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「競争社会」の外側を生きる


 
 シェアハウスの同居人である20歳現役東大生男子がリビングのソファにうつ伏せに転がって死にかけているので何があったのかと聞くと「競争社会に疲れた」という。
一番競争に強そうな東大生でもそんな風に感じるのだなと思うと同時に、自分が「競争社会に疲れている」ことを自覚していて、かつ口に出して言える分、彼は20歳の頃の私よりもずっと大人だな、と思う。
 
 20歳の時、私は自分が競争社会にいるなんてこと、全く気付いていなかった。それは生まれてからそれまで「競争」が当たり前だったからで、「競争社会」ではない居場所とか、違うスキームでの生き方があるなんてことはさっぱり考えもしなかったからだ。
 親によってナチュラル・ボーン・競争者に仕立て上げられた子供は自分が何に追い立てられているのか、何によって消耗しているのか、うまく気づけない。不安とか焦りとか恐怖が常に物心ついた時から周囲を取りまいていて、その外側にある世界を覆い隠してしまうから。
 それにもし、気づいていたとしたって、私はそんなこと、口に出して他人には言えなかったと思う。
「疲れた」なんていうことは、すなわち負けることだと思っていたし、自分はそんなものに疲れるほどヤワな人間じゃないと、20歳の頃の、硬くて強がりで、一度来た道をまっすぐ進むことしか知らない私は思いたかった。
 そんな恥ずかしいことは口に出してはいけない、って、言語化すらできないほど前の段階、無意識のレベルで思い込んでいた。
 
 
 時々、「どんな大学生でしたか」と聞かれる。
そんな時いつも思い出すのは、大学3年生の頃に受けていたフランス文学専攻のゼミのことだ。
 
 ダメ学生の吹き溜まりみたいだった私のゼミは学科1の不人気ゼミで、生徒は5人しかおらず、5人とも卒業時に就職以外の道(留年、失踪、中退、内定無し卒業、海外院試準備という名のニート)を選ぶというとんでもないゼミだった。毎回毎回、皆が来るか来ないかは授業が始まってみないとわからず、大体いつも1人とか2人とか3人で行うのが常だった。
 
 それで何を勉強するのかといえば、出席者が1人とか2人の時には
「沈黙は言語か」とか「無は存在するのか」とか、そういう答えのまるでないことを先生と3人もしくはタイマンで延々1時間半議論する、みたいなことを1年じゅうずっとやっていた。
 
 ゼミの教室は質素で、キャンパスの端っこにあり、蛍光灯は暗く、雨の日などは特に窓の外に茂る青葉の影が黒いレースのカーテンみたいに教室の中にまで押し寄せ、雨音が他の教室から聞こえてくる声をまるきり遮断してしまって、まるでミサか何かのように空気は暗く重く沈鬱だった。時間はぐんにゃりと歪んで、頭が朦朧として、ダリの「溶ける時計」がそこらじゅうを舞って見えた。ボードレールとランボーとバタイユが黒板の上からお通夜のような顔で我々を見下ろしていた。先生は毎回特に結論を出さず、時間が来ると「では、これで終わりにします」と言って名簿を畳んだ。若くて寡黙な先生だった。
 
 同じ学科には学生が電通とかANAとか華々しい企業にバンバン内定をもらっているゼミもあって、でもうちのゼミ生はそれをうらやましがるどころか「自分たちはそれをうらやましがっていいスキーム内には最初から位置すらしてない」ということを皆よくよくわかっていたので、そんな気配は微塵もなく、卒業が間近になっても当たり前のように「カミュに出てくる岩の陰は何の比喩か」みたいな、一体これが何の役に立つのかもわからないような事を、毎回、毎回、人のいない教室で延々としゃべっていた。
 
 凄まじく居心地が良かった。
 
 私がそこで知ったのは、
「ああ私はこういう、社会的に無価値かもしれないけど、正解のないことを延々と考え続けるのが好きなんだな、正解のないことであれば、いくらでも考え続けることができるのだな」ということだった。
 
 正解のない問い、数値に現れるものよりも、結果のないことを、延々と、延々と、延々とやるのが、たまらなく心地いい。
 それは他の学生も同じだったと思う。
 
 他に、留学とか世界一周とかインターンとか、学生らしいこともいろいろやったけど、それらすべてなぜかさっぱり記憶がなく、いつも学生時代のことを振り返った時に思い浮かぶのは、あの狭く薄暗い教室で、普段は無口な男の子と、先生と3人で延々としゃべっていた「沈黙は言語か」の背後に降る雨の音と、窓の外の青葉闇だ。
 
 
 それでも親の「三井物産か電通に入れ」という謎のプレッシャー(⇦本当に謎だ……)によって、いやいや、就活していた。入りたくもない会社のエントリーシートを頭痛を我慢して書きながら、しかし自分では「なぜ私は好きでもないのにこんなことをやっているのだろう」と、まったく思わなかった。自分は何が嫌で何が嫌じゃないのか、何に惹かれ何に惹かれないのか、全くわかっていなかったし、考えようともしなかった。
 
 だって、競争ってそういうものだと思ってたから。心を無にしてやるものだと思っていたから。
 
 自著「傷口から人生」には就活をパニック障害を起こしてやめたと書いたが、本当は、就活を止めるために体がパニック障害を起こして「くれた」のだと思う。それぐらい私は就活が嫌だった。
 
 でも、なんで止められなかったかというと、その時の私は「正解があるものの方が、社会の中では絶対的に正解だ」と思い込んでいたからだ。
「用意された正解を、どれだけ正確に早く出すか」ってルールから、抜け出す力がなかった。若くて、頑なで、馬鹿で、自分をひ弱だと思い込むのをやめられなかったから。
 
 リクルートスーツを着るのも死ぬほど嫌だったが、その頃は世の中のすべての人はスーツを着て仕事をしていると思い込んでいた。いや、私は全盲ではないので、街を歩いていたら、スーツを着ずに仕事をしている人などゴマンといることに嫌でも気づくはずだ。ただ、愚かで、狭い「競争」の世界にいる私は、それを見ないようにしていただけなのだ。「正解を探す」とか「競争で勝つ」以外の仕事が、生き方が、この世界には本当は溢れているということに、私が気付いていなかった。
 
 その時の私は「いやだ、いやだ、いやだ、いやだ」と思いながら、一体自分が何をいやだと思っているのか、全く分かっていなかったのだ。あれだけ早く、正確に、答えを出す訓練を5歳の小学校受験の時からやってきたにもかかわらず。
 
 
 それから6年経って、今、私は運良く「正解のないことを延々と考え続ける」仕事で食べている。
 何でこうなったのか自分でもよくわからない。物書きになりたいとは本当は1度も思ったことがない。でもなぜかたどり着いてしまった。細い道を、それ以外の選択肢を押しのけてやっとできた隙間みたいな細い道をたどってきたら、いつのまにかこの世界にたどり着いていた。たどり着くまでに6年もかかった。本当はあのゼミの授業を受けていた時から、頭よりも賢い私の体は「お前はこっちだろう」って、本能的に気付いていたのに。
 
 今の自分は、正解のない世界を生きている、と思う。
 こう書くと「負け犬の状態を受け入れた」というふうに受け取る人もいるかもしれないが、うーん、そういう感じとはちょっと違うんだよな。正確には「自分だけの」正解を探し、「自分の中でだけ」競争をしている。自分の外側の他人が勝手に作った競争社会を降りて、自分の中でだけの答え探しに、ある時から徐々にスイッチが切り替わり始めた。その答えはいつ出るのかわからないし、出たところでそれが社会にとってどんな意味があるのかわからない。それはとても怖いことだ。競争社会にいる時は、競争がない世界ってなんて平和なんだろうと思っていたが、そこから降りてみたら、正解のない世界の方が、何の支えも保障もないぶん、残酷で暴虐で理不尽で、よっぽどヘビーだということがわかった。勝者も敗者もグラデーション的に入れ替わるぶん、意識をしっかり持っていないと、自分のアイデンティティが保てない。
 
 でも、こっち側の世界に来て良かった、と思う。
 こちら側の世界の様相は毎時毎分毎秒変わり、人生の「答え」も朝起きるたびに毎回変わっている。とってもチャーミングでキュートな世界だ。多分、生きているうちに、何の形にもならないものもいっぱい出てくるだろう、でも、それでも、続けていって、私の手からでも、もしくはこの世界にいて、一緒に連なっている他の誰かの手からでも、100年に1度のマスターピースが作り出されるのであれば、たとえカオティックで頭ぐちゃぐちゃになってしんどくてわけわかんなくても、まあ、悪くないっていう感じである。
 
 「正解を求めない」「他人と競争しない」世界が、競争社会の外側に実は存在していて、そこで生きることはどんな人でも案外可能なのだ、ということに、私は30を過ぎてやっと気づいた。それは別に難しいことではない。ただ、目を開いて、その世界を見さえすれば良いだけだ。競争の内側にいても、競争の外側を見さえすれば良いだけだ。
 1たす1が2ではなく、1たす1が2にも3にも4にもなる世界が、本当は私たちの周りには広がっている、そのことに自分で気付きさえすれば良いだけだ。
眩しい光を恐れずに、自分で自分の目を覆っている手のひらを、そっと剥がしさえすれば。
 
 なんてことを、電通の女の子の自殺のニュースを見て思った。
 彼女があの世で、「こっち側」の世界を生きていればいいと思う。
 
 
 
 
 
 

投稿者:

miyuki.ono1228

小野美由紀(MiUKi_None)作家。1985年東京生まれ。

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