MEMO:机の上には霧の夢


 

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編集者さんと話す。歳上のベテランの編集者さんとお話しすると勉強になることが多い。

その方に、これまで書いたものの原稿の束の中にぐちゃぐちゃとメモをしまくったものを見られて、

「へえ、こうやって書いているんですか」と言われてちょっとはずかしい。

書く時は、なかなか思考がまっすぐにならずにぶろんぶろんと旋回させながら徐々に中心に近づいてゆく。あるときぴたっと中心が決まる。そうすると書ける。いきなり結論に到達できるものではないから、時間がかかる。

逆に、いきなり結論から書けるときもあって、そういうときは、そこで思考が止まってる。それ以上にならない、最初から完成されたもので終わってしまう。

そういう原稿は、後から見直すと、なんだか偉そうだなぁという感じがする。

以前その編集者さんに「獲得しちゃった『自分』が見える原稿は、この本においては不要かもしれませんね」と言われて、ああ、その通りだなあ!と思う。

獲得しちゃった自分を見ても、自分だって、あまり面白くない。むしろ「きえー!なんだこれは!」ってあとからなる事が多い。

あ、そうか、おっさんの説教がつまらないのは、それが「獲得しちゃった自分」オンリーだからか。そうか、そうか。

今日も友人の耳を描いた。

2回目なので、既に見た事のある形状だけれど、最初に見た瞬間、耳と、耳からひとつづきの皮膚であるところの友人の横顔があまりに美しく見えて、「おお、この目の前にあったものはこんな綺麗なものだったのか!」と、思わず感動して涙がにじんで、鉛筆を落としそうになった。このワークは20分で耳を描き上げないといけないんだけど、最初、感動しすぎてもう描けないんじゃないかと思った。まあ、見続けてたら、その後普通に描けたんだけど……。

もちろん、普通の耳である。

よく見ていると、目がある時に自分を勝手にこれまでたどり着けなかったところまで運んでくれることがある。それはいいことなのかどうかわからないけれど、しばらく待っていると、そういうことがある。最初から「これを描こう」と力むと、うまくいかない。「見える範囲」のものしか描けないで終わってしまう。

人付き合いもそうだと思う。自分の「見える範囲」でしか人間、人と付き合えない。「この人はこういう人だ」と思いながら付き合うと、そこまでの相手にしかならない。しかし、目を開けて、見てみると、実は違ったのだということがよくある。いや、違うもなにも、違っても違わなくてももう何でもいいんだと思いながら、相手を見るようになる。

5月にアート&ブレインのワークショップを受けてから、そういうふうに私はそういうスタンスで人と付き合うようになった。

前は、ごちゃごちゃ批判してくる人がいると、うるせーなー、と思っていたけど、そういうのもけっこう、どうでもよくなってしまった。

「人は見たいようにしか見ない」ということを実感すると、ああ、それはあなたの見え方なのね、と割り切ることができるようになった。

その人の、今の時点での「見え方」で見たい私なのだな、って。

自分はそういう風にならないようにしよー、と思うだけ。

目を開いてよく見ると、自分が知らなかったその人の内面を、教えてくれる事がある。

原稿も一緒なのかな、と思う。「これを書くんだ」と決めてかかると、なんだかその範囲の中で終わってしまって、パノラミックなものにならない。

「急に開けた」感がするのは、いつだって、弛緩して、相手に任せたときだ。サーフィンもそうだ。乗ろう乗ろうと思うと乗れなくて、波に預けて「まあ、任せるよ」って気持ちになったときに、自分にとっての至高の一本に乗れたりする。

自分の原稿を信頼すると、なんだかそういう風にいつのまにか進んで、思いもよらない言葉が自分の中からぽろりと飛び出してくることがある。

平均化訓練をするとそういう感じになる事が多い。今まで使った事のない弱い筋に力が通ると、翌朝、そこがジッパーのように開いて、自分でもあると思わなかった文体、表現、言葉が、そこから真珠の粒のようにぽろぽろとこぼれ落ちてくる。それはどうしたって、自分では導き出せなかった言葉たちだ。

(すんごい余談だけど、平均化をやっている男の人ってなんですぐ「自分が一番平均化の理論を理解している」「自分のほうが○○さんより進んでいる」とか言うんだろう。ばかじゃなかろうか。そんなこと言って、人に教えたがってる暇があったら、いいから黙って自分の平均化を深めろよと言いたい。すごい余談だけど。)

和合さんと言う福島の詩人にインタビューでお会いしたことがある。和合さんは原発が爆発したすぐあとから、避難所生活の中で、まだ余震が続く中で、Twitterに詩を書きはじめた。それまではTwitterなんて暇人がやるものだと思っていたらしいけど、なぜだかそれを書かずにはおれなかったのだという。

彼が最初に書いた一文は「放射能が降っています 静かな夜です」だったそうだ。

「考えるよりもまず先に、動いちゃってるんですよ。ある一線を越えると、真実が真実を連れてくるというか。それは鮮やかさなのか、強度なのか、思いの深さなのかわからないですが、ひとつだけ確かなのは、考えるよりも、涙が浮かんでくること、そこになんか真実があるような気がするんです。」

ある一線を越えるためには、動き続けることだ、と思う。動き続けるためには、見る範囲を刷新し続けることだ。それは、たぶん、人や周りを、なにより自分の持つ、未知なるところまで連れて行ってもらえる可能性を、信頼するということなのだろう。そうするかぎり、人は止まらない、と思う。

本に関しても、最初から「これを書きたい」じゃなくて、勝手に原稿が連れて行ってくれるようなそんな案配で、なにか結論に着地できたら、ぐわわんて開くものになるんじゃないかなあ、と、そう思うのでありますよ。

mimi

 


投稿者:

miyuki.ono1228

小野美由紀(MiUKi_None)作家。1985年東京生まれ。

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