「学ぶ」ことの意味—フォーラム「未来を作る教育のあり方」


1月17日、2030ビジョンが開催する第1回フォーラム「未来を作る教育のあり方」に、
パネリストとして登壇した。
フォーラム2
フォーラム3
ファシリテーターは、「Mr.ゆとり」こと、元文科省の寺脇研氏。
質疑応答の時間に、参加者の一人から、こんな質問が出た。
「自分は浪人中だが、今、受験をやめようとしている。
なぜなら、大学に行く意味がわからなくなったからだ。
例えば、なぜ関数を学ぶのか。学んで何の意味があるのか。
それがわからない。」
ごく普通の、20歳前後の若者だった。
自信の無さそうな態度を取りつつ、彼の口調には、
「自分がやらされ続けている行為の、意味の分からなさ」に対する強い非難が感じられた。
それは寺脇研氏への質問だったのだが、
思わず私は身を乗り出し、パネリストの机を越えて、彼に質問してしまった。
「キミは、何の意味があるのか、分かり切っていることしかやらないの?
勉強する意味がわからない。
みんな、そうだよ。誰だってそう思った事はあるよ。
でももし、
例えば、何の意味があるのかを分かり切ったことしかやらない小学生がいたら、
嫌じゃない?」
しかし驚くべき事に、
今の教育現場には、そんなたとえ話のような現実が蔓延しているらしいのだ。
内田樹の「下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)」
によれば、最近の小学生は、授業を受ける際、
まず初めに、教師に「学ぶ事の意味」を問うそうだ。
学ぶという行為自体の意味を問うのではない。
「それを学ぶ事によって、先生は僕たちに何をくれるの?
勉強することが僕たちにとってどんなメリットがあるの?」
そう、教師に問うのだそうだ。
つまり、彼らが差し出す、勉強という行為の代償として見合う価値を教師が提示できなければ、
彼らは授業をとたんに放棄する。
なぜなら、価値の提供が見込まれなければ、学んでも意味がないからだ。
彼らにとって、勉強は完全なる「等価交換」でなければ我慢ならないのだそうだ。
分からない事はやらない。
学びってそういうものなのだろうか?
学びというのは、今、ここにはないもの、
やがて彼方よりこちらに向かってやってくる未知の存在に、ある程度の期待を抱けなければ、
成り立たないものではないだろうか。
私たちはそれが「何」なのかは知ることはできない。
なぜならそれは「今、ここ」にないものだからだ。
学びというのは、そんな未知の存在に対し、
胸襟を開き、それが「なんであろうと」受け入れる姿勢を持たなければ、達し得ない。
そして私たちは、それが何であるのか、
それがどんな変化をもたらしてくれるのか分からずとも、
そこに期待をかけることができる。
学びによってもたらされる「何か」によって、ほんの少しだけ未来が変化する。
その変化を嗅ぎ取り、それを選択することが、私たちにできることの全てだ。
今においては単なる「可能性」でしかない、何千万分の一の未来が発する
ささやかで微弱な信号を受信する力、
その微弱な信号に触れ、琴線のように振動を起こす、過敏な受信体を体の中に持つ事が、
私たちが学びを選択し、学びから意味を受けとる
ただ一つの方法なのではないか。
意味が分からない事に期待をかける力。
今は分からない事でも、なにかある、何かをここから得てやる、
そんなふうに、未来の可能性を感じ取る力を育てる事こそ、
「学び」を与える立場の人間が、子供にしてやらなければいけないことだと、私は思っている。
フォーラム1
参加者は100人弱。
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懇親会は居酒屋ワンフロア貸し切っての大宴会に。


投稿者:

miyuki.ono1228

小野美由紀(MiUKi_None)作家。1985年東京生まれ。

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