに島は良かったよ。
路上に脈絡なく咲きあふれるヒマワリと色あせたトタン屋根と潮風で表面がそげ落ちて黒ずんだ板張りの家家と、クリーム色のセメントの壁、日差しを凝縮してぎゅよんぎゅよんに濃い緑とぼたぼた落ちるバター色の日の光、その全ての具合が、昔見たイスラエルの空港からエルサレムの市街地へ抜ける、あのオリーブ畑続く国道に激似でふとした拍子に懐かしさが迫ってきて感慨。海も綺麗。
だけど、だけども。
アート作品自体はというと、うーん。なんというか、とっても微妙。
あまりに微妙すぎて、4日滞在の予定を2日に短縮して帰ってきてしまった。
なんでかっていうとそれは、展示作品と、それを置かせてもらってる島との「文脈」が、さっぱり見えてこないからだと思う。
私はアート素人だし、作品の背景を知らないままに見ても、見たままの事しか感じ取れんし、なぜこの島にこの作品なのか、とか、そういう事前情報を一切仕入れないまま見に行ったという事もある。
だけど、それを差し引いても、普通にガイドブックを見て、作品を見に行く、という、多くの人が取るであろうごく一般的な鑑賞法を取ったところで、なんでこの島にこの作品で、この展示に関わった人のこんな思いがあってこれはここにあるんです、というのが、全く伝わってこず。
島の町屋を改造して無理やり作品をはめ込んでても「なんで?なんでそこなん?」という違和感がありあり、
それらの質問を投げかけるために周りを見渡してもボランティアスタッフの人は客をさばくのにせいいっぱいでなんか話しかける隙もないといった雰囲気。
ボランティアスタッフが圧倒的に足りてないらしい、と同行者から聞いてたけどほんとそんな感じでコミュニケーションは果たせず。
たぶん一般のお客さんとかもっとそんな感じじゃないかしら。
そもそも島になんかつくればそれで地域活性、ってゆうのもなんか、なんか違和感ありありでして、美大の子らの出展作品で、古民家を改造して作ったイベントスペース、というのがあったけど、島とアートの融合を目指してるのかわからんけど、古民家を改造してなんか作ればそれは地域活性になるん?という疑問もあり。
でもどちらかっというと私には、海水浴客が捨てて行ったプリキュアのビーチボールがドブに詰まってんのを誰も片づけないままになってるのの、アニメ色のどぎついピンクとナチュラルなドブ色が図らずもいい具合のコントラストになってるのとか、「めぎほいくじょ」の看板とか、モアイ愛好会とかゆう脱力系の人がつくった似てるのか似てないのかわかんない何で君、ここに建てた?!と思ってしまうようなモアイ像のほうが、無文脈だけど島感にじみ出過ぎてて愛着。こういう暮らしの偶然が作った景観のほうがよっぽど島アートや!と思うんですよ。
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そう愛着。
島から作品への愛着も作品から島への愛着もいまいち感じられんよ。
なんか島とアートの間の関係性が見えなくて、まるでヨソの子をいきなり預けられたお母さん、みたいな感じで島からアートが思いっきり浮いてた。
今回の同行者は瀬戸内芸術祭に知り合いが多数参加してて、内幕や裏事情に精通してるから、そういう話を聞いた上でウォッチャー的な目線で見ればそれはまた面白いのかもしれんけど、そういう内輪のルールが分からないと参入できず、ハタから見てても面白くない、例えるならマージャンみたいな、そんなお祭りにしたかったわけじゃないよねぇ。
美大生と関係者とその周辺、しか楽しくないんだったら、島でやらんでもいいんじゃ。
ただ、芸術祭側の願いとして、アート目当てで来たお客さんが島の魅力に気付いて、芸術祭後もリピーターになってほしい、というのはあるみたい。
その気持ちはよくわかるし、実際、島はすてきだな、と思うんだけど、の割にみんな注目してるのはどうも直島ばっかなのよね。
閑古鳥の鳴いてる他の島をヨソに、直島行きのフェリー乗り場は人でごったがえして乗りきれず、地中美術館は3時間待ち、とかなっててディズニーか!状態で。
直島、瀬戸内芸術祭の作品は展示されてへんで!!ベネッセばっかりや!みんなそれ分かって行っとるんか。余計なお世話か。
これ島が潤うというよりベネッセが潤うために芸術祭やったんとちゃうの。と思わざるを得ない。
でも、くやしいかなどう考えてもベネッセ美術館群のほうが圧倒的に見ごたえアリという事実は否定できず。ベネッセはベネッセっつう文脈で完結してるからね。
聞くところによると、瀬戸内芸術祭に関わっている方々は、「開催すること」そのものより、「開催後に何をするか」のほうをすでに見ているらしく。そっちに期待しろ、っつうことなん?
というわけで微妙な手ごたえのなさを味わいつつ4日滞在を2日に切り上げて帰ってきたわけだが、瀬戸内芸術祭よりもぶっちゃけ、最終日に泊まった岡山県・倉敷の美観地区のほうがよっぽどおすすめの場所ですわ。
昔ながらの町屋が並ぶ通りには伝統工芸のお店が軒を連ね、日本全国の粋な土産物が集まった「平翠軒」は1時間以上眺めていても飽き足らず。特に「倉敷町屋トラスト」は町屋を改造した宿泊施設で外は昔の雰囲気ありありなのに中はデザインホテルみたいな作りでセンスがエロいね。このクオリティで11800円。
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あと芸術祭はあれでも香川県の骨付き鶏肉専門店「一鶴」とデザイナーズ・温泉である「仏生山温泉」は大大大マスト。温泉だけでアートを制した気になるね。本持って湯船に入れます。
というわけで瀬戸内国際芸術祭自体はあれやったんだけれども、芸術祭に関わっている方々が今後どんな展開を見せるのか見守りたい、そんで小さいひなびた島々が芸術祭以降どうなっていくのか、楽しみに見ていきたいと思っております。

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サハラ砂漠は正義か?ーブラジリアンワックスに行ってきた。

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毛の諸問題、ロンドする。

 

肉と並んで女子の二大命題であるのが「毛」の処理問題であることはみなさまにおかれましては概ね同意されることと存じますが、女子界において、毛の「どこまで処理すればOKか問題」は、マグロ問題(どこからがマグロなのか)と並ぶ、他人に聞きたくても聞けない永遠にロンドする問いの二大巨頭であります。

 

かくいう私も、かつてはこの問題に頭を悩ませた一女子でありまして。

大学時代、留学生の友達に

「ミユキ、なぜ日本の女性は下の毛をはほったらかしなのか。」

と真顔で聞かれて面喰らい、

「そういう文化だから・・・」

と言いかけて、

ふと彼の専攻が民俗学である事を思い出し、

これはひょっとしたら彼の日本人観に大きく影響を与えてしまう、たいへんアカデミックな答弁ではないか、

だとすると迂闊なことは言えぬ、でもどうしよう、

よく「日本人は日本文化について何も知らない」と批判される事が多いけど、その通り、日本人の陰毛観なんて知らないし・・・と悶々とし、結局黙り込んだ覚えがあります。
しかし、このごろ下の毛の処理は世界的にはもはやごく当たり前の常識になっているそうで、オシャレの先端N.Y.Cはもちろん、アメリカ南米ラテン系では処理はもはや当たり前、何もしないのは日本人女子がわき毛をほったらかすのと同じくらい罪なんだとか。
そういえば、留学していたモントリオール—あの、1ブロック毎にSEXショップか麻薬の売人が立っていると言われる荒廃した都市モントリオールにて、興味本位でふらりとその手のショップに入った時、陳列していたビデオのパッケージの女の子たちは、皆、そろいもそろって美しい肌色のランドスケープを披露していたような。
だとすると、彼の疑問もごもっとも。

彼の祖国においては、各人のデルタ地帯にはさわやかな風が吹き抜ける砂漠のリゾート的風景を構築することが当たり前として認識されているのなら、日本に来て、日本女性のあまりの“熱帯雨林”ぶりにカルチャーショックを受けるのも納得がいく。

かといって、日本においてその需要はあるのか、というと、そこが問題なわけで。

外国人男子はともかく、日本人男子は女性が自主的に密林を伐採することについてどう思うのか?

もしも初めて、そういうコトに及んだ場合、女子の某所が鳥取砂丘だったとしたら、その時、どんな感想を抱くのか。

ここが問題の肝ですよ。

これがもし男女逆の立場だとして考えると、男子となんだかイイ感じになりまして、いざコトに及んだ時、相手の局部にもしもなんの装飾も無かったとしたら、

私なら

・それは自分の趣味なのか、それとも誰かに強制終了させられた名残りなのか

・もともとは他の誰かの趣味だったが、徐々に自分もはまってしまったのか

この疑問が頭をよぎってとても営みに集中できない。

 

元々野を駆け地を這い、獲物を追っていた狩猟民族の西欧人に比べ、八百万の神を信仰し、自然と共生しながら「育つに任す」方式で暮らしを営んできた農耕民族・ジャパンの男子の繊細なハートが、力技で人工的なデザイン・ランドスケープを作り出す、西欧文明的美意識に、果たして耐えられるのか。
彼女がサハラ砂漠だったら、引くのか引かないのか、いやむしろアマゾンのほうが正義なのか。

 

「人による」というのがもっともな答えであることを分かりつつも聞かずにはおれないこの問題。毎年夏になれば、この問題こそが、テレビのCM帯を埋め尽くすキンチョーと青雲と同じくらい、私の頭を占拠するのです。

 

体育会系ゆえに…。

 

かく言う私はというと、昨年夏、例のおしゃれ女子なら一度は煩悶するであろうサービス、全世界的流行のあのサービス、「ブラジリアンワックス」を施行したことがありまして。
2009年の夏、私はなぜかノリで浅草サンバカーニバルに出場することになり、毎年上位を争う強豪サンバチームの一員として、優勝目指し汗水垂らして練習を重ねることに。
サンバの世界と言うのはそれはもう、あっけらかんとしたイメージとは裏腹に、大変厳しい勝負の世界でして、評価はフィギュアスケートのごとくきっちり項目点数制、その一点の差が勝敗を決めるという大変シビアな世界。そのためチームはバリバリ体育会系で、先輩ダンサーは後輩が一点のミスをも起こさぬようきっちり指導する、大変に上下関係の厳しい世界なのであります。
その厳しい指導の一環に含まれているのが、「陰毛指導」。

 

ある時新人ダンサーだけが集められ、不安げな顔の私たちとは裏腹に、仁王立ちした先輩ダンサーが神妙な顔つきでこう言うのです。
「下の毛がはみ出ていると審査員の減点対象になります」

 

減点ってどれくらい・・・?怖くて聞けませんでしたが、その場できっちりと処理の仕方を体を張って教え込まれ、(線香がいいとか、専用の鋏でねじりながら切るのがいいとか)「あんたら絶対にミスは許されへんよ」と喝を入れられ、優勝目指すチームのマジ度を頭に叩き込まれて帰された。
勝負のためにまさかそこまで、でも確かに、一人の粗相がチーム全体に迷惑をかけ、「今年入賞できなかったのは○○さんのハミ毛のせいだ」と言われるのは一生忘れられないほどの恥辱だろうな。
そう思い、ブラジリアンワックスでは日本でたぶん一番有名であろうと思われる、原宿は神宮前のオシャレエステティックサロン、「Boudoir」の門を叩いたわけです。

 

アンダーなのにアンダーじゃないヘアカット代

 

なにやらエロティックな外観に、ドアを開けるのを躊躇しつつ、中に入ると受付のお姉さんに個室に通され「全部脱いでバスローブ着てね」と言われて放置される。

部屋の内装は、紫のシャンデリア、赤いビロードばりの椅子にアールデコ調の鏡が置いてあったりして、19世紀フランスの秘密クラブ的な雰囲気が醸し出されておりまして、「これから陰毛抜きますよ」的なテンションはゼロ。日本女子を緊張させないための配慮なのでしょうか。
しばらくするとエステティシャンのお姉さまが部屋に入ってくるのですが、これがもう、いかにも外国人男性と付き合ってます的お色気ムンムン美人なわけで、当然この美人も下はアラビアンリゾートばりのさわやか設計なんだろうなと思うとむしろそっちのほうに興奮する。

 

ここでどんなカッティングを注文するか、大変悩ましいのですが、思い切って「Bold」にするか、「Landing strip」(ググってね)にするか……。

でも「Landing strip」だと見られた時に日本人男子相手では「カ、カトちゃん?!」みたいになりかねず、むしろ性欲から笑いに移行、してしまうのではないか。だとしたら困る、避けたい、

しかし「Bold」はあまりにもトンガりすぎ、ドライブ感効き過ぎで、付いてこられない男子多数、だと困るし。そういえばセックスアンドザシティでも、サマンサが15歳年下の彼氏に「おれ、もじゃもじゃがいいよ」と言われてしぶしぶ毛、生やしてたな……。

と、色々煩悶した結果、Vラインを控えめに処理、という、日本人女子らしい大変中途半端で冴えない注文をすることに。

で、ベッドの上で極めて事務的に恥ずかしい恰好をさせられ施術するのですが、ご想像の通り、涙と血が出るほど激痛です。
最初のVライン(ここの処理はもはやありふれてますね)だけでも死にたくなるほど痛く、もうだめやめて、となりますが、ここはブラジリアンワックスのお店、それだけでは終わらず、文字にするのも恥ずかしい秘密の花園、IラインとOラインも当然、サービス範囲内(意味が分からない方はググってね)。
恥ずかしさに死にたくなっている自分とは裏腹に、お姉さんは陰毛専用ハサミ、ワックスシート、ピンセットを巧みに駆使し、手術の様な冷徹さと華麗すぎる手さばきで処理を進めてゆきます。
30分もかからずに施術は終了、「もう二度と来たくない」と思いながら服を着るも、終わった後のエステティシャンのお姉さんの、一戦交えた感のある、てろんとした笑顔を見ると

「この人はこんな大変な作業をやってくれたんだなぁ・・・偉業。」

と、感謝の念があふれます。

支払いは最後。6700円。高い。アンダーヘアの癖に普通のヘアカットよりもアンダーじゃないってどういうことなの。

 

セドナはやはり遠い、心理的に。

 

しかしですね、身を持って気付いてしまったのですが、一度伐採してしまうと、正直、正直ですよ、快適さ具合が、熱帯雨林時に比べ、半端ないのです。

スカートの足の間には観光地的に程よく整えられたアメリカ・セドナの頂上のごとく快風が吹き抜け、暑い夏はとにかく爽快。こら熱帯気候のブラジル人が行わない訳ないわ。つーかむしろ高温多湿の日本においてはかなり有効な衛生法だし威力は倍?!
人生の中でも数少ない、上手く言葉にできないほどのパラダイムシフトを味わいました。
おかげでサンバでも大変思い切りのよい踊り方ができ、そのおかげか分かりませんが、チームは見事歴代初の準優勝。
じゃあ思い切って全部つるつるにすればいいのか、というと、下の毛はフェロモン分泌の大事な要素、とか、皮脂線から汗が出なくなるからかえって臭くなる、とかいろいろなうわさもあり、せっかく伐採しても肝心の男子に引かれたのでは元も子もないわけで、なかなか踏み切れず。しかも、セドナ状態を維持するには2週間に一度サロンに通うだけの財力と気力が必要なわけで。

 

でも逆に金閣寺の苔庭的な繁茂の仕方も自然の豊かな恵みを感じられ、そこは昭和の日本ポルノに出てきそうな、まさにコケティッシュな魅力があるわよね、白黒だと黒く映るのそこだけだし。

 

ということでやはり一度の施術で思い切りよく世界水準に達することはできず、やはり心は思い切りのわるい大和撫子、伐採と植林について、現在もうじうじと悩み続ける日々は続きます。セドナはやはり、遠かった(心理的に)。

 

一番の解決法はお金は出すからサハラにしてくれ、と言ってくれるソッチ系趣味の彼氏を作ることよね。募集してみようかしら。

 

追記:togetterで伐採に関する男子のご意見をまとめました

今のところやはり日本的石庭が人気のようです・・・しかし砂漠支持派の意見も。

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(※セドナで挑んだ晴れ舞台の証拠写真。ノーパンではありません、念のため。)

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重要なのは筋肉の間

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気づかい要請、深刻。
先日ふとした拍子に海に行くという企画が持ち上がり、さあらば、となんの気なしに身体のもろもろの部位を測定したところ、24歳女子の厳しい現実をつきつけられ驚愕、そらそうよね、10代後半ごろより若さを盾に運動はおろかろくにダイエットもせずのうのうと過ごしておったけれども、20代中盤ともなればなんの気づかいもなしに美しい体型維持は少々厳しくなるわよね、思えばここ数年は身体を維持するためのケアに時間などまったく割いてこず、さんざん好き放題飲食と怠惰を貪っていたわけで、そら当然です。
であれば、時間だけは溢れる湯水のごとくあるニートの優位性を活かし、昼夜徹底的に身体を鍛えてやればいいわけで、昨日メジャーを持ちながら私を馬鹿にしたまれびとハウスの住人の面々に、2か月後、うっとりボディ、見せてやろうじゃん。セクシーはつくれる、とばかりに鼻息荒く財布を掴み、家から一番近いメガロス田端の扉を叩いたのであった。
筋肉が主役なのよこの園は
さて、中に入るとそこはもう、筋肉の世界であって、人体標本のような肉体の方々がご自身の体にうっとりしながら闊歩しておりまして。その艶めく人肉林の間には、銀色に光り輝くなにやら難しそうなマッシーンの数々。筋肉と同じくらい磨き上げられたソレにみなさん肉体を絡ませてらっしゃる。
それは肉体と機械のぶつかりあい、いわば人間と機械の戦争であって銀河鉄道999かスター・ウォーズか、って話なんだけど、ジェダイの騎士よろしくの真剣さで、己が肉体の限界を更新すべく、こちらの熱気とは裏腹に冷酷に負荷をかけてくる機械に対し渾身の力で対峙なすってるわけで、観察しててもみなさん頭にあるのはもう肉体のことだけ、しかもそれはエロ方面ではなく本当に筋肉繊維、あのタンパク質でできてるとゆう、あの部位のことだけをひたすら想い焦がれ追い求めているのであって。
思えば普段、肉体に思考を集中させたりとか、しないよなあ、日常、肉体は思考のいれものであって、決してそれ自体に意識を巡らしたりはしないのに、であればジムという場所は肉体のほうが精神より優位している特異な場所であって、なにやら神聖な空間のように思えてきて、如何、というようなことを考えながらとりあえずランニングマシンに向かう。
走ることについて私は何も思わん
思えば肉体を酷使する代償として喜びを得る行為なんて、ここ数年の人生の中でもセックスと踊りとヨガ、くらいしか見当たらなくて、けれどもまあセックスはさておき、ダンスというのはそれ自体が祝祭的な何かであってルンルン。ヨガ、あれも肉体と言うよりもほとんど精神的行為であって、ポーズよりもポーズを取ってる間の精神活動のほうに重きを置かれてるわけであって、ただ寝転がってるだけの怠惰MAXなポーズも、ヨガ界では屍のポーズと呼ばれて精神の浄化をするっつうんでたいへん重宝されてたりして、なもんで単純に筋肉の伸び縮みとか、走る事で喜びを得るとかいう、肉体のいちいち一つ一つの動作そのものを目的とした行為は久方ぶりである。
巷ではジョギングがブームとかって、村上春樹も言ってるね、OLさんも美ジョガーっつって皇居の周りは大人気のランニングコース、御堀の傍には美男美女が喜んで順番待ちの長蛇の列に並んでるとか、そんな噂を聞きつけても、なんでみんな走るんやろ、そもそも私は「急ぐ」という行為が大変に苦手であって、走る時は急ぐ時以外のなにものでもなく、できれば極力走りたくない、すぐに心拍数が跳ね上がるし、めまいもするし、あんな全速力で駅の階段を駆け降りるなんてそんな怖いことできん、走るくらいなら遅刻してでも一本電車を見送る人生を送ってきた、それなのにわざわざ金払って走りにきてるわけであって、意味が分からん。
しかし脂肪を燃やすには有酸素運動が一番、っていうわいね。仕方ない。と思っていたら何やらAMTという、工科大学みたいな名前のあやしげな、ほら、深夜の通販で外人がやってるような、ハンドルを振りながら足を前後に動かすやつ、あれのすごい剛健なバージョンの機械がでんと鎮座しておって、本を読みながら乗ってもよいみたいなので川上美映子のエッセイを読みながら1時間くらいペダルをふみふみしてたらあっというまに400キロカロリー消費してしまった。怖。文明の利器すごいね。
重要なのは筋肉の間
で、女子更衣室に行くと、一転して桃色裸体の数々、若い子も60代のおばあちゃんも鍛えているだけあって局部は隠しつつも堂々と歩いているわけ。なのだが、だがしかし、なんというか当然というか、これだけ筋肉コンシャスな場所であったとしても、ムキムキに鍛えた美しいボディの女性たちが闊歩しててもだよ、人間つい目が行ってしまうのは、やはりというかなんというか、まあ、上腕二等筋と胸筋の狭間でゆれる秘密の球体、そう、反射的に、おっぱいよ。
みんなそら見ますわ。視線の最重要ターゲット、インパクト的王者はもう、そこなのであって、おっぱいの神聖さの前では、正直、鍛え上げた前腕筋とか腹筋とかは敵うすべもないわけで、どんなふくよかな体型をしてようと、そこ、そこが人より優位性を保っている女性の方にはもう、筋肉も何も、敵わんくて、負け。負け負け。
わたくし第二次性徴以降、そこに関しては量には自信がないかわりに質、で勝負してきたわけですが、いくら意気がろうともそこは量が圧倒的強さを持つ箇所なわけで、量的優位者の前では恐れをなしてただひれ伏し、その神々しさに羨望のまなざしを送るしかありませぬ。
で、思ったのは、それって男子も一緒で、まあジムに通ってる若い女性の中には当然、男子との桃色バトルに備えてええカラダ、作ってる方もいらっしゃるわけですが、しかし結局彼女がいくら上腕二等筋を美しく鍛え上げてバトルに挑んだとしてもだよ、初戦開始時、脱いでしまえば所詮はその瞬間の最重要課題はもうとにもかくにも、美しい上腕二等筋ではなくて、その間に位置するものであって、他の課題は全て後回しじゃあるまいか。おっぱいの優位性に筋肉はただ黙って引き下がるのみですよ。
おっぱいの強さは全てを凌駕する。
となると、人類が発展するのに威力満点なのは、マッスルボディを目指す方々が撃退したくてたまらない憎っくき脂肪、むしろそっちが全て、であって、となると生命的強さにおいては明らかに脂肪>筋肉、なのであって、なんつうかアンビバレント。だよね。
というような矛盾に首をかしげつつ、量より質で勝負という苦境に立つ身にとっては、その他の質もあげることが重要課題には変わらなくて、起きてはさっそくジムに通う毎日ですが、ここまでつらつら書いて、ふと、マッスル東大院生を目指しておられる舘野さんのブログを読むと、なになに、
「ジムの効果は三ヶ月くらいで目に見えてくる」 なんつって、ギョエ。三ヶ月もかかるのか。
「一ヶ月くらいでも、ほんの少しですが変化を感じるようになります」 あ、よかったよかった、そっちに期待。

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レビュー:「建築家 安藤忠雄」

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建築家の安藤忠雄が半生を綴った自叙伝「建築家 安藤忠雄」を読む。
安藤忠雄は「創職男子」だった!
それも、今より50年も早くに。
【安藤忠雄、建築家としての人生のスタート】

「1941年生まれ。独学で建築を学び1969年、安藤忠雄建築研究所設立・・・」

プロボクサーを目指す事を諦めた後、図面の引き方もろくに学ばないうちに友人からバーの設計の仕事を任された彼は、建築の本と睨みあいながらなんとか設計図を引き、一作目を完成させた。
そこから建築家・安藤忠雄としての道が始まる。
大学にも行けず、導いてくれる師も、相談できる同輩もいない中、一人書物と格闘し、ル・コルビジェの図面をなぞり、アルバイトを続けながら少しずつ建築の仕事を自分のものにしていった。
本文中で安藤自身が述べる
「仕事は与えられるものではなく、創るもの」という言葉。
今から50年も前、20歳だった若者が、上記の強いポリシーを持ち、孤独の中にも地道な勉強を怠らず、誰も行った事のないヨーロッパに一人で飛び込み、手探りながらも腕一本で「住吉の長屋」から表参道ヒルズまで、一つ一つの作品を産み出してきた事は感慨深い。
日本の現代建築史もまだ産声を上げたばかりの、何もかもが未開だった時代、情報もリソースもネットワークもない中での「創職」は只ならぬ苦労だったに違いない。だからこそ、この時代の消費主義的風潮や、暮らしを無視した都市の乱開発に流される事なく、苦しさの中、時代とは一線を画す彼独自の建築観が練り上げられてきたのだろう。
【反逆者の住居哲学】

そのような、既存のものに反逆し、逆境を越えてきた彼自身の人生を体現するかのように、彼の「住居」哲学には、ただ快適で利便性を追求するだけではない、一筋縄ではゆかない厳しさが内包される。
「住まうとは、時に厳しいものだ」。

安易な便利さではなく、そこでしか営めない「生活」を問う住まい。生活の中に入り込む自然をその厳しさと共に受け止め、日々の生活の彩とする住まい。そんな住居を創りたい。
賛否両論を呼んだ「住吉の長屋」に始まる、一つひとつの住宅作品には、そんなポリシーを背負った安藤の、高度成長期の物質依存社会への挑戦のまなざしが一貫して透けて見える。
彼自身の住居哲学を理解するうち、ふと私が思い出したのは、3年前、世界一周中に訪れた、モロッコのサハラ砂漠に住む人々の生活だった。
【モロッコ、サハラ砂漠の暮らし】
モロッコ南部の砂漠地帯に、メルズーガという小さな村がある。
そこで、日本人のノリコさんが運営するホステル「ワイルダネスロッジ」に宿泊した。
わずか2〜30戸の本当に小さな村だ。
村の西側には砂漠が広がり、地平線まで、草木一本生えない砂丘が延々と続いている。
村の家はみな、石造りの長方形の建物なのだが、ノリコさんのホステルは、砂漠に面した側に壁がない。
要するに家の片側がみんな開いていて、外から家の中が丸見えなのだ。
壁が無くては、砂漠の砂が入り込んでさぞかし掃除が大変なのではないかと思ったが、なるほど、昼間は東からしか風が吹かない。風はすべて砂漠に向かって吹く。
そのためこの村の建物の戸口や窓は、全部西を向き、代わりに建物の東側は高い壁で囲まれ、防砂林のヤシが緑々と繁っている。
それでも入り込んでくる細かな砂を、ノリコさんは毎日箒で掻き出す。
棚、絨毯、ソファ・・・家具のすべてを、さらさらとした砂がまるで被膜のようにしつこく覆う。風の当たる場所で寝ていると、薄力粉をふるわれたように、肌が砂で白く染まる。
灼熱の昼間、人々は石造りの堅牢な建物の中で暑さを避けている。日が沈みきり、涼しさが夜の闇と共に空から落ちてくると、安心して屋外に出て騒ぎ出す。まるで一日の始まりは日没からだと言うように。
夜は皆、ホステルの屋上にマットレスを敷いて寝る。
窓なしの寝苦しい部屋を借りるには一泊80DHかかるが、屋上だと15DHで済む。
使用人も客も猫も、同じように寝転がり、夜空を眺めながら一日の終わりを労っている。
砂漠の星空はみっしりと濃い。
天の川から溢れ出た大粒の星星が、所狭しと濃紺の帳を埋め尽くし、互いに身をぶつけ、砕け散る破片が螺旋を描いては、ダイヤモンドの鋭さで瞳を直撃する。
モロッコ人の使用人から酒と、怪しげな葉巻が回ってきて、そのうち視界も回り出す。
星の光以外に灯りは何もない中、宴は遅くまで続く。
ここでは暮らしがぴたりと風土に寄り添っている。
暮らしに寄り添う家もまた、風土に溶け込んでいる。
家も人も砂漠の一部だ。
ひとびとは自然の厳しさと、長年の連れ合いのように親しく暮らす。家はそれを受け止める器のようだ。
【「旅」が創った建築家】
安藤は、まだ20代の建築家の走りだった頃から既に、時に過酷ですらある「暮らし」に寄り添う住居を建築したいという思いを持つに至っていた。
それはきっと、若い頃から世界中を旅して歩いた経験—遥か彼方の、日本とは異なる文化と風土の中、それに合わせて多様な様相を示す建築物の数々を実際に自身の目で見て歩いた結果だろう。
本書の最後、彼は
「建築のプロセスには必ず光と影があるように、人生にも必ず光の側面と苦しい影の側面がある。(中略)人生に「光」を求めるなら、まず目の前の苦しい現実という「影」をしっかりと見据え、それを乗り越えるべく、勇気を持って進んでいくことだ。」
と締めている。
彼の作品に体現される哲学、そして建築家・安藤忠雄としての人生は、異国の地、そしてそこに住まう人々が織りなす暮らしの、有形無形の光と影を踏みしめ歩いた足の裏から創られたのかもしれない。

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レビュー:不登校からの出発

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学校カウンセラーである田中登志道さんの「不登校からの出発」を読む。

不登校児を抱える家族向けに、子供との接し方を説いた本だ。

本書が読者に対して優しく、そして温かいのは、不登校を、社会からの逃亡/もしくは生に対する無気力さの表れとして捉えず、むしろそれぞれの子供が、
一般的な両親が想定する進学→就職→結婚・・・といったステレオタイプなライフコースから外れ、その子なりの「独自の人生」を歩み始めるための「前段階」としてポジティブに捉えている点にある。
著者は「ひきこもり」という言葉自体をも、一般的なイメージ通りに語らず、カウンセラーとして多くの不登校児と格闘したナマの経験の上に、鮮やかに再定義している。

 


彼らの様子は「閉じこもり」または「たてこもり」と表現したほうがよいでしょう。
「ひきこもり」には意志が脱落しているイメージがありますが、「閉じこもり」には濃密な精神的活動がありますし、「たてこもり」には非常に強い意志が働いているからです。

 

 

彼は「ひきこもり」を、禅宗の修行になぞらえて捉える。

 

禅宗においては、修行を極めた禅者があえて自らを韜晦して世間から身を隠し、禅の境地をさらに深めようとする営みの事を「聖胎長養」といいます。
これはまさに「ひきこもり」を手段とした、自己をレベルアップするための努力です。
ひきこもらなければ、世の中から自分を遮断しなければできない修養もあるのです。

 

 

ひきこもりの子供たちが、自分がどう生きるかを追究し、彼自身のオリジナルな文化を作ろうと悪戦苦闘する様は、偉大なる精神史上の功績を残した禅僧たちに引けを取らない、と彼は述べる。

 

いうなれば、社会とアンプラグドでいられる「ひきこもり」の期間は、自ら成長することを止めた宙ぶらりんの状態では決してない。
むしろ、豊かな精神的葛藤の中、独り試行錯誤しながらアイデンティティを醸成し、次なる道を産み出すための修行の時間なのだ。

 

私自身、中学三年生の時に精神的に衰弱し、半年間ほとんど学校に行かない時期があった。自分が立派な不登校児であると自覚してからは、まるでこの世の終わりのような気持ちで日々、過ごしていた。知る限り、同じ学校で不登校の子供はひとりもいなかった。自分の人生は中学までで途切れるのだ、とばかり思いながら生きていた。
大人になってから、「実は自分も不登校だった」という人間にたくさん出会い、実は自分と同じ仲間がたくさんいたのだ、という事に初めて気付いた。
全国に不登校児は年間十二万九千人もいるのだから、前後の年代だけで考えても、実はひとつの学校につき、部活ひとつ作れるくらい、不登校の経験者は多いのだ、という事に気付いたのは、不登校を卒業してからだいぶ後のことだった。

 

自分が絶望していた“世界”は、じつは、気泡のように小さく淡いものだったのだ。
そんなシャボン玉みたいに小さな世界が、日本中の学校の、教室というこれまた小さな世界の中に、いくつも漂っている。
自分以外に仲間はいないと思いこみながら。
その思いこみの内側に、きらきら震える感受性をひっそりと培養しながら。

 

今、その時の気持ちを思い出そうとしても、全く思い出せない。
けれど、本書を読み、作者の不登校児に向ける温かい視線を感じるにつけ、実は自分が世界だと思っていた小さな泡沫の外側には、同じように温かいまなざしでその世界を支えてくれていた多数の大人がいた事に気付いたのだった。

 

保護者だけでなく、元ひきこもりや不登校だった本人たちにも読んでもらいたい本。

 

 

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筒になること

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一昨日、久しぶりにゼミの同期の男の子と食事をした。
キャバクラのスカウトと、ラポールを築くこと
でも書いたけど、彼はカウンセリングの勉強をしながらキャバクラのスカウトをしている。
彼とは主にコミュニケーションのあり方についてよく議論をする。
というより、彼から一方的に教えを受けているのに近い。
彼は職業柄、当たり前の事かもしれないが聞き上手で、その時その瞬間に私が言ってほしい事、教えてほしい答えを実にうまくポン、と出してくれるのだ。
一昨日、話したのは「聞くこと」について。
私は、人の話に耳を傾ける時、
自分がまるで透明な一本の筒になったような感覚になる。
そしてその中に相手をそっくりそのまま「入れる」。
全部、そのまま。
相手の、話を聞いてほしい欲望とか、今、この瞬間に発話に至るまでの前提とか、
こうして自分の話をすることで相手が生み出したいと思っている答えとか、
全部ひっくるめて自分の中の空洞に相手を入れる。
その意味で、私にとって「話を聞くこと」はセックスや食事に近い。
感覚なので、その日の体調とか気分とか、コンディションによるけど、
いつでもその感覚を引き出せるようにメンテナンスをしている。

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