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昨日は、私がオーガナイズし、ダンサー・演出家である青剣が講師エを務めるワークショップ
「出会える身体ーほぐす・ゆだねる・つながる」の第1回だった。
身体を他者にゆだねること、身体の触れ合いを通じて他者とコミュニケーションを取ることを目的に様々なワークを行っていく。
マッサージやコンタクトワーク、ツンデレゲーム、他人と互いにひっぱりあいながら、バランスを取るゲーム…。
身体系のワークショップは見ていて、参加者に起きる変化を視覚で捉えられるので面白い。
ワークが進むにつれ、最初は硬かった参加者の身体がどんどん、ひらいてゆく。
夜が空け、朝日が差すにつれ、花がひらいてゆく様子が思い浮かぶ。
見ず知らずの相手に、いきなり自分の身体を預ける。
その怖さのすぐ後に、じぶんの身体を放棄する快感がやってくる。
とても気持ちがいい。
このワークショップで、一番印象に残ったのは、
3人の参加者が、お互いの存在を意識し続けながら、空間の中で自由に動き回るというワークをやった時。
講師に
「このワークを演じている間は、瞳をロックし続けて」
と指摘された。
「目の前にある、この空間から目線を一瞬でも外してしまったら、それだけで他の2人との関係性が絶たれてしまう。世界が絶たれてしまう。演じている間は、瞳をそらさないこと。」
相手から、視線を外さない、ということは、相手との関係を、持ち続ける、という意志を持つ、ということだ。
それは、自分と相手の行き先を定めることでもある。
相手とどうなりたいか、わからないとき、私たちはえてして、相手から瞳をはずし、相手の力や、場の流れの力に自分をまかせっきりにしてしまう。
自分の身を、世界に、相手にゆだねるのは大事だ。
だからといって、自分のあり方と、相手との関係性を、まるっきり放棄してしまうのも、違う気がする。
あるがまま、いま、ここにいる自分だけに戻り、相手に委ねる中で、
それでも自分が見定めた方向性だけは死守する。
そうすることで関係性が生まれてくる。
自分が行き先をどこに定めているのか、自分が相手とどうなりたいのか、それを、自分でわかっている、それに確信を持っている、ということ。
それは祈りに近いのかもしれない。
祈りを持って、身体を投げ出す時、その一瞬に燃え上がる、切実な気持ちの炎が、美しいと思う。
祈りのようなコミュニケーション、そして、それをするだけの価値のある人間に出会えること、
それが幸せだ。
同様に、「コミュニケーション」から枠を広げ、「生きる」ということに話題を移すと、
自分の瞳をどこかに定める、ということは、
そこに向かう自分のありかたを自分で定める、ということだと思う。
瞳を一点に留めれば、そこまでの距離の中に、自分の世界が立ち現れてくる。
自分の瞳で、世界を作る。
生きるとき、また、他者との関係性を決めるとき、わたしたちが選べることは、
瞳を定めるか、
そらすか、
意図的に他者あるいは世界に委ねるか、
その3つにしかないのではないか。
そんなことを思ったワークショップだった。
青剣のワークショップは今週の土曜日に大山でもやるそうなので、身体のことに興味がある人は参加してみるといいかも。

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