「湯を沸かすほどの熱い愛」を見た


 映画「湯を沸かすほどの熱い愛」を見に行く。冒頭のシーンでもう生理的にだめになってしまい12分で退席。最悪な気分。これは私のための映画ではなかった。
ネタバレになるので詳しいことは書かないが、宮沢りえ演じる母の役柄がとにかく無理。娘がいじめられているのに気づかないフリをし、あれだけ学校に行きたくないと言っているのに笑顔で「明日も学校行こうね」って……。いや、そこは休ませろよ!気づかないフリすんな!!こんな女がこの先病気になろうが死のうが一切感情移入も共感もできんわ、そう思って席を立つ。

 私は「いじめには立ち向かえ」という意見がとても嫌いだ。電通の過労死自殺の時にも有識者が「100時間程度の残業で情けない」と言ったが、彼らが問題にしていることと、当事者が抱えている問題は根本的にずれている。
 外野が「そんな問題、大したことないから立ち向かえ」と言う時の「立ち向かう」は多くの場合、「問題を無くすために対処する」ではなく「我慢する」ことでしかない。

 しかし、それは間違っている。

 いじめに「立ち向かう」こと、それは決して我慢することではなく、自らの健全な精神状態を取り戻すために策を練り、あらんかぎりの選択肢を考えて、冷静に対処することだ。
 やられたらやり返せ、俺もいじめられたけど、やり返してやった、という年輩の人間も時々いるけれど、それはその人にとって「やり返す」ことが最善の「自分を守る方法」であっただけであって、いじめられている子ども、全員にあてはまることではない。逃げる、人に助けを求める、訴える、無視する、いじめにはあらゆる対処法があり、どれが最善かは状況によって違う。
 立ち向かう=戦う、我慢する、ではない。
君が精神の健康と安らぎを得て自分らしく生きる道は何千通りもあり、君はそれを選び取る権利があるのだ」「君がそうすることを、いじめっこやその他周りの悪意ある人間が邪魔することは決してできない」そう教わって、はじめて彼らは外部の世界に対して「立ち向かう」ことができるのではないだろうか。そのことを保護者や先生や周りの大人が教えるべきだ。「我慢する」ことしか対処の仕方を教わらなかった子供は、その先もきっとあらゆる物事に対して、そういう防御の仕方しか取れなくなってしまう(自力で学ばない限り)。

 それをただ「我慢しろ」「逃げるなんて情けない、立ち向かえ」と言うことは、自分の愚かさを露わにしているようなものだ。頭を使え、頭を。

 と、映画一つの感想を述べるのに若干横道に逸れてしまったけれど、とにかく「立ち向かえ」とか「我慢」みたいなのってもう古くて、そういうのが美徳、みたいな感じで描く物語は、たとえ他の要素がどんなに美しく彩られていようと、私はどんなものであろうとだめだ。
 しかし、見たおかげで、自分が何に怒りを感じるのか、はっきりと分かった。自分が何を書きたいのかも。12分だけだが見てよかった。
 私が好きなのは、「自由を得るための闘い」の話。どんな物語にせよ。


投稿者:

miyuki.ono1228

小野美由紀(MiUKi_None)作家。1985年東京生まれ。

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