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親を愛するということ(続・親を殴るということ)

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昨日は、母が藤野先生(@ginshian)の催眠療法を受けに行った、最初の日だった。

 

当日まで、気が気じゃなかった。

母は今まで、そういった心理療法の類を毛嫌いしていたからだ。「カウンセリングを受けに行ってほしい」と、恐る恐る頼んだ時も、微妙な顔をしていた。

こういった治療は本人の受ける意志が肝心だ。他人がいくら薦めたからといって、本人に治す意志がなければ効果はないだろう。無理に通院を薦めたことに心を痛めつつ、それでも受けて欲しいという思いから、セッション当日まで、不安で仕方なかった。

 

セッションには母一人で向かった。

終わった頃、びくびくしながら電話をかけた。

「はい」

電話に出た母は静かだった。静かさが怖かった。

「こんなものは意味が無い」と、開口一番怒られるのではないかと思い、心が先に縮み上がった。

水滴を絞り出すようにして「どうだった」と一声、聞いた。

 

返ってきたのは、澄んだ空のような答えだった。

 

「気持ちよかった」

 

母のそんな落ち着いた、晴れやかな声を聞いたのは、生まれて初めてだった。

母はとても落ち着いた様子で、セッションが有意義だったこと、藤野先生が信頼に足る人物であること、あと2回来るように言われているため、どうにか時間を捻出してまたぜひ治療を受けたい旨を、訥々と話してくれた。

いつも、容赦なく鼓膜に突き刺さる声で電話をかけてくる母が、そんな素直な声で話せることに、とても驚いた。

同時に、母もひとつ、大変なことを乗り越えたんだな、と感じた。

変な言い方だけど、この記事(親を殴るということーUst番組「メンヘラ的家族論」)の通り、昨年の秋にきちんと親とぶつかって、殴りあって、本当に良かった、と思った。

 

 

親を愛するということが、ずっと分からなかった。

アルテイシアさんという女性作家の方が、著書の中で「親が死んでも葬式で泣けなかった。でも、それに罪悪感を抱かなくても良くなった」と書かれていて、それ以来、ずっと

「自分も親が死んだ時、悲しいと思えなかったらどうしよう」

という不安に怯えていた。

このまとめに載っている、「料理しない人と肉親の愚痴を第三者にこぼす人と小銭入れ持たない人は、信用できない。」という言葉を読んで、怖くなった。

この言葉は実際その通りで、だからこそ怖かった。もしかしたら、どこかで何かの拍子に親の悪口をこぼしてしまうかもしれない、そんな自分が嫌だった。親について悩んだことのないリア充が憎かった。いつまでも朽ちない異物が、胸の入り口を塞いでいた。

その不安がやっと取れた。私はたぶん、親が死んだ時、泣けるだろう。

あの時自分の欲求を伝えて、ちゃんと殴りあって、母自身が変わることを決意してくれたからこそ、そう思えたような気がする。

 

鴻上尚史さんは、著書『孤独と不安のレッスン』の中で、家族についてこう書いている。

“親を完全に愛するか、完全に憎むことができればきっと楽だ。「愛したいのに愛することができず」、同時に「愛したくないのに愛さなければならない」からこそ、私たちは悩むのだ。”

 

けれど私は、こうも思う。

その前提として「自分が相手から愛されたい」という思いがなければ、その葛藤にまで、手が伸びてゆかないのではないか、と。

愛したく、かつ、愛されたい相手だからこそ、私たちは悩む。

 

恋人に、友達に。あるいはSNS上で不特定多数に。

私たちはしばし簡単に、赤の他人に対しては「愛してくれ」と手を伸ばすのに、親にそれをする事が、一番、むずかしい時がある。

「愛してくれよ」と堂々と悩むことができる、地球上で唯一の相手だからこそ、それができないのだ。

 

 

「自分が本当は、相手からどうされたいのか、相手にどうしたいのか」。

最も強く願う事を、最も強く願う相手にきちんとまっすぐ伝えるのは、至難の技だ。

 

私はきっとこれからもずっと、他者との関係の中でそれがうまくできずに、悩んでいくのだなと思う。おそらく、死ぬまでずっと。

 

けれど、少なくとも、自分が今最も濃密にそれを願う相手にそれを伝えられたことで、随分と楽になった。

 

「他人は変えられない」というのは嘘だ。

人間は変化する。ただしそれは、自分の変化の連鎖として、だ。

人との関係は「リアクション」の応酬だ。良くも悪くも相手の「re-action」を得るには自分からアクションを仕掛けてゆくしかない。

相手を変えるために、ではない。自ら起こしたアクションの過程で変化したあなた自身への応酬として、相手も変わるのだ。

 

相手へのアクションとして、自分の望みを、伝え続ける勇気を持つこと。

 

今もし、それをうまく伝えられないとしても、相手にそれを拒否されたとしても、憎んでしまう自分を許せないとしても、それは不変ではない。

 

親と関わり続けるのは、とても大変だ。誰かと取っ組み合うのは、血が滲むような行為だ。

だけど、あなたが手を伸ばすのを止めない限り、きっとなにかが動くはずだ。

 

家族だからこそ、「愛してくれ」と手を伸ばすことを諦めないこと。願いを伝えることを諦めないこと。「私たちはお互いに、今は愛せないけれど、それでも愛しあいたいのだ」と言うことを、なんらかの方法で互いが認め、そして、そう願うことを許しあうこと。

 

それが、家族を巡る底なしの孤独から、私たちが脱却するための一つの方法なのかな、と思う。

 

親を殴るということーUst番組「メンヘラ的家族論」

「さみしい」ってなんですか?ー2012年の冬に渋谷で逆ナンした話

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親を愛するということ(続・親を殴るということ)」への2件のフィードバック

  1. 親を愛するということ(続・親を殴るということ) | None. http://t.co/F6OHaabS @MiUKi_Noneさんから

  2. 早い段階で自分自身の家庭が「機能不全家族」であることに気付くことができたら、とつい悔やんでしまうけど、今からできることは何だろう?考えよう。:親を愛するということ(続・親を殴るということ) | None. http://t.co/LFPOPI8P @MiUKi_Noneさんから

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