51Xur5fqCsL._SL500_AA300_

ブックレビュー:朝井リョウ『何者』―他人のことをどうでもいいと思えない私たち 


朝井リョウさんの『何者』を読む。

この人いじわるだ。SNSばっかりやってる私たち全員が、うっすら感じつつ、でも言葉にせずにやり過ごしている事を突きつけるから。

でも同時にとっても優しい。 リクナビもマイナビも言ってくれない事を私たちに突きつけるから。

 

私たちはなんだって、いつだって他人のことが気になってしょうがないんだろう?

 

Twitterで時々誰かが喧嘩するのを眺めて、乙武さんとかはるかぜちゃんとか、誰かが叩かれているのを見てそれに反応して、たまに自分もちょっと叩いてみたりとかして、ブロガー同士が喧嘩してんの見て「くっだらね」と思いつつでも「くっだらね」とこうして書かずにはおれなかったりして。

 

なんだって私は、私たちは他人のことを「どうでもいい」と思えなくなってしまうんだろう。

 

朝起きて、Twitterのタイムラインを眺めて、ああ今日も世界は正常に機能してるんだなぁなんて、なんか平和、なんか平和、たまにTLに現れるくだらない瑕疵を時々ながめて「くっだらね」といいつつ、自分が立っている足元がちゃんと平和で固まっているのを確かめて。

他人に起きていることなんて、どうでもいいことなのに、

会ったこともない人なのに、 どうしても、どうでもいいと言えなくて。

ネオヒルズ族がどーの、安藤美冬さんがどーの、 たとえ自分から一千光年離れたところの人であったとしても、 私たちの大好きなSNSは、容易にその人の優位性を拾ってきて、わたしたちに突きつける。

そこにいるから。 画面の中にいるから。

さよならした人だって、 関わりたくない相手だって、 私たちは気にしてしまう。

そこにいるから。 画面の中にいるから。

 

たとえば、リアルの知り合いでも、メールなり電話なりで喧嘩して、さんざん相手の顔が見えないまま罵って、じゃあ直接顔合わせてやったろうじゃん、喧嘩してやろうじゃん、といきり立って約束を取り付けたとして、 いざ待ち合わせ場所に立ったとき、道の向こうから歩いてくる相手の、想像よりもずっと小さな背丈とか、案外高そうな体温とか、やわらかそうな肩だとか、不安そうな表情とか、頭のなかで勝手に結んだその人の像が、3Dの重さをちゃんと持ちあわせた人間としてそこに“『在』らわれた”、そのとたん、頭の中の硬かった像はしおしおとたたまれて、その人を許す以外の選択肢を取れなくて、でもそうするのにはきまりが悪すぎて、困って立ち尽くしてしまうこと、ってないだろうか。

今ここにある、目の前にむすばれた像のリアルさ、と、じぶんのにくたいのあつみ、私たちの人生にはそれ以外ないはずなのに、でもSNSってもうひとつの頭蓋骨の中では、想像上の『何者』かであることを迫られる。それしかそこでは価値がないから。だからこそ、私たちはそこでなんだか勝手に夢を見やすくて、でもそれはえてして自分を苦しめる夢だったりして、自分と関係ないものがもてはやされるのを横目で見てはうつむいて、手紙も出せない他人の言葉に傷ついて、時々喉がつまったみたいになってしまう。

 

身体をもたない私たちの夢は、なんだかとっても傷つきやすい。

 

私の整体の先生が言うには、SNSとかネトゲをやりすぎて、リアルの世界にあまりいない人の身体は、頭がふくらんで、かかとが頼りなくて、文字通り「地に足がついてない」身体なんだそうだ。現実の身体がお留守になっていると、ますます想像上の『何者』の群れに傷ついてしまう。

自分の前にも後ろにも、自分以外には誰もいない時間軸の上に私たちはそれぞれ立っている。そこにいる、自分が知ってる自分しか『何者』でもないのに。

それに気づかず、誰かの傍観者でありつづける限り、私たちはとっても傷つきやすい。

 

朝井リョウさんの『何者』は、そういう絶望感、

スマホがふと暗転して、黒い画面に反射した自分の顔を見てしまった時のがっかり感、をよく描いていて、 でもそっちのほうが実は大切で、常にわたしたちにはそのがっかり感しかないんだよという現実、現実を突きつけられて、お腹が熱くなりますね。

 

夢の中で、『何者』かであることを迫られた時、それは就活もSNSも一緒だけど、小説の登場人物の、面接で肩書きばっかり並べ立てる理香さんみたいに、『何者』かを演じ続ける事を選ぶ人もいるし、主人公みたいに、自分の傍観者性に気づいてそのかっこわるさを受け止める人もいるし、家族っていうどうしようもない現実のタグを背負うことで、希望の就職先を諦めて、でも夢の世界ではない、今、ここの自分を引き受けることに腹をくくる瑞月さんみたいな人もいる。

みんな誰もがホントは『何者』でかはあるんだけど、でも想像上の『何者』でもなくて、でも今、結局、ここにいる『何者』に戻ってこないと、この先はないよ、だからここに戻ってこいよ、という朝井さんなりのエールなのだろう。あの本の結末は。

 

吉本隆明さんは「ひきこもれ」という本の中で、

 

『頭のいいやつと競り合うことになっても、やきもきするな

そんなやつのことを考えてああだこうだ言っているよりは

自分の好きなことやっていたほうがよっぽどいいよ

のんびりやろうが 焦ってやろうが

10年続けた好きなことはいつか必ずかたちになるから』

 

と書かれていて、私はこの本が、とても好きだ。

 

今、ここの自分にひきこもる。

『何者』でもない自分の中にだって、ちゃんと目を逸らさずにひきこもっていれば、大きく背がのびすぎたアリスの小部屋の足元で、急に小さなドアが開くように、誰もがいつか、世界が開いて出て行くんだろうね。

引きこもるならできるだけ、想像上の『何者』かではなくて、今、ここにいる自分の中に引きこもっていたいよね。


投稿者:

miyuki.ono1228

小野美由紀(MiUKi_None)作家。1985年東京生まれ。

“ブックレビュー:朝井リョウ『何者』―他人のことをどうでもいいと思えない私たち ” への12件のフィードバック

  1. うーん、たしかに。 抜粋:『さよならした人だって、 関わりたくない相手だって、 私たちは気にしてしまう。そこにいるから。 画面の中にいるから。』http://t.co/U9z44bbC

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です