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小説:あまたの泡【1】「刻の湯」、営業開始


 

 刻(とき)の湯の営業は十五時から二十二時までだ。毎日、昼の十二時きっかりに開店の準備を始める。釜に薪をくべ、火を起こすのが、一日のうちで一番最初の僕たちの仕事だ。

「釜は銭湯の心臓です」と戸塚さんはよく言う。

「釜が動く限りは、湯を沸かすことができますから、配水管が壊れても、シャワーが壊れても銭湯は営業を続けられます」

 薪場の裏にある、この1m四方の巨大な湯を沸かす装置は、薪の火によって中を巡る水を80℃にまであたためる。その湯が銭湯の床下に張り巡らされた無数の水道管を通って湯船やシャワーに供給される。鉄でできた四角い釜の中に薪をくべ、火をつけると、最初は木の表面を撫でるようにやわやわと下方で彷徨い、やがて勢いよく燃え上がり、釜の丸い内壁に沿ってのびやかに燃え広がる。

 たっぷりの灰を顔に浴びながら火かき棒で中をかき回し、風の通りをよくしてやると、やがて炎は薪を包み込み、ばちばちと威勢のいい音を立てながら猛々しく燃え上がる。幼い頃からアウトドアが苦手で、小学校の飯盒炊飯でも、遠巻きにキャンプファイヤを囲んではしゃぐ同級生たちを遠くからながめていた僕にとっては、炎と呼べるほどの火をこれほど間近で眺めるのはここに来てからが初めてだ。

 一旦火をつけて終わりではない。熱すぎず、ぬるすぎない温度に保つため、銭湯の営業時間中は薪をくべ続けないといけない。そのため開店してからも、交代で釜の番をする。

 燃え終わりに近い木の上に新しい木を載せてやると、火は命を吹き返したようにまた赤々と燃え上がる。釜の蓋に開けられた四角いスリットから中を覗き、火の粉が木の呼吸にあわせて夜光虫のようにゆっくりと瞬くのを眺めるのが僕は好きだ。火は何時間ながめていても飽きない。一度として、同じ形をとることがない。

 薪が足りない時には、近所の廃材屋が運んできた木材を鉈で割って細かくする。ぱきん、とこ気味良い音を立てて木が割れる。皆、解体された家の梁や柱だったものの破片たちだ。年季の入った古材でも、切り口はまだみずみずしい象牙色をしていることもある。最近は火にくべた時によく燃える木とそうでない木の違いがだんだんわかってきた。他のガス焚きの銭湯にはない、とろりとして、上がった後にもじんわりと体の芯にまで温もりの残る湯を作るのだと思えば、自然と刃を振るう手にも力がこもる。

 僕はスマホを取り出し、この家のどこかにいるカンちゃんにラインを送る。

「火、つけといた。あと、窯よろしく」

 すかさずカンちゃんから、OK!というアルファベットと熊のイラストを組み合わせたスタンプが届く。僕たちの昼間のやり取りのほとんどは、このチャットアプリで済まされる。仕事も生活スタイルも寝起きする時間帯も皆バラバラで、手伝える時に銭湯の仕事を手伝うのがこの家のルールだから、たとえ同居していても自然と顔を合わせる相手と合わせない相手が出てくる。画面の右上で絶えず点滅する黄緑色のメッセージアプリは、広い敷地内のどこにいても僕たちを瞬時につなぐ。

「了解!掃除よろしく」

 カンちゃんは右足の膝から下がない。4歳の時の事故で失ったそうだ。幼いカンちゃんをママチャリの後ろに乗せたカンちゃんの母親は、雨の中、猛スピードで国道16号を走っていた。信号待ちの間にスリップした乗用車が脇から突っ込んできて、避けようとした母親はおもわず自転車を傾けカンちゃんはチャイルドシートから放り出された。幸い命に別条はなかったが、地面に落ちたカンちゃんの右足を逆方向からやってきたバイクが轢いて、カンちゃんは大泣きした。

「すごく熱くて怖かったんだ」と、カンちゃんはその時の事を思い出して言う。

「痛いっていうより、熱かったんだ。もちろん痛かったはずなんだけど、なぜだか知らないけど、熱かったことしか記憶にないんだ」

 釜の火入れが済んだら、今度は浴場の掃除だ。ざばぁ、とイキオイよく熱い湯を洗い場いっぱいにぶちまけて、木の柄のモップで丹念に汚れを洗い流す。

「何事も丁寧に、念入りに、ただし、軽やかに」が、戸塚さんの奥さんで、刻の湯の2代目店主だったトキさんの訓示であるらしい。らしい、というのは僕自身も彼女に会ったことがなく、戸塚さんや、この湯に通い続けている常連さんたちから伝え聞いた話だからだ。築70年の刻の湯を生まれた時から見守り続け、4歳から番台に立っていたというトキさんの遺影は、今も微笑みをたたえて、女湯の脱衣所の壁の上からこの湯を見下ろしている。

 しゃーこ、しゃーこ、とモップがタイルの上のすべる小気味よい音が、湯殿の天井に響き渡る。この清潔な音が好きだ。裸足の足先は冷たいのに、湯殿の天井に灯がともり、湯気が満ちるだけで、なんだか僕の体の中にも、さっきまで見ていた釜の火と同じものが乗り移る気がする。

 最後にホースで水を流すと、床じゅうを覆った白い泡が細いひだをつくりながら排水溝まで流れてゆき、その下から白いぴかぴかのタイルが顔をのぞかせる。

 戸塚さんは力を込めて床を磨く僕の事を、にこにこしながら若い人はのみ込みが早いですねぇとか、タイルの磨く腕が力強くていいですねとか言ってくれる。ほめて伸ばす方針らしい。大学に入って以来、他人からほめられる事など殆どなかったから気分がいい。

 洗い場の清掃を終えて、今度はゴスピにLINEを入れる。ゴスピはこの家に住むフリーランスのプログラマだ。奇怪なあだ名は彼が新木場のクラブで回す時のDJネーム「Godd scorpion」から来ている。本名は誰も知らない。透けるように青い髪、口にはピアス、人気イラストレーターの「恋⭐︎おれんじさん」のアニメ風美少女の絵のついた巨大なパーカーを着こんだ彼は、この家の中でも若干、浮いた存在だ。一緒に住み始めて3週間が経つ今も、俺はまだこいつとのコミュニケーションに慣れていない。それでも、メッセージを送ってすぐに「了解。SNS、更新しておく」と返事が来た。口数こそ少ないものの、淡々と迅速に確実に、彼は仕事をこなす。時の湯のfacebookページとtwitterの更新が彼の担当だ。つい先日公開した、刻の湯のウェブサイトを作ってくれたのも彼だ。刻の湯の先代からの刻印をデフォルメしたロゴと、暖簾の色である深いヴィンテージブルー、そして、この湯の裏で2ヶ月前に生まれた子猫の”タタミ”の写真が散りばめられたスタイリッシュなデザインだ。こんなに洒落たウェブサイトをものの数日でどうやったら作れるのか、文系の僕には想像もつかない。

 もう一度洗い場を確認してから、僕は番台で帳簿をつけているアキラさんに声をかける。

「アキラさん、開店準備OKです」

 アキラさんは振り返ると、5月の真昼の空みたいないつもの笑みを俺に向けた。

「ありがとう、マコ」

 俺の名前は真島(ましま)真彦(まひこ)。刻の湯の居候だ。

<2に続く>

 

(この文章は、来春刊行予定の長編小説の冒頭部の草稿です)


投稿者:

miyuki.ono1228

小野美由紀(MiUKi_None)作家。1985年東京生まれ。

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