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あなたのそれは何色


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先月の中旬ごろ、お気に入りの水色のカーディガンを、とある飲食店に訪れたさいにうっかり忘れてしまい、後日、確認の電話をかけました。

しかし、電話に出た店員さんの答えは
「水色のカーディガンの忘れ物はありません」。
いやおかしい、どう考えてもあの店にしかないはず。勘違いの可能性もあるかと思い、JRの忘れ物センターやら、その日訪れたほかの場所やらに電話してみたけれど、やっぱり見つからない。
しばらく諦めムードになっていたのですが、もう一度だけトライしてみようと思い、再度、電話でカーディガンのその他の特徴を伝えつつ、店員さんに確かめてもらったんですね。
そうしたら
「水色のカーディガンはないけど、灰色のカーディガンならあります。ブランド名は×△○※……」
………それだ!!!!!
私にはどう見ても水色にしか見えないものが、他人にはグレーに見える。
少し前、例のドレスの画像がSNSで出回ったとき、「ふーん」とたいして気にもとめなかったのですが、我が事となると驚きは大きい。
人の認識する世界の色って、全然違うんだなぁと、驚いたわけですが、でも、これ、たぶん仕事上でもしょっちゅう起きていることですよねぇ。
「数日以内に仕上げます」の数日って、「2〜3日」なのか、「3〜4日」なのか。
「気持ち、巻きでお願いします」の「巻き」ってどんくらいなのか。
今、一緒に仕事してる編集者さんは、私に負けず劣らず感覚人間なので
「気持ちポップめに」
とか
「エグく、かつキャワな感じで」
とか、2人ともようこれで通じ合えるなと思う単語で仕事してるのですが(書いててバカっぽいぞ)
そういうのって奇跡的に噛み合ってるだけで、ホントは細部まで詰めようとしたら言葉がいくらあっても足りないですよね。
このカーディガンの件も、最初に私が色だけでなくて、形はこうで、ブランドはこうで、生地は……と、細かく説明していたら、一発で通じたかもしれない。

ここで、話は変わるのですが、私は今、西崎憲さんの小説教室に行っています。
その時に、西崎さんが、小説の諸要素について、こんな風に説明してくださいました。
「主題が内臓だとしたら、プロットは物語の、骨。ストーリーは、肉。で、描写は皮膚。読者に見える部分、“何を見せるか”“どう見せるか”。詩性は装飾ですね」って。(ざっくりとまとめるとこんなかんじ。実際はもっと丁寧かつ違う言い方でご説明されてました)
はー、そっか。
小説の中の“描写”って、もともと、異なる感覚を持っていることが大前提の他者と、わたしの覚えた感覚を、共有するために、必要な機能なんだ。
それによって、私たちは、もしかしたら2万光年遠くに住んでいる相手とだって、感覚を共有できるかもしれない。
で、かつ、西崎さんは「描写」についてこんなことをおっしゃいました。
「みなさん、小説で描写をするときには、頭の中にあるイメージを言葉で表現しようとしますよね。
そう、し終わった後に、ちょっとだけ待ってください。
あなたのその描写を、世界的に有名な文章家が、読んだとして、その彼が、あなたの頭の中にあるイメージと同じものを想像するかどうか。
そう、ちょっと考えてみたときに、彼のイメージとあなたのイメージが一致するだろうと思える言葉が、いい描写です。」
なるほどなあ。
たしかに描写って、やっているほうは、頭の中に浮かんだイメージに、ついついのめり込んで没頭して書いているから、あまりその場ではふりかえらないんです。
でも、ふと傍観してみた時に、
「この描写や例えは、人に共有されるかな?」と考えてみることって、人になにかを伝えるためには、必要なのかもしれません。
頭の中の世界と、外の世界の一致。
私がブルーと言った色は、あなたにとってもブルーなのか、それともグレーなのか。
小説を書く、という行為は、ひょっとすると、世界(に含有される、ものすごく多くの他者)と私との感覚が、一瞬でも一致する点を、言葉の上でかぎりなく詰めてゆく作業なのかも。
そう思うと、わくわくしてくるなぁ。


投稿者:

miyuki.ono1228

小野美由紀(MiUKi_None)作家。1985年東京生まれ。

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