11月某日

 

元彼から前回の日記について「あの日記、何なの」と怒られる。無理もないな、と思う。11歳年下、さすがに難しかった。東大生で、努力家で、すごく……濁ったところがない、ピカピカの人だった。私とは正反対で……自分のやっていることに絶対の自信があって、そういうところが鼻につき、時に重たく、自分との違いにばかり目がいって、逃げたかった。いい子であったことは間違いないけど、いい子と付き合ったからといって、自分がいい人間になるわけではない。付き合うのはたいてい、この人みたいになりたい、と思う人。自分に無い物を持っていて、眩しくて、同時に近づけない、と思う人。それで怖々付き合うけど、付き合い出したら相手の嫌な面が見えてきて、別れる。女友達に話したら「それって別に好きじゃないんじゃない」って言われて、そうかも、と思う。好きのゲシュタルト崩壊。「好き」がもはや何なのか、思い出せない。皆、何を持って自分の「好き」に確信をもてるんだろう。何を「好き」と定義付けてるんだろう。
facebookを見たら、ブロックされていた。あ、と思うが、気持ちがわかるだけに責められない。私だってブロックしたくもなる。相手の立場だったら。

 

11月某日

 

仕事の後輩と久しぶりに会う。彼はとても大人びていて、一緒にいると安らぐ、7つ下なので年相応の青臭さはあるんだけど、まるでお兄さんのような感じで、安心してつい色々と話してしまう。普段は聞き役に回ることが多いだけに、話し手になれる男の人は貴重。気配りも出来て世話焼きで聞き上手、きっとモテるんだろうな。
漫画家の安田先生が著作「ちひろ」の中で描いていたことの中に、
「人は小さい頃に家族に叶えてもらえなかったニーズを、大人になってから他者との関係の中でやり直して満たしてもらうことで回復する」というのがあり、その感覚が最近やっとわかってきた。エア父、エア母、エア兄弟、エア姉妹。恋愛とか性愛とは別次元で、何かの拍子にぐっと近づいて、その人の根幹の部分に惹かれて、欲しかったものを満たしてもらえる相手。それは実際の性別や属性には関わらず、例えば男の人でも「エア母」の場合もあるし、年下でもきっと「エア兄」みたいな人もいるのだろう。私には兄弟はいないけど、その感覚はわかる。
それで言うなら、彼は私にとって「エアお兄ちゃん」で、話しているうちに、いつのまにか小さな5歳の女の子だった頃の私が顔を覗かせている。小さい頃、友達が少なかった私にとって、親戚の大学生のお兄さん2人に遊んでもらえる時間は貴重だった。本当はそういう相手を求めてるのかもしれない。
ワインが美味しく、ぺろぺろに酔っ払い、足を踏み外して階段で転ぶ。

 

11月某日

 

大学時代の友人に5年ぶりくらいに会う。つい最近、ポリアモリー的離婚を決めたとのことで、ふふむ、となる。子供がいて、籍を抜いたあとも同居して、夫婦でお互い別のパートナーを持つのだそうだ。旦那さんはライターで、彼女も元々は有名な雑誌の編集者。自然な流れの中でその考えに至り、旦那さんとの関係も(友人として)良好なんだとか。今後は二人とも実名でその生活について発信して行きたいのだそう。「この考えを共有できた時、私たち、最高のパートナーだなって思えたんだよね」と嬉しそうに話していた。

 

彼女は大学の時から透明感があり、人の流れの中で一人、すくっと立っているような印象のある女の子だった。その時のイメージと今の彼女にあまりにもフィットした選択だと思ったので、驚くとか、いい悪いの前にその場にいた全員がほうっと納得。するとその時同席していた科学者の男友達が「え!結婚して他の人とセックスしたら法的にダメなの?初めて知ったわ!」と言いだし、え、そこから?と爆笑。性に関して各人が見知っている現実って、わりと千差万別ですよね。

 

11某日

 

安冨先生と一緒に長野の泰阜村に馬に乗りに行く。「馬乗ると元気になるから!」っつって、半信半疑でバスに揺られて伊那の山奥の村。私は人間に近い動物(馬とか猿とか犬とか、pepperくんとか)が若干苦手で、馬とも仲良くなれる気がしない。安冨先生は「人間には期待しないけど、馬には期待できる。答えてくれるからね。あんたも馬が怖くなくなったらメンヘラ治るよ」と言う。そうなのかなぁ。
馬の持ち主のお医者さん宅でご飯をご馳走になる。そこの家の娘たち4人、全員学校に行ってないらしい。馬の世話をすること、馬に乗ることが最大の教育だって言ってた。冬には沖縄に一ヶ月乗馬留学に行くらしい。そんな風に育ったら、どんな大人になるのだろう。「作文が書けなくて……」とお母さんが言っていたけど、きっとクリエイティブライティングとかいらない。魂がいきいきしてたら、それ以上クリエイティブになんてなりようがない。

 

11月某日

 

数ヶ月前から付き合ってほしいと言われていた相手がハワイに移住を決める、彼はアメリカと日本を3カ月おきに往復していて、久しぶりに会ったのにすっかり意気消沈していた。(なんでもアメリカの生活がソーヘヴィーすぎて生きていくのがしんどいらしい、トランプ政権になって以降、差別はますます激しく、またそれ以上にドラッグの蔓延が急速に加速し社会が混乱しているのが辛いのだとか。世俗とは無縁の砂漠のど真ん中で日々研究に没頭している科学者ですらそうなんだから、きっと普通の生活者たちはもっとひしひしと感じているんだろうな)アメリカも日本も疲れるからハワイのビッグアイランドにでも移住して暮らすよという。なかなかうまくいかない。この人なら結婚に至っても、まあいいかもなあと思える相手だったんだけどな。
しかし、さすがアメリカ人、強引&大胆。数ヶ月前、彼氏と別れるかも、と言った時にはすかさず「You should be my girlfriend!」と自信満々の笑みで言われてのけぞった。好き、とか愛してる、とか以前にまず「僕の彼女になりなよ!」って、日本人ならなかなかよう言わんわ。

 

11月某日

 

人間関係がうまくいかなくなる時、いつだって自分の中の巨大な寂しさにぶち当たる。

 

ここ数日の大小のしんどい案件が重なり、精神的に擦り切れてボロボロ。こういう時、仕事でもなんでも、人に頼ることができない。「なんでも一人で解決しなければならない」と思い込んでいる気がする。
好きな男からは「俺はお前に期待してもいいけど、お前は俺に何も期待するなよ」という無言の圧を感じてすごく嫌だ。彼に感じているのは恋愛でも性愛でもなんでもないのだけど、それ以外もすべてまるっとを期待してはいけない気がして苦しい。けど期待に応えるのは得意だから、私は彼の期待に応えて彼に何にも期待してない。そう、本当に何も期待してない。期待できない。期待「も」できない。

 

期待したい。本当はどうしようもなく人に期待したい自分がいる。しかし誰にしたらいいのか、どうしていいのかもわからず苦しい。
いつもそうだ。自分が好きな相手、好きな友達ほど何も期待できなくなる。仲良くなる前に、先回って何も期待しないようにしている。期待したってしょうがない、と後ろから自分を止める自分がいる。

 

恋愛だってそうだ。これまで男に期待なんかしたことがない。前の彼も、その前の彼も。その前の前も、ずっと。
セックスの時、私は射精する男たちをじっと見ている。この人たち、よくもまあこんなに相手に向かって自分を投げ出せるものかしらって、頭の奥の、冷たい鉄の扉の後ろからじっと彼らを見つめている。誰とセックスしたって私の中には男は入ってこない。同じように投げ出せてない相手のことはすぐわかる。魂が抜けているのだ、私みたいに。

 

これまで男にも女にも期待をかけたことがあるだろうか。どこかで誰にも期待してはいけないと思っている。期待したら嫌われるし目の前から去られると思っている。何かをして、何かを返してもらえるイメージが持てない。困っていても困っていると言うことができない。こちらから何かを犠牲にしなくては、助けてもらえないとどこかでいつも思っている。
辛い助けてしんどい悲しい、本当は私だって心底言いたい。気軽に「助けて」と言える人が羨ましい。
植本一子さんが羨ましい。どうしてあそこまで他人に過剰に期待できるんだろう。期待して突進して傷ついて。私にはとてもそれができない。過剰に他人に依存することを恐れている。いつも限界まで我慢して、それでバーンアウトする。よく小説書けたなと思う。編集者さんにも何も期待ができなかった。向こうの期待に沿うことばかり考えてた。出来上がったものに自分の魂が1ミリも入ってなくても向こうは喜ぶ。期待に応えているから。でも私の心は焼失している。
気持ちがよれよれで、もしここで何かネガティブなメッセージが返ってきたらそれこそ心が死ぬ、と思い、自衛のためにシャットダウン、メッセンジャーのやり取りをほとんどすべてブロックしてこんこんと寝る。

 

11月某日

 

次の日起きたら13時で、昼食の予定をトリプルブッキングしており、連絡の山。散々な感じ。ついてない時にはついてないことが重なるもので、小説の発売が一ヶ月遅れる。重たい気持ちを引きずりながら仕事、が、できるわけもなく、ぼうっとツイッターを見ていたら、「他人に期待なんかするな」という一行が不意に目に入ってきて、その途端、記憶の底に押し込めていたものがぱかんと空いて大流出、先生とチャットしながら、不意に気持ちが小4まで巻き戻ってきて昼間の表参道のカフェで人目もはばからず大号泣してしまう。

 

「期待のかけ方は、要は学習なんですよ」と先生はチャットの向こうで言う。

 

「子供の頃から適切に人に頼ったり助けを求めたりできる人間にとっては、『人に期待しないほうがいい』って言葉はある意味、正解です。彼らはそのやり方を生育の過程で学んできています。そのため相手によって適切な期待のかけ方ができる。”期待”を”信頼”と言い換えてもいい。でも、最初から『誰にも期待するな』と言われて育った子供にとっては、その言葉は呪いです。だってそもそも期待自体、身近な誰にもかけたことがないのだから。困っていても助けを求めず、一人で死ねと言われているようなものです」

 

「人に期待してはいけません」ーーそれが私にかけられた呪いだった。

 

小学校の頃、ひどくいじめられていて、ある時意を決して担任の先生に毎日の連絡帳にその旨を書いて提出した。何らかの救いがあると思って翌日返ってきたノートを開いたら「小野さんの態度が悪いからいじめられるんですよ、態度を直したらいじめはなくなります」と書かれていて、はしごを外された感覚があった。しんしんと心が凍りついて、でも一方で、どこかで私は「ああ、こうなるだろうな」って予測していて、それが当たった安堵を感じていた。そう、この感覚、頭が冷えてくこの感じ、私、この出来事以前に知ってる。
母だった。
母はいつだって過剰な期待を私にかけた。それを叶えるのが幼い私にとっては至上の命題で、でも私の期待は絶対にかけちゃいけなかった。母親らしいことを期待してはいけなかった。期待したら拒否されて、期待した私が悪いと言われた。

 

「最初から期待するな助けを求めるなと言われている子供は『期待したら裏切られる』『罰される』と思ってるから、それを学べないまま大人になる。自分なんかが人に頼ってはいけないと思っているから。それは自傷みたいなものです」

 

いつも最後には皆離れて行く感覚がある、期待をかけたり、助けを求めたり、頼ったりしたら、それだけで罰せられる感じがする、だからいつもニコニコして空気読んで、聞き役になり、ソリューションを提供して、甘やかされて育った人の「言うこと聞いて」には答え、なんでもないふりをしないといけない。相手の求めることだけして、期待はかけず、困ったしんどい辛い苦しいが言えず、酒を飲んでベロベロになった時だけしか、弱っているところを見せられない。サラリーマンでベロベロにならないと愚痴を言えない人たちを見てかわいそうだなと思ってたけど、本当は私の方がよっぽどかわいそうじゃないか。

 

「かわいそうですよ。子供の頃のあなたがかわいそうです」

 

母はすごくお金で縛ってくる人だった、育てるのにお金こんだけかけてるんだから、お前は期待に応えろよって、言われ続けてる感じがして、すごくしんどかった。だからだろうか、無償で人に何かしてもらえるって感覚が自分の中にない。それなりの対価を支払わないと、人に助けてもらえるって感覚がない。

 

「本当に周りの人はあなたを助けてくれなかったでしょうか?思い出してください。小野さんのことが好きで、助けてくれた人、いっぱいいたでしょ?あなたの中にいる子供の頃のあなたが、それを拒否しているだけなんですよ」

 

思えば恋人たちは皆私に優しかった。色々と助けてもらったように思うが、その度に私は何かが変だ、これは正常ではない、って思って、その優しさを拒否していた。いつも手酷く裏切るか、要らないよ、と言って逃げ出すかしていた。それが愛情だってことが、自分ではよくわからなかった。優しくされると、私に優しくするなんて、正常じゃない、と思って見下していた。
11歳年下の彼も、最初から何も期待していなかった。どうせ、そんだけ歳下だしって、最初からコミュニケーションを放棄して、相手の欲求を飲むことばかりしていた。この人のキャパなんてこんなもの、と最初から醒めた目で見ていた。本当はもっと、頼っても良かったのかもしれない。彼の、屈託のなさが眩しかった。平気で人を信じたり、盲目的に優しくしたり、全力で期待したりできる彼が羨ましかった。そんな風になりたかった。

 

「その、好きだと思う友達たちや恋人への、羨ましいという感情がキーなのかもしれないですね。本当はそうしたい、っていう小野さんの欲望の表れです。その人たちができていることと、小野さんがその人たちに対してできていないこと。目をそらさずに見つめてください。重要なヒントです」

 

いつもそう、男女問わず私が好きになるのは、屈託なく人に助けを求められる人。平気な顔で人に頼れる人。自分が他人に好かれていると確信が持てる人。「そうなりたい」の裏返し。自分と似た様な人は、好きじゃない。

 

「もし、小野さんと似たような人が目の前にいたら、小野さんはどうしますか」

 

どうだろう、もし自分と似た様な相手が目の前にいたら、私はどんどん期待しろって言う。どんどんしろ、頼れ、信頼していい、もちろん期待に応えられない部分ははっきり言うけど、まずは期待してみたらいいよ、それで互いの期待できる分とできない分のグラデーション、徐々に完成させて行けばいいからって。
「自分が他人にしてもらいたいように、自分にしてあげてください」

 

他人に期待しちゃいけないなんて嘘だ。期待しなければ、関係すら始まらない。期待して、失敗して、それで学べばいい。初めから上手く出来る人間なんていない。私は何を、何を、何を30年間も誤っていたのだろう。
「頼ってください」と安田先生は言った。

 

「あなたの頼りたい人に、もっと頼る練習をしてください。そうしたら徐々に分かってくるはずです。ひとくくりの『他人』なんて本当はいません、信頼できる人、できない人、期待してもいい人、いけない人がいるだけです。個々の関係の中で、濃淡があって、距離があって、それぞれ違う。本当は、それだけなんです」

 

お兄さんみたいな子はいつも屈託のないメールをくれる。試しに「落ち込んでるから慰めてよ」って送ったら、すぐに「いいすよ、飯行きましょう!」って返事が来た。
脱力しすぎて銀座線を降り逃す。こんな簡単なことが、今までできなかった。
「いいすよ、飯行きましょう!」か。私も何も考えずに、いつか心の底から人にそう言えるようになりたい。

 

11月某日

 

そうこうしているうちに、11月も下旬、次の家、なかなか決まらず。
以前「家が決まるまでうちにきますか?」とメッセージをくれた子がいて、いいのかな、と躊躇してしまいしばらく連絡をしていなかったが、思い切って恐る恐るメッセージをする。そのまま流れで試しに住まわせてもらうことに。
無償の好意みたいなものにはまだ慣れないけど、猫が二匹いて、住む家があって、好意で何かしてくれる人が近くにいる、これまでしたことのあるどんな贅沢よりも贅沢。猫は平気で甘えるし、いらなくなったらそっぽ向く。猫に学ぼう。家の中に師が二匹。
とりあえず私、結構頑張ったし、しばらくはぼうっとして、人に頼りながら暮らしてみよう。




紹介 author-img 著者

小野美由紀(MiUKi_None)作家。1985年東京生まれ。

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