セックスとコミュ力―映画「愛の渦」感想


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「愛の渦」を見た。

 

ポツドールの三浦さんが作った舞台の映画化ということで半年前から楽しみにしていて、やっと見た。

 

最初に言うべきことは、この映画は、セックスしたい人と見に行くべきだ、と言う事。

 

友達同士だと、社会性のカラをやぶれないまま、感想戦に突入してしまう恐れがある。

 

映画が終わった直後、明るくなった映画館の中で、サブカル女子っぽい女の子の2人連れがすぐさま大声で

「ってゆーか!超お腹すいたんですけどー!!」

「ほんとーてか映画館乾燥しすぎて喉やばい」

などと話しながら座席を立つのを見てそう思った。

 

不思議だ。映画館という匿名性の高い、それでいて親密な空間の中でさえも、

映画が終われば、すぐに人は、社会性の膜をかぶってしまう。

 

セックスと同じだ。

かなしいことに、人間はイってから1秒も経てば、早々に社会を取り戻してしまう生き物だ。

身体を覆う社会性の皮膜は、どんなに汗をかいたって、決して一緒に落ちてはくれない。ボディーソープでどんなに洗っても、洗い落とせない。

 

自分もまた同じだ、と映画館を出たあとに思った。

 

 

「コミュ力」ってなんだろう。

 

登場人物たちの中で、社会性を比較的、発揮していた人々には、最初から最後まで、「何も」起こらなかった。

 

あるのはただのセックスだった。

 

 

コミュ力がセックスを無効化したとも言えるかもしれない。

 

 

 

(彼らは、比較的社会性を発揮して、とりあえずセックスすることにはこぎつけるものの、でも、一番最初にセックスした相手は、本当に一番セックスしたい相手ではなくて、とりあえずの二番手だった。)

 

そんなもんから、遠く遠くに逃げようとしている人たちには、ディスコミュニケーションと言う名のコミュニケーションが起きた。

 

どっちがいいかは、分からない。社会性から遠い人たちが最終的には得をした映画かと言うとそうでないかもしれないし、

誰も何も変わってないと捉える事もできるかもしれない。

 

 

以前「ホムンクルス」の作者の山本英夫さんに連れて行ってもらって、数人でハプニングバーに行ったことがある。

そこにはたあっくさんの裸体に近い客がいて、みな、エロに興味があるような「ふるまい」をするのだけれど、本当に扇情的な人はごく一部だった。まるで、扇情的なふるまいによって社会的なアイデンティティを獲得しようとしているように思えた。

そんな人たちが、壁にスズメみたいに連なり、だっれも誰にも声をかけることなく、ただ時間が過ぎて行く。

最終的に、友達カップルのセックスをみんなで眺める形になったんだけど、女の子のほうの喘ぎ声もなんだか社会的で、その場が本気で楽しめない、ちょっと高いディズニーランドみたいな感じで、なんだか物悲しい感じがした。

単に、そこに乗り切れない自分の問題かもしれないけれど。

 

刺激は刺激でしかなくて、尖った針の先にある酩酊は、すぐに、ぽろりとくずれて落ちてしまう。

 

 

セックスって聖地だ。

 

たどり着いたら、何かがあるように思う。でも本当は何も無い。そこが聖地であるのは、個人がそこに、内的な意味づけをした時だけだ。

 

社会性のフェンスに囲まれた空の聖地の周りを、私たちは今日もぐるぐる回っている。

 

 

愛が無いのに「愛の渦」。

 

 

女優さんが途中で「ここ、スケベな人しかいない場所なんでしょ?」ってカメラに向かって言うシーン、

映画館の観客全員に向けて、

私に向けて、言われたみたいでどきっとした。


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