偽リアの憂鬱


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わたしが出版業界に入るきっかけになった、離島経済新聞社の鯨本編集長が、こんなことを言っていた。

「25歳まで、誘われた飲み会は全部、断らないで行くようにしてたけん」

 

私は20代前半はほぼ精神的ひきこもりで、怖くて飲み会に行けなかったし、行きたいと思っても、ぎりぎりになって急に嫌になってドタキャンしていた。

そのせいか「まともな」社会人になるのがだいぶ遅れてしまったのだが、いちおう、社会人の切れっぱしになった今、それを取り返すがごとく、鯨本さんの訓示を遵守し、誘われた飲み会は全部行くようにしている。

ところが、である。

飲み会に参加すると、その場は楽しいのだが、その後、ひどく落ち込むのである。

多くの人と話したあとの、あの落ち込み。

飲み会から帰って来て、へべれけな状態で自分の鏡の中の姿を見たとたん、取り憑いたものがすっと離れるように上気した気分がそがれてゆく。

飲んではしゃいで楽しく過ごせたはずなのに、次の日、前借りしたものがどっしりと返ってくるように、疲れが残って布団から出れなくなったりする。

 

別に、人とはなすのが嫌とか、飲むのが嫌いとかではない。

でも、楽しそうに話し、オーバーリアクションでへーとかほうとかあいづちを打ち、場の対流を崩さないように、かき混ぜてかき混ぜてかき混ぜて盛り上がった飲み会ほど、すごく疲れる。

 

内蔵にどすっと来るような疲れが取れないのだ。

 

この「コミュニケーション・リバウンド」とも呼べるような疲れに、対処のしようがあるのかどうか。

知り合いの社長さんに聞いたら「すごくしんどいけれどもどうにかして出かけないといけない時は、レッドブルを2、3本がぶ飲みしてから行く」と言っていた。

それはただの寿命の前借りである。却下。

 

なんでだろう。なんで自分は大勢の場に適応できないんだろう。

そう思っていたら、精神科医の名越康文先生の本にヒントがあった。

 

「相手を楽しませるために、10の話を100にして話したり、逆に関心も無いのに関心のあるようなリアクションを取ったり、楽しそうに振る舞ったりして、自分を「盛ってしまったりという経験は、誰にでもあると思います。こうした『舌が勝手につく嘘』は、実は「過去の渇き」と密接に関係しています。

こういう「舌が勝手につく嘘」は、誰しも身に覚えがあるものだし、ちょっと話を大きくしたり、尾ひれをつけたりするだけであれば、実害はないように感じます。しかし、これを放置しているとボディブローのように、自分の心にダメージを蓄積してしまうんです。

(中略)友人と飲みに行った帰りがけに、えもいわれぬ「挫折感」を覚えた経験はないでしょうか。飲み会で楽しく過ごしたときほど、帰り際、別れ際に不全感、挫折感を覚えてしまう。たいていの場合、僕らはそれを人と別れる事によるさびしさと理解しがちなんですが、実は、宴席において「舌が勝手につく嘘」を重ねてしまった、後悔による疲れであることが、少なくないんです。」(名越康文「驚く力」より)

 

 

そうか。そうだったのか。

 

実は「リア充」に見える人の、あんがい多くの割合、たぶん、30%くらいは、これに当てはまっていると思う。

 

リア充が集まる飲み会の、全員が場の雰囲気を壊さないように、流れを止めないために、大きなシーツのすそをひっぱって、うまく落とさないように支えている感じ。

流れを途絶えさせないように、壊さないように、絶え間なく気を使ってしまう感じ。

自分をこの場にふさわしい、朗らかで、好き嫌いがなくて、コミュニケーションの上手な人間のように見せかける。

飲み会が楽しくないのではない。自分が、その場から、滑り落ちなくてすむように、すむように、周到に、リア充シールドを張り巡らせて人と接しているから、緊張してエネルギーを消耗しているだけだ。

 

そっか。

適応できないから疲れるんじゃなく、適応過剰だから疲れるのか。

 

でも、飲み会の場をよく観察していると、流れなんてあるようでいて、実は霧散している。

本当は無いはずの流れを壊さないように、壊さないようにと、つい浮き足だってシーツを掴んでしまうから、自分で作り出した、よくわからないイキオイについつい飛ばされて、名越先生の言うような状態になってしまうんだろう。

 

気を使う人と飲むと疲れる。すごく。キャバ嬢と飲んでも安らげない人はこのタイプである。気を使う人に気を使ってしまって疲れるのだ。

家入さんとか、繊細なタイプの経営者には、こういう人が多いなぁ、という印象を受ける。

飲み会に参加したら、全員のシーツを落とさないように一身に引き受けてしまう。シーツをつい、落としてしまいそうなあぶなっかしい人のことも気にかけてしまう。

結果、消耗して自分の中に、大きなクレーターを残してしまう。

だから、全員が真のコミュ障の飲み会はとっても気楽だ。だれも気を使えないから、疲れもへったくれもないのである。

 

全員がリア充ぶり、いかにもコミュニケーションが上手そうにふるまう綺麗すぎる飲み会ほど、とても疲れるわりに全然楽しくないのである。

そんなところに、コミュ障が一人いるとなんだか全員がほっとするかんじがある。例えば岡田智博さんとか。

コミュ障は、全員が、やぶらないようにやぶらないようにしているシーツに、容赦なく裂け目を入れる。だからちょっとだけ安心する。

全員が、演技するのをちょっとだけ止められる。

反論する人もいるだろうが、コミュ障はヘタなコミュニケーション強者より、よっぽどコミュニティの潤滑油である。

 

最近、飲み会でもうあんまり話さなくなった。

飲み会で、ああ、自分は今、勝手に嘘をついてるなあと思ったら、試しに黙ってみる。黙ってぼーっとする。ぼーっとしていると、会場の中の、なんとなく流れのほころびのようなものが見える。

ほころびの中に、自分と同じようにぼーっとしている人がいる。

そういう人と、ぽつんぽつんと話してゆくと、さっきまでとは違った場所に、2人の輪が出来る。ぽっと三月兎の穴が開いて、みんなが保とうとしているシーツの下の秘密の世界に、行けるんである。

 

みんながわいわい盛り上がっているところに一生懸命ついていこうとするから疲れるのだ。

話そうと思って一生懸命話している中に、コミュニケーションは生まれない。コミュニケーションは、自分に「待て」を課したところ、止まったところから、いきなり生まれるのである。


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