先月、某週刊誌の仕事で、三味線奏者の葛西頼之さんにお会いした。
葛西さんは、小4から三味線の師匠に弟子入りし、今では世界で活躍する三味線奏者だ。若干25歳だが、中国、ロシア、シンガポールなどでもコンサートを開催している。
そんな彼の話の中で、一番興味深かったのは、
「斜陽産業の中で、それでも好きなことをするために、どうやってサバイブするか」という話だ。
彼は、東京で芸能プロダクションの社長も勤めている。今は4:6ぐらいの割合で経営と奏者、二つの仕事を両立させているそうだ。
本人は行きがかった縁だというが、そこにはきちんとした戦略が感じられる。
「邦楽を始めとする伝統芸能は、一舞台いくら、それっきりの商売。それ一本で食べてゆくのは厳しい世界です。文化的な扱いも今では低いし、コンサートの機会が多いわけでもない。エンターテイメントは景気が悪くなると真っ先に切られる。
だから僕は、会社を経営して金銭的な基盤を確保した上で、それを土台に芸の道を極めてゆくつもりです。
よく『一本にしぼった方が無茶が出来る』というけれど、そうじゃない。基盤があるからこそ、安心して自由な表現ができるんです。
伝統を重んじる三味線業界では疎んじられますが、今若手で活躍している三味線奏者はほとんどそういう考え方をしていますよ」
非常にクレバーで、先見の明のある考え方だな、と思う。
私はライターだが、この「物を書く」という仕事も、もはや伝統芸能というか、古典芸能のようなものだと思っている。
先日「脱就活シンポジウム」というイベントで登壇した時に、学生さんがライターという仕事を予想以上に神格化というか、あこがれの仕事のように扱っているのを知ってびっくりした。
だれもがインターネットで発信でき、タダで他人の書いた物が読める時代に、モノを書いてそれを売るというのは、本当にオールドファッションな仕事の一つだ。
基本的に、原稿は一本いくら、の買い切り制なので、特に単価の安いウェブメディアなんかは、座敷で演奏して一曲いくら、の流しの奏者とあまり変わらないと思っている。
ライターは、文章という芸に対して、投げ銭をもらう芸者。
私はブログからほとんどの仕事の依頼をもらっているので、特にそうである。読者のみなさまの前で芸をして、チャリンとお金をもらう。客(編集者、読者、出版社)の求める芸を知り、一生、自分の芸を磨いてゆかなければいけない。
しかし、出版業自体、斜陽産業だし、そのうえ業界の体質がすこぶる古い。仕事をしていて「今ってジュラ紀だっけ?」と思うような出来事も少なくない。
今、フリーでライターをしている人で、「このままの仕事のやり方がいつまでも続く訳が無い」と思っていない人は居ないのではないか。一本いくらの「もらい仕事」を、雇い主(出版社)の倒産に一生怯えながら、やっていくわけにはいかない。
それでも、なぜライターを続けるのかというと、やっぱりそれは書く事が好きで、書く事で何かを変えてゆきたいからだ。言葉で読者を突き刺したい。言葉で世界の色を変えたい。
もはや死滅しかけている業界で、どう生き残って行くか。
その中で、どうやって自分の「色」をつまびく弦に載せるのか。
そのために、基盤を作ることが必要になってくる。
他に本職があって、本を書いている人はたくさんいる。今後は逆に、物を書くという芸を続けたいからこそ、他に基盤を持ち、収入と心の安定を得つつ、自分の求める「良いもの」を書いてゆく、そういう発想のライターが増えてゆくと思う。会社を経営したり、副業をしたり、別の基盤を作りながら、生業(ライフワーク)としての芸(ライティング)を深めてゆく。
別に、片手間でやるとか、そういうわけではない。葛西さんはれっきとしたプロの三味線奏者だし、一生の仕事である。比重はそちらのほうが多い。
ただ、生業を一生続けるために、その技をより自由度高く深めてゆくために、クレバーになることが、斜陽産業の中で、それでも好きなことをやりたいという人には必要なことなんだと思う。
脱就活シンポジウムの中で、「どうやって、ライスワーク(食べるための仕事)と、ライフワーク(好きな仕事)を切り分けて、割り切ればよいのか分からない」という質問をされた。
その考えに当てはめると、葛西さんの仕事は三味線がライフワークで、プロダクション経営がライスワークということになるだろうか。
それも違う気がする。
このような考えの人は、「好き」というのは何か針のように尖っていて、好きなことで生きるというのは、それで突いた穴のように小さな点だと思ってるのかもしれない。
ライフワークは好きだけで成り立ち、ライスワークには好きが含まれない、そんな2項対立で、仕事というものを捉えていたら、それはつらい。
ノマド系の人の自己啓発本には「好きな事を仕事に!」とか「好きな事をして自由に生きてゆく」みたいなアオリが多くて嫌になるけど、100%好きを仕事にしなければいけない、みたいな強迫観念があると、それ以外のものは全部苦痛、のような気がしてきてしまう。
でも現実的に、「好き」を中心とした円を思い浮かべた時、「好き」と「好きじゃない」の間にあるのは「充実」という概念だ。
「好き」な仕事のほかに、自分が「充実する」仕事、というのがある。葛西さんにとって、プロダクション経営は嫌々やっている仕事じゃないだろう。好きとは1ミリ隙間があっても、きっとその奥深くには、充実があるに違いない。
好きな仕事の周りに、充実の仕事を敷き詰めて、何がいけないの?
好きなことだけでは食べれないけど、ライスワークはしんどいという人は、自分の好きの周りを包む、充実を探してほしい。
充実で敷き詰めた円の中心に、自分の「好き」を守ってゆければ、それはきっと楽しい生き方なのではないか。
そう思っている。
(三味線奏者の葛西頼之さんの記事は、明日12月2日発売の「AERA」巻末「U25」コーナーに掲載されています。ご興味のある方はご覧下さい。)
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