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最近、「ひきこもり女子いろいろえっち」というブログをなめるように見ていて、

むかつくぐらい文才があってむかつく、底辺って言っているけど全然あなたの才能は底辺じゃないじゃない、ひきこもりで非正規だけどそんなに持つもの持ってんじゃんという嫉妬と焦燥と自覚の無さへのいらだちで叫び出しそうんなって後頭部がぐよぐゆする。

 

底辺と呼ばれるその世界を、青い空に飛行機が線を引くみたいにして多くの人が二つに分けた(そして、自分のいない側の)その境界から向こう側を、青さを青さとして表現する力を持ってるじゃん、ずるい、ずるいよ、と、自分の陳腐さを呪いながら読んでいる。

 

と同時になぜか、つい最近見た映画「風立ちぬ」と、東京芸術劇場でやっている藤原貴大と今日マチ子の舞台「cocoon」のことを思い出した。

 

 

 

 

「風立ちぬ」はすごく残酷な映画だ。

おいそれと、誰にも、薄皮一枚へだてて、絶対に共感させてくれない冷たさがある。

 

「風立ちぬ」を見ていろんな人がいろんな評をしいろんな場面で涙を流すけれど、周りの人で「共感した」という人はあまりいない。

いたとしてもそれは嘘だと思う。

 

あれはジブリだからこそ大衆映画っぽくまるっとやわらかいタッチで描かれているけど、完璧なインテリの映画。

 

実写だったらたぶん怖すぎてついていけない。

 

なんか昭和の古き良き庶民の生活を描いているように見せかけて実はあれはすごく限定された人たちにしか分からない生活だ。

だって二郎さんは裕福な家に生まれて、東京大学に進学した超エリートで、国のために飛行機つくってる。

そんで、外国人客がたくさんいるような高級避暑地に一人で行ける。

菜穂子さんは菜穂子さんで、少女時代に洋装できるほどのお金持ちだし、お父さんも、高級避暑地で外国人客に物怖じせずに話せるということは貿易商かなんかだったのだろうか、全然原作読んでないから当てずっぽうで書くけれど、100%フィクションだとして見てもそういうふうに取れるよね。

 

外国に行って工場見学をして帰る、あれって今のメーカー勤務のお父さんが海外出張行って工場見て帰るよりか全然超ものすごい事なわけでしょう。

ジブリ的なおっとりとした空気の中で描かれるけど。

 

あの二郎さんの

「生きねば」

に心の底から共感できる人なんか本当に一握りしかいないんじゃないの、と思う。

 

「俺は、私は共感できるぜ」って酔える人はたくさんいると思うけど。

 

二郎さんのノブレス・オブリージュを体感できる側の人で

宮崎駿もそうで、

 

のほほんとしているけれど、あれは心底冷え冷えとした映画だなと思う。

二郎さんの「生きねば」は、国に選ばれて優先的に生きることを義務付けられた人の「生きねば」で、ピラミッドの実は頂点にいる人の言葉で、あの映画の世界は人を殺せる側に周る人間の世界だなと思う。

宮崎駿はそれをわかっていて、自分がそっち側にいることに自覚的だからこその、自責みたいなものを感じる。

 

あてずっぽうだけど。

 

二郎さんと菜穂子の愛には涙出来ても、二郎さんの「生きねば」には、なんだかそら恐ろしくて共感できない。

 

二郎さんの「生きねば」は現代において、誰も発し手の居ない、亡霊みたいな言葉としてスクリーンに浮いている。

 

「風立ちぬ」にもちゃんと描かれていたけど、命令された生に従って突き進む人の影に押しつぶされて犠牲になる庶民がたくさんいるってこと。

 

その押しつぶされる側の庶民を一生懸命想像して描いたのが今日マチ子✕マームとジプシーの藤原貴大さんの舞台「cocoon」だ。

 

舞台上で飛び跳ねまわる女学生たちは、一応、庶民の子ということになっていて、ひめゆり部隊として派遣されて、結局軍の都合で戦火の中に放り出されて、そうしてひとりずつ、飛ぶ鳥の羽が一枚ずつもがれてくように死んでゆく。

 

そうして最後、クラスメイトや下級生が、ひとりひとり、爆弾にふっとばされたり、押しつぶされたり、自爆したり、体中を弾に撃たれて死んでいった最後、残されたたった一人の女子学生、サンが発した言葉が

「生きることにした」だった。

 

なんて安易な言葉だろう。

死ななかったから生きるのだ。

 

でも安易なのだ、一握りのエリートの「生きねば」に対して、残された庶民たちにとって、生きることは安易なのだ。

 

「生きねば」は国のために生きることがなんか必然になっちゃったエリートの言葉で、

「生きることにした」は別に国にとっては死んでもいいけど、なんか生きちゃった庶民側の言葉だ。

 

死んでないから、生きちゃったのだ。

そういう人たちがふわっと降り積もってこの世界はできている。

 

 

大学の頃、学生たちが底辺高校に行って、高校生たちの話を聞いたり、自分たちの経験を話したりするボランティア活動に参加していたんだけど、そこで起きているあまりのディスコミュニケーションに気持ちが悪くなってやめてしまったことがある。

大学生側は持てる側として自分たちの持てる全てをその底辺校の高校生に与えようとして、でも彼らにとって大学生の持っているもの、美しく努力した経験だったり将来をまっすぐに目指す力、だったりそもそも彼らのアイデンティティの土台であるところの学力、だったりは端から永遠に手にはいらないもので、彼らの世界とこっちの世界はシャツの一番上のボタンと一番下のボタン穴、ぐらい遠くてハマり合わないものなのだ。それなのにボランティア側は、共感できたふりをして、コミュニケーションがうまいようなふりをして、うんうんと相手の話を聞いていた。

そのことに気持ち悪さがつのりにつのって、やめてしまった。

 

でも、その時は上のボタンの側のような気になっていた自分たちだって、二郎さんにはならない。

 

「ひきこもり女子 いろいろえっち」に出てくるような、底辺層、コンビニの店長さんのブログで「うちらの世界」と呼ばれているような人たちだけでなくて、私たち、はてぶとかツイッターとかで他人の人生を覗いて「ばかだなあ」とか思っている人たち、

例えばはてぶ民(高学歴が多いらしい。ホントかよ)だって完全に「うちらの世界」だ。

ボタンの上と下だったら、下の側。

国にとっては死んでいいけど生きちゃってる側。

そういえば今日は終戦記念日で、終戦記念日といえば毎年決まってうちの岡山育ちのおばあちゃんが
「広島にピカが落ちたら戦争おわるってみんなあの時知ってたんだよね、なぜか」
という話をするんだけど、落ちるって知ってても落ちるのを待っちゃうんだよねの側。
 

そのふわっと降り積もってる、生きちゃってる側の人で膨張し続ける世界の大きさに

もう黙るしかないような気になる。

 

 

ピラミッドのある世界で、下と上が絶対に交じり合わない世界で、

「風立ちぬ」と「cocoon」を同時に見て、

ひきこもり女子いろいろえっち」を読んで、

降り積もる側の自分の頭がぐじゃぐじゃんなって未爆発で、
どうにもならないのを避けようとして、そう思った。

 

何を思っても人の生は、かってに膨張しちゃう。

 

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紹介 author-img 著者

小野美由紀(MiUKi_None)作家。1985年東京生まれ。