原発絵本プロジェクトの今②「たかが電気、と祈りと問い」


続きです。

 

かなりかなり、遅い話題なんですけども。

坂本龍一さんの「たかが電気」発言を聞いた時、私は、

「もしこれが原発じゃなくて『音楽』だったら、この人、同じ発言するんかな」

と思った。

絶対にありえない話なんだけど、もし「音楽」というものが、人体にとって激烈有害であることが判明して、音楽廃止運動が起きて、「NO MUSIC」とか人々が言い出したとして。

知識人が「たかが音楽」と言い放ったら、この人、どんな気持ちになるんだろう?と。

福島で出会った友人たちや、いわきの小名浜で座り込んで「仕事が無い」って言ってた漁師さんとか、UDOKの人たち、避難所で会ったおじいちゃん、おばあちゃん。

この人達が、坂本さんの発言をどう思うんだろう、と思ったら、とてもこの発言を肯定する気には、なれなかった。

もちろん、多くの人をアジテートするために、ある程度強い言葉を使う必要があったのだろうとは思う。

けれど、反原発運動の代表人が言い放つ言葉としては、表現者としての繊細さを欠いた、原発や電力に対する、いろんな態度の選択肢をかなり切り捨ててしまう、のっぺりとした発言だなと、私は思う。

この発言が、社会にとってプラスになるかマイナスになるか、それは長い目で見たらわからないけど、その、今まで出会った多くの人たちのことを考えたら、「たかが電気」とは絶対に私の口からは言えないし、そんな気持ちでは絵本はとても作れないなと感じる。

 

だから、NO NUKESフェスで七尾旅人さんが「僕は『NO NUKES』とだけは言えないですね」と言っていたのを聞いた時、一番しっくりきた。

 

じゃあ、NO NUKESでなかったら、一体どういうつもりで作ってるんだ、というと、この絵本は私にとって「祈り」なのだ。

それ以上でもそれ以下でもない、と改めて思う。

 

内田樹さんが『原発と祈り』という本を出した時、その著書の中で、原発は「現代の荒ぶる神」だ、と述べていた。

人間が扱い方、祀り方を間違えて、政治とマーケットの道具にしてしまった、人知を越えた存在。人間がコントロールしようとしてはいけなかった存在。

私はその考えに激しく共感する。

 

私はどうしても性格的に、社会の中で弱い立場に立たされている人をつい気にかけてしまうのだけど、じゃあ、原発を巡る動きの中で、誰が一番弱い立場に立たされているかというと、それは福島の避難地域の人たちと、原発で働いている人たちと、あともう一つ。

 

「原発それ自体」だと思う。

 

何言ってるんだ、と思われるかもしれないけど。

 

40年以上、耐久年数を超えてなお、利潤を求めて働かされ、ずさんに扱われて、そのせいで壊れてしまったら、いきなり悪者扱いされて、激しく憎まれる。

そんなの、可哀想以外のなにものでもない、と思う。

「千と千尋の神隠し」のカオナシとか、ナウシカの巨神兵とか、そういうのと同じ存在。

だから、一年半前にあの事故が起きた時、即座に「原発反対」とは言えなかった。

 

私は原発が可哀想だと思う。(だからって原発が良いものだとは思わないが)

今、この原発という道具に対する感謝の気持ちとか、謝罪であったりとか、哀悼の意を示す人がどのくらいいるんだろう。

そういうの無くして、「命を大事に」とか「電気を使わない暮らし」みたいなこといきなり言われても、なんだかとてもうそ臭く感じてしまう。

そういうの無くして、職人の手仕事で作られた木製の調理器具とかを愛でてる「暮らしを大事に」派には、原発だって今まで自分たちが使ってきた道具だろ。愛でねーのかよ。と思ってしまう。別に、そんなの勝手だけど。

少なくとも、「NO NUKES」って単語には、原発自体や原発を維持するために今まで周辺で働いてきた人達への感謝の気持ちであったりとか、壊してごめんなさいとか、今までありがとうとか、勝手な欲望の道具にしてごめんとか、そういう労りの気持ちが一切感じられない。

「たかが電気」という言葉にはそれらが全く含まれていない。冷たい言葉だと感じる。

 

私たちの手で制御不能にしてしまった荒ぶる神への「弔い」をちゃんとしたのか?が一番気になる。

私は今の社会の中で、弔うとか祈るとか、そういう行為の必要性をとても感じている。

原発についても、弔うとか祈るとか労るとか鎮魂するとか、そういうタームが必要だと思う。

何かが死んだら、弔う。祈る。もう必要なくなったものには鎮魂する。

そのタームをすっとばして「NONUKES」と言っている気がする。

それが、なんだか落ち着かない。

別にNO NUKESって言っている人たちを一元化して批判したいわけじゃない。それぞれみんな違った思いや意見を持って運動に参加していると思う。

「ありがとう、ごめんなさい」も、NO NUKESも、口にするだけでは何も変わらない、祈りの言葉である点では同じなので、別に大した違いはないかもしれない。

ただ単に、私は落ち着かない。

今まで酷使して、人間が創りあげた不完全なシステムの中で、道具として蹂躙して、結果壊してしまった原発に対して「ありがとう、ごめんなさい、許してください」と、言う人が少ないのであれば、

私は言いたい。という気持ちで絵本を作っている。

 

今、原発について考える情報はfacebookやUstやTwitterを開けばいくらでも流れてる。

じゃあ、物語とか、表現の役割ってなんだろうと思った時に、「問いを立てる」ことだなと思う。

10月20日に公開される、原発事故をテーマにした映画「希望の国」の監督の園子温が、自著の中で「これは僕からの(原発問題についての)質問状だ」と述べていた。

絵本のストーリーのラストにはとても悩んでいたけど、これを読んだ時に「あ、そっか」と思った。

物語が、良いとか悪いとかを主張する必要はない。

なぜならこれは自分から社会への質問状でもあるし、原発“から”投げかけられた問いへの一つの返答でもあるから。

 

私はただ、壊れてしまったものに対して祈りたい。弔いたい。

ただ、それだけ。

悪い意味でナイーブだと言われても、行動しない奴が何言ってもムダだと言われても、もうこの事については、誰になんと言われようと変わらないな、と思う。

 

 


原発絵本プロジェクトの今②「たかが電気、と祈りと問い」」への5件のフィードバック

  1. 「たかが電気」をいちいち批判するのは日本人の悪い癖。まただよ・・・って思った。発言自体の表面的なところをもとに細かく推し量りすぎる。一言一句にただただ精神をすり減らしてギスギスしてしまう現状がそこにはある。フランス人コメディアンのことも過剰反応だと思う。私は東京電力や政府の「福島の皆様にご迷惑をおかけしています」っていう真摯を装った言葉に一番腹が立つ。

    原発のことをじっくりみてみると原子力というのはこの世の摂理に思え、原発それ自体を悪とするのはズレてるんだと再認識。一方で放射線によって人体が危険にさらされて、じゃあ何が一番深刻なのかというとそれらを人間の都合で勝手に定義し原発を利用してきて、事故が起きてからもそれを覆い隠してしまっている、もっと言うなら原発自体にすべての責任を押し付けていると。原発問題は原発にまつわる人間の問題で。だから原発に限らずこういうことはいくらでも起こりうるし、私たちが自戒しなければいけないのはそこにあると。そういう問いをもつことから始めないといけないんだなと思った。

  2. たまたま通りがかったのですが、
    この記事にとても共感しました。

    原発それ自体が可哀想。
    もちろん肯定するわけではありませんが。

    世の中にはいろんな価値観があるようですが、
    僕はこの絵本、楽しみにしています。

  3. 電気よりも人命が大事、
    という発言者の、
    シンプルで間違えようのないメッセージを
    どうしてここまで執拗に真正面から受け止めることを
    拒んでいるのでしょうか?

    この人が守ろうとしてるものと
    まったく同じものを守ろうとして、
    逆風に立ち向かってる人を
    どうしてこんなに悪く言おうとしてるんでしょう?

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