「恋の渦」と「モテキ」がヒットする理由:楽ちん共感バブルの成れの果て(映画レビュー)


恋の渦

大根仁さん監督の「恋の渦」を見た。

 

すごく不快な映画だった。

でもその不快さで、観客をズブズブに取り込む映画だった。

 

大根仁監督といえば「モテキ」の監督である。私はモテキがたいそう嫌いで、登場人物たちの全員が全員、自分の事しか考えていないエゴイスティックさに気分が悪くなり「見なきゃよかった」と思ったのだけど、あとあと考えてみれば現実的に私たちのほとんどは人生を通してだいたい自分のことしか考えていないし、あの映画の登場人物のように自分と誰かのドラマを勝手に作り出して溺れているだけだし、その、他の映画で美しく描かれているものを、大根監督はめちゃんこリアルに汚く描いただけで、

あの映画の登場人物たちの不快さはそのまま自分との同族嫌悪なのだなと思うに至ったわけで。

 

「モテキ」は、他者と自分との間にドラマを作らずには生きていけない登場人物たちの愚かさと、それぞれのドラマの噛み合なさが面白いところだと思うけれど、今回の「恋の渦」が前作と異なる点は、「モテキ」が彼らの個々の関係の間に起きるスケールの小さな出来事を壮大なドラマへと膨らませて描いていたのに比べ、「恋の渦」は、登場人物もドラマの規模も、わざとしょぼくして徹底的にスケールダウンさせ、露悪さをウリにしている点にある。

 

登場人物たちは全員DQNだし、出会い系のサクラや日雇いなどで生計を立てている身だし、頭も悪い。

男も女も、他者に対して全く、余裕がない。

自己顕示と他者批判に暇が無く、自分を守るのに必死。

 

そんな彼らがとても小さなスケールで恋愛ドラマを繰り広げる。

 

二股、浮気、共依存、DV、腐れ縁、好きでもない相手と付き合う、馴れ合い、etcetc。

 

「恋の渦」は、私たちがよく恋愛に対して抱きがちな夢を、あえてデチューンした矮小なドラマのオンパレードだが、

そのDQNたちのドラマを、私は笑う事ができない。

なぜなら、自分の恋愛も、彼らとまるで変わらないということに気づかされるからだ。

 

登場人物たちの暮らす、4つの部屋で繰り広げられる男女9人の恋物語。

部屋を入れ替えたとしても映画の進行に全く不都合のなさそうな無個性な部屋、キャラクターが立っているようで立っていない登場人物、服、言葉遣い。

相手を変え場所を変え、彼らが結んでは切り離す人間関係の上に浮かび上がるのは、「チェンジしてもらっていい?」の一言に象徴される、他者の交換可能性だ。

いくらでもチェンジブルな世界の中で、彼らは叫ぶ。「俺はあいつとは違うの」と。その大合唱によってそれぞれの部屋は等号で結ばれている。

女子はと言えばもっとニッチで、その大差ない男子の「俺のこと分かってよ」を受け止める事で自分のアイデンティティを確立している。

 

だいたい自分が経験したことのある関係性ばかりだ。

 

スクリーンで繰り広げられる人間模様のレベルの低さに最初、眉をひそめていた観客たちは、しょぼさを際立たせて描かれた、彼らの恋愛が、普段自分が現実で演じている恋愛の模様と何一つ違わないことにはたと気づき、は青ざめる、という仕掛け。

大根仁の自主制作映画を見に来るのなんてたいがい高学歴で自意識こじらせまくった人々だろうから、劇場に足を運んだ時点で彼らはその罠にからめとられている。

奇しくも、誘われて一緒に見に行ったのが、大学時代にすごく冴えない恋愛関係になった相手だったので、なおさら自分の経験のしょぼさが思い起こされて、もうソッコー映画観た後帰ったもん。帰って仕事した。こんなしょぼい恋愛もうしないぞっていう一念で。

(ラブラブな相手だったら、なおさらきつかっただろうなと思うので、それだけが救いだったけど)

 

それぐらい「自分がこれまでやってたことを突きつけられる」というのは不快なのだ。

その鮮やかな手法を想いっきり発揮した大根仁監督の才能に「すごいなあ!」と敬服はするけれど、ただ、作品を好きになれるかと言ったら、そうではない。

 

 

この映画に観客が感じるのは、「いかに登場人物と自分が近いのか」という距離の無さへの驚きと、

随所の「あるあるネタ」にうん、うん、とうなづく快感、

つまり、ずぶずぶの共感オンリーである。

 

あるあるネタがちりばめられた世界、あるあるネタしかない世界。

この映画には、いわゆるドラマ(矮小化されたドラマではなくて、知らない世界という意味のドラマ)も、主となるストーリーも、ない。

 

世のすべての物語が、共感と刺激、その二つの配合で成り立っているとしたら、この映画は100%共感で成り立っている。

 

この映画にはこれまでの映画のように、めくるめくストーリーは広がっていない。魅力的な登場人物もいない。

ストーリーの中でふと自分を重ね合わせられる部分があるとか、自分を重ねて見ていたはずの主人公が、思いもよらない行動を取る事で物語が大きく展開し、驚かされたり、感情を大きく揺さぶられたり、そういう「ずらし」要素がいっさい排除された、ストーリーらしきストーリーが全くない映画だ。

 

観客を刺激し、こちら側に来いと手招きする映画ではない。

簡単に言うと「気づき」のある映画ではない。

 

この映画しかり、モテキしかり、大根仁さんの映画は「共感」のみで成り立っている。

共感の形はみな同じだ。一つのテンガをずっと使い続けるのと同じ刺激だ。

だからこそヒットする。

 

登場人物たちが、互いに馴れ合いを装いながら、互いを馬鹿にし合っているように、この映画はスクリーンの中と外の馴れ合いを引き起こす。

馬鹿も小利口もみんな、お前も含めて全員こっち側だよというメッセージを発し続けている。

「ああ私と一緒」で終わってしまう感じ、

ちょうど、自意識をこじらせた男女が「あなたも私もこじらせ系」と安心してしまうような感じ。

本当は不快なんだけど、共感できることで、まあよし、とする、みたいな。

 

いいね!ボタンを押すように、随所のあるあるに共感し、自分を重ね、重ねた相手は最後、全く裏切る事のない行動を取り、予想外の展開などいっさい見せずに終わってゆく。

 

スクリーンの中で、新しい事は何一つ起こらない、最後のどんでん返しですら、登場人物自身によって無かった事にされ、日常はもとの繰り返しに収束してゆく。

私たちはこれと全く同じ物語を知っている。

 

自分の人生である。

人生はパターンの繰り返しだ。

彼らの演じた群像劇は、私たちが人生で24時間365日繰り返しているワンパターンの一部を大きく引き延ばしにしてスクリーンに貼付けただけだ。

私たちはあーだこうだいいながら、同じ繰り返しの物語を生きてゆくし、予想外のことは起こらない。過去の焼き直しを繰り返してゆく。

登場人物たちが飽きもせず同じ事を繰り返すように。

何回でも何回でも繰り返す、止まらない渦のように。

渦の中で私たちは刺激もなく、大転換もない自分の人生を生きている。

あのスクリーンの中で物語が展開した4部屋の中にもう一つ、自分の部屋を付け加えても、違和感がまるでない。

たとえあなたが高学歴、高所得で、彼らのそれとはかけ離れた生活をしていたとしても。

 

差異の無い繰り返しとそれに対する共感。

 

私たちはもう共感オンリーで物語を消費できる。新しい刺激はいらない。ストーリーの主軸も要らない。

登場人物たちの、支離滅裂な喚きと嗚咽と、つじつまの合わない罵り言葉と同じように、中身も論理的正当性も客観性も社会性も要らない。

社会的に正しいかどうか分からなくても、何を言っているのかわからなくても、共感さえできればいい。

 

いいね!を押して、RTできればいい。

 

なんとなく、脊髄反射でバカなことをした人を一斉に叩いたり、なんとなくノリと流れでよくわからない活動に金が集まったり、

イキオイの向かうままに、その場でなんとなく乗れそうなものにフリーライドすればいい。

 

この映画は「共感天国」にプカプカ浮かんで、それを消費するだけで生きていけるようになってしまった私たちの姿を浮き彫りにする。

「モテキ」を更にバージョンアップさせた、今の共感バブルに非常にうまいことマッチした映画だと思う。

 

私にはそれが、なんとなく、危険な事のように感じられる。

たぶん日本が次に戦争に向かうときに一番動員に使われる道具は「共感」だと思うし、

国民中が一つの感動に統合されるオリンピックはその前実験のような気がする。

 

コピー&ペーストに、とにかく共感し、共感し、共感し尽くすだけで生きていけること、それはそれで幸せなことだと思う。

ちょうどこの映画の中で、一過性の感情の高ぶり以外の、本当に悲しい涙を流す登場人物は、一人もいなかったのと同じように、

共感のみで成り立つ世界は、苦しさも摩擦も違いによって生まれる悲しさも、感じなくて済むからだ。

 

別に私はその世界に混ざりたくはないが。


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