体罰について


 

浜岡日体の体罰についてのズイショさんのブログのこの記事

と、ミカサさんのブログのこの記事

を読んですごい主観的に思ったことを書く。

 

 

私が通っていた小学校は、桐朋学園小っていうそこそこ名門ぽい私立小学校だったけど、普通に体罰が横行してた。

 

 

担任の初老の先生は、朝、生徒が忘れ物をしたり、何か間違ったことをすると、教室の、先生の机の前に生徒を一列に並べて、順番にビンタする先生だった。

毎朝毎朝、ビンタの刑は行われていた。

先生が冷静で、逆に怖かった。

小学生の子どもが、毎朝、先生の座ってる椅子の前にビンタされるために長い列作るの。

今思うと気が狂ってる光景だけど、それが教室のルールだったので誰もおかしいと思っていなかった。

父兄も知らなかったんだと思う。

 

私はその先生に嫌われていたので、朝礼の会以外でも、ほっぺた変形するんじゃないかと思うくらいビタビタに殴られていた。

 

あと、体育の先生。

この人は若い先生だったけど、生徒の事殴りまくる先生だった。

それも、悪いことをしたら、とかじゃなくて、たとえば、体育のマット運動の時間に、生徒が前転と後転の順番間違えた、とかそんな些細なことで授業15分くらい止めて、その生徒を小突いたり耳をひっぱって頭振り回したりする先生だった。

 

すごく怖かった。

私はぶたれたことはなかったけど、先生に廊下で突然「お前、何かやったら、ただじゃおかないからな」って脅されたことがあって、「ただじゃおかない」ってドラマ以外で聞いたことないセリフを現実的に聞かされたってめちゃくちゃインパクトあって、何されるかわかんなさに1年くらい怯えてた。

 

暴力って、その時その瞬間に受けている子どもにとっては脅威でしかない。

 

どんなに名門って言われてる小学校でも、底辺でなくても、体育会系の学校とかじゃなくても、トップの考え方次第では、体罰が容認される。

 

子どもを小学校に入れようとしてるお母さんは、お受験の点数を上げることじゃなくて、その学校の上の方の人の、体罰についての考え方をちゃんと知ることに、力を注いでほしいと思う。

 

この二人の暴力のたちが悪いところは、感情が高まって殴るとか、生徒に愛があるとか、そういう暴力じゃない。ただ自分の権威を見せつけるだけの脅しの暴力。

 

愛があるのなら殴っていいとか、そういうことは言ってない。よくスポーツ選手とかで「あの時殴ってくれたコーチがいたから自分は成長した。だから体罰は許される」とか言ってる人がいるけどそれは違うと思う。「良いコーチがいた」ことと「殴られた」こととは全く別の次元だ。その人が成長したのは暴力のせいじゃない。そのコーチからもし、体罰の要素を引いて、暴力抜きで指導したとしても、その人は成長したと思う。

コーチの指導者としての能力が高かったから、もしくはその人の努力や能力、環境のおかげだからで、

暴力をふるう人間=いい指導者、では全くない。

 

コーチの人格と暴力と自分の成功を等号で結びつけるのって、

「アメリカが原爆落としてくれたから日本は成長した。だから原爆は許される」って言ってるのと変わらないと思う。

「あとでありがたみが分かるから殴る」って言うのは、

「あとでありがたみが分かるから遠い国に爆弾落とす」って言ってるのと一緒。

そういう人って、ありがたみがわかった!って言って寄って来る人は大事にするけど、ありがたみが分からなかった人のことは無かったことにする。

 

(「暴力ふるわれたから成長した」って、よくよく文字にして読んでみたらすごい文章だな、しかし。

もし仮に暴力を振るわれることで成長する世界があったとしても、私はそちらの世界に自分の子どもは入れたくないな。)

 

そういう経験を語るスポーツ選手は、大人になって成功したから自分の過去の体験をつじつま合わせで正当化できただけ。

「愛」っていう解釈でその体験を正当化できただけ。

暴力を受けている瞬間の子どもにとって、「愛」なんて存在しない。

暴力は受けている瞬間は脅威でしか無い。

 

後々のつじつま合わせで「愛」になったり「しごき」になったり「必要なこと」にされたりするだけ。

 

そのつじつま合わせができないで(逆につじつまを合わせてしまったばっかりに)ずっと苦しむ人はたくさんいる。

 

その担任の先生は、いつも良い大学の教育学部を出たことを自慢していたけど、私は「良い大学を出ても人格が伴ってなければ子どもを殴るような大人になっちゃうんだなー」ということと「学歴をやたら自慢する人は安易に信用しないほうがいいな」ということを、この時、感覚で掴んだ。

 

ブラジルには「マオ・レゾルビーダ(未解決の人間)」という言葉がある。スペイン巡礼した時に、ブラジル人エリートのマルコスに教えてもらった。

このインタビューで詳しく話しているけど、「マオ・レゾルビーダ」というのは個人的な問題、たとえば家族だったり、恋愛だったりその人の人格を裏付ける内面の問題を自分で乗り越えたり解決できていない人のこと。

「どんなにエリートでも、自分の問題を解決できていない人は人に当たったり、暴力的だったり、他人を攻撃することで自分を満たそうとする。社会的に成功したりしていてもそういう人には気をつけないと行けないよ」とマルコスは教えてくれた。

 

自分自身の解決できない問題を人にぶつける人。

 

わかりやすく言うと、石原慎太郎とか、猪瀬知事とか、インタビューの物言いとか見てるとまさにこれだと思う。こういう暴力的なものの言い方をする人がトップにいる日本ってどうなの、って思うけど。日本って国自体が「マオ・レゾルビーダ」なんじゃないかと思う。

 

ミカサさんのブログでは「低学歴の世界」と「高学歴の世界」がよく2等分されて(「こっち」と「あっち」のように)記述されるけど、それは未解決な部分をそのまま出していいとされている世界と、未解決な部分を隠蔽するけどずっと続く世界の2等分でしかないと思う。

起きている問題の根本の部分はあまり、どちらの世界でも変わらないんじゃないかな。

 

私は暴力を振るう人や、他人を脅して言うとおりにさせようとする人を見ると、「この人は未解決なんだな」と、そういう、軽蔑の目で見てしまう。どれだけ社会的に成功していたとしても、それは変わらない。

 

私も、自分の中に、未解決な部分がたくさんあると感じるけど。

そう思った場合、それを残さないように、個人的な領域でできるだけ解決してゆくことは、ゆくゆくは他人のためにもなるし、社会に利益をもたらすと思う。

成熟した大人であるということは、そういう事だと思う。

 

そんだけ。

 

 


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