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自著のプロットを、編集者さんと考えて作っている。

本を書く、ということが生まれて初めてなので、まだよくわからない。

山崎ナオコーラさんの「昼田とハッコウ」を読んだ。
書店で生まれ育った二人の青年の、日曜夜9時のドラマになりそうでならなそうな、微妙な空気感のある物語だ。

山崎さんの小説には、本に関わる労働をする人たちがよく登場する。

山崎さんの、彼らの描き方は面白い。

本に囲まれて育った人間は、森で生まれたオオカミが森での生活に適合しながら育つように、本に適合して生きるようになるのだろう。
もしくは、セミが樹液を吸って飛び立ち、またもとの幹に戻ってくるように、本から栄養を吸いとり、現実の世界に出て、また戻る、のを繰り返すようになる。

本作りの業界にいると、よく、昔から本が好きで本が好きで!やっぱり本の仕事がしたいから、この業界に入ったんですって人に会う。

その温度がうらやましいと思う。

私は本が好きなのかどうかいまだによくわからない。

友達がいなくて、本しか相手にしてくれなかったから、しかたなく付き合ってるような気がする。

「恋の渦」に出てきた、冴えなくて友達のいない男が、自分を相手にしてくれるだけの、冴えない女と付き合ってるように。

 

生まれたときからずっと、本に囲まれて育った。

植物が吐き出す酸素を吸うように、壁を覆う本棚に詰まった本たちの、ページの隙間から漏れ出る活字を吸い込んで育ってきた。

 

思春期の喜怒哀楽も、20代の女性の苦労と悲しみと激昂とそして情愛も、自分がそれを体験するまえに、本の中で疑似体験してしまった。

 

はじめての性的な体験も、もちろん、本の中だった。

6歳の時、何気なく、母の本棚から村上龍の「限りなく透明に近いブルー」を手に取り、ページをめくっていた。

もちろん、6歳なので、そこで繰り広げられる行為の意味はわからない。

「ベイグンキチ」の意味も分からないし、なぜ男女が絡み合っているのか、

村上龍が何を伝えたいのかも何一つわからない。

しかし、男女の乱交のシーンで、突然

「黒人のめくれあがった肛門が苺状に見えた」

といった内容の一文が、目に入ってきたのである。
前後の文脈は全く理解できない。けれど、その一文の意味だけは突然、理解できたのだ。

まるで、草むらからにゅっと飛び出た人間の白い足の生々しさに、思わず目がゆくように。

そのくだりの衝撃が、頭をかんと殴って、記憶から離れなくなった。

 

 

その、苺、春になると祖母がいつも学校から帰るとお皿に載せて出してくれる、洗いざらしのうるうると水をまとった赤く輝く苺と、そのページにバターのようにぐっしょり染み付いた、自分のこれまでの短い人生で一度も味わったことのない性的な空気、そして、ちびくろサンボでしか知らなかった「黒人」の体の一部、6歳児にも体感で認識できる、その背後にある部位とが、村上龍という人の小説の中では、等号で結ばれて出てくる、そのことが幼い私にとっては衝撃で、その衝撃は未消化のまま、みぞおちに黒い塊となって、その後もずっととどまり続けてしまった。

私の中の「性」のイメージは、今もずっと6歳のままだ。

頭の中に、まるでスタンプのように「黒人のイチゴ状にめくれ上がった肛門」という描写が焼き付き、そのイメージは、成長して大人になった今でもことあるごとにリフレインし、決して消えてくれない。

 

本から受け取ったイメージの烙印に、ずっとずっと翻弄される。

 

本に囲まれて暮らしてきた人間たちは、もしかしたらみな、そうなのではないか。
喜びも、悲しみも、怒りも、全部本の中に挟まっていたものの、リフレインなのじゃないか。
未来が実際に訪れる前に、先走って受け入れてしまったイメージの中にいて、頭と体はちょうど首でちょんぎられたように別の速度を生きている、ということが往々にしてある。

本の間に挟まっていた、無数のイメージたちから、逃れられない。

仕方なく、その烙印を受け入れて暮らしている。

まるで、小さなころから一緒に育ちすぎて、その性質を受け入れて生きてゆくしかない、相棒のようなものだ。

ちょうど、山崎さんの小説の中の、ハッコウと昼田の関係のように。

 

だから、本に触れないで育った、もしくは本を読みたくて読みたくて仕方がないで育った人の、キラキラした本への憧れを見ると、うらやましいなと思ってしまう。

 

もしかしたら、自分は本に対して恨みがあるのかもしれない。

そんな、わけわかんないものを、人に、ぎゅっと、おしつけて、いったい、お前は何を、したいんだ?

 

でも、いざ自分が本を書くとなったら、できればやはり、他人の心にぎゅっと判を焼き付けるような、爛れていつまでもぐじゅぐじゅと残ってしまうような、そんな本を書きたいと思ってしまう。

 

自分が人にされたことは、人にもしてやりたくなる。

 

すべからく、生業というものは、そのようなものかもしれない。

生まれてから大きくなる間に、知らないうちにぬるぬると低温で焼き付けられた焼きごてみたいなもの。

その印を、誇りと思って生きるか、仕方ないと諦めて生きるか、どちらかなんだろう。

 

何かを生業だと思って、腹をくくってやるということは、そういうことなのだ、きっと。


紹介 author-img 著者

小野美由紀(MiUKi_None)作家。1985年東京生まれ。

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