若者と日本酒の未来—女子のための日本酒のてびき3ヶ月目


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最初にSAKELIFEに出会ったのは、雑誌「アエラ」で私が担当していた連載コーナー、「U25」の取材でだった。

各分野で活躍している25歳以下の若手を紹介するコーナーで、どうしても日本酒に関する取材をしてみたかった私は、人づてで紹介してもらい、当時SAKELIFEでインターンをしていた、慶應大学3年生の河野道大くんを取り上げさせてもらったのだ。

河野君は栃木県の惣誉酒造の6代目の跡取り息子だ。酒蔵経営に奔走する父の背中を見て育ち、東京の大学で学びながらも、実家の酒造会社のPRに、フランスにまで駆り出され、若くして日本酒業界の未来を考えている。

日本酒業界で「若手」といっても、杜氏として完成されてくるのは30代以降。日本酒業界で注目の新星、SAKELIFE代表の高橋さんですら28歳だ。20代前半で日本酒業界を背負う若者を探すのは苦労した。その中で河野君は、従来の日本酒の世界から飛び出して、新しい日本酒の売り方を模索しているルーキーとして目新しかった。

取材の日、私は宇都宮にある河野くんの実家・惣誉酒造に出向いた。

惣誉酒造は、「生酛づくり」といって、最も手間ひまのかかる昔ながらの手法で酵母を培養させる酒造りを行う、数少ない酒蔵の一つである。近代的な機械の並ぶ酒蔵はイメージしていた風景とは違い、かなりシステマティックな印象を受けた。それでも冬の仕込みの時期は夜の3時から一晩中、杜氏たちが氷点下の中で仕事をするなど、伝統的な手作業が製造過程には不可欠らしい。日本酒は人の手で作られるものなのだ、というのがよくわかる。

5代目社長である河野君のお父さんは、フランスやアメリカなど、海外での販路拡大に意欲的だ。日本国内での販路はこれ以上増える事は無いが、海外、特に日本食が人気のフランスや、アジア圏の新興国などにはそのチャンスがある。「和食」がユネスコの無形文化遺産に登録されたことだし、海外での販路を拡大することは、国内市場が先細りしてゆく日本酒業界においては堅実な戦略なのだろう。海外の展示会で上映しているムービーを見せてもらったが、かなり美しくセンスがよかった。日本酒のPRなんて、地道に試飲会で紙コップについだ酒を手渡しして…という古くさいイメージしかなかった私はびっくりした。

しかし、河野くんにはお父さんとは別の考えがあるようだった。

「世界に知ってもらうことも必要だけど、僕は、まず、日本国内、それも、人の集まる東京で売りたい。特に、これから買い手となる若者に、日本酒の魅力を伝えたいんです」

若者の人口、特に購買力のある若者は年々減ってゆく。ターゲットにするなら中高年のほうが可能性はあるだろう。彼の意図が合っているかどうかは、私にも分からない。けれど、ブームを生み出すこともできるだろう。河野君はSAKELIFEでインターンとして働きながら、その可能性を探っている最中みたいだった。

「苦い」とか「アルコール臭が残る」という先入観は未だに根強い。日本酒には、ワインで言うソムリエにあたる資格がない。「利き酒師」はいるけれど、まだそれほどメジャーな職種ではない。種類や味の細かな違いを伝える役がいないのも、日本酒への偏見が消えない一因だ。だからこそ、河野君は自分が惣誉酒造を継いだあとは、一瓶一瓶に込められた背景や、作り手の思いを蔵元に代わって伝えられる経営者になりたいと語ってくれた。

「友達には“大学を出てまで酒屋になるの?”と言われます。でも僕は、父や蔵人が、極寒の蔵の中で懸命に働く姿を見て育った。真剣に酒造りに立ち向かう人たちはやっぱりかっこいい。いつか、この場所に帰ってきたい」

 

なんだかんだいって、日本酒は楽しい。

私が日本酒が好きなのは、なんだかんだ、飲む時に楽しさがあるからなのだ。別に焼酎だってビールだって楽しいんだけど、豊富な種類と、シーンに合わせて酒器を選ぶ楽しさ、酒器によって味も香りも変わる意外性、酒器自体の美しさ、これがうまい、あれがうまいって、通だけが知っている銘柄の情報を交換する愉しみ、全部が好きだからだ。あ、もちろん味も好きなんだけど、そういう飲み分けと比べあいが気取らずにできるのが、日本酒のなによりの魅力だと思ってる。

でも、それができる若者はなかなか少ない。これは由々しき事態である。

河野君みたいな若者が、日本酒の魅力を同世代にどんどん、伝えていってほしい。新しい市場を見つける事は、いつだって若者の得意分野のはずだ。それは惣誉酒造のためだけではなく、日本酒業界全体の利益にもつながるはず。

私だって、オジサンばっかりじゃなくて、同世代と美味しい日本酒、飲みたいもん。

いつか河野くんが独り立ちして、東京の若者を相手にイベントなのかサービスなのか、分からないけれど、何かを仕掛ける時が楽しみだ。取材した時は若干頼りない大学生だったけど、何かを背負った男の人って、驚くほど早く、成長する。この業界を背負った河野君と、SAKELIFEと、それから日本酒業界自体がどうなっていくのかを、これから楽しみにしている。

 

というわけで、SAKELIFE3ヶ月目。

今月届いたのは㈱名手酒造店の「黒牛」。

 

市販されているほとんどのお酒は通常「火入れ」という加熱殺菌をしているけれど、
今回の黒牛は一度も火入れをしていない「生酒」。

 

今日の舞台は、陶芸家・瀬川辰馬くんが8月にオープンしたばかりの陶芸スタジオ「Organon」

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一緒に飲むのは、人気急上昇中の人気ミュージシャン「水曜日のカンパネラ」の変態ボーカル少女コムアイ(@kom_i)。ちなみに全然飲めない子。

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瀬川君の作った酒器で乾杯!

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甘い!!!

めっちゃ甘い。そして、生酒ならではの舌の上ではじけるぷちぷち感がくせになりそう〜〜。

今回の配送では、とっくり型と一緒にラッパ型の酒器までついて来た。

それに加えて、シーン別・酒器の選び方チャートまで!!

こういう、かゆい所に手の届く細やかなサービスがSAKELIFEの魅力かも〜。

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あー、やっぱり人と飲むのが一番たのしいよねぇ。

 

というわけでSAKELIFEモニター第3弾だったわけだけど、私が一番ツボだったのは酒器が一緒に送られてくること。

色んな種類の酒器を知れるし、月を重ねるごとに少しずつコレクションが増えてくのもいい。

色々選ぶ楽しさが増すよねー。

日本酒の楽しさを知る入り口としては、SAKELIFEはもってこいだと思います。

あーもっと日本酒飲みたいっ。

 

SAKELIFE (http://sakelife.jp/

 

「水曜日のカンパネラ」(http://www.wed-camp.com/

 

「Organon Ceramics Studio」(http://organon.tokyo/


「マレフィセント」感想:ヤリチンに煮え湯を飲まされたヤンデレ娘が傷を回復する話…が、結局「“カワイイは正義”なのか?」が気になって集中できないよぉぉ!


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「マレフィセント」を観ました。(ここから先はネタバレ度:小)

 

初恋をこじらせたヤンデレのお姫様が、擬似親子関係による愛の芽生えによって傷を回復するという、大変感動的なお話ではあるものの、私が一番に気になったのは、劇中における男の扱いのひどさです。

どういう感じかって言うと

 

女>>>>>>>>カラス>>>>>>>>(越えられない壁)>>>>>>王>>>王子


どんだけ男は添え物なんだよ!

「アナ雪」にも増す、ディズニーのミサンドリー(男性嫌悪)っぷり!!

「かぐや姫の物語」の時にも思いましたが、男をこきおろし、女を立てるのは、映画業界における最近流行のマーケティングなんでしょうか?

 

基本的にはずっと続く、男対女の対立構図。人間の国(男の国)とムーア国(女の国)の諍いは、なんとなく昨今の都議会を想起させ、ああアメリカにも煮え湯を飲まされている女たちが…と、胸が痛みます。

私が見た映画館ではカップルで来ていたお客さんが多かったのですが、観賞後、女子のほうはホカホカと満面の笑みで帰ってゆくのに対し、男たちはというと、劇中でアホみたいに立ち尽くす王子同様、所在のなさがやばかった。なので、カップルで見るよりも女性2人で見に行き、サム・ライリー演じるカラスのかっこよさに萌えるのが吉。

 

もうね、なんと言ってもこの映画の見どころはカラスです。

映画自体はぶっちゃけ、設定と脚本が荒すぎていまいちのめり込めません。

マレフィセントと妖精たちと、国王の関係性があまりにも説明不足で矛盾しているように見える、とか、マレフィセントがオーロラに惹かれる理由がいまいち甘い、とか。

そう、この映画の根幹であるマレフィセントとオーロラ、2人の関係の描き方が荒くて、2人の絆は、実は他の人々では適わないほどに強固だったんだよ、だからあの結末なんだよ、という、見ている側を納得させるだけのエピソードがすっぽ抜けている。

マレフィセントはなぜオーロラの世話を焼くのか?…ストーリーを追うだけでは、結局、初見の時の赤ちゃんオーロラ姫があまりにも可愛くて母性をくすぐられたとか、そういう理由しか思い浮かばず、そうなると『結局、カワイイは正義!(ぴゃは☆)』みたいなしょーもない大前提に戻ってくる構図になり、この映画で伝えたかったメッセージ(他人にかけた呪いはいつか自分に返ってくるだとか、憎しみではなく愛の応酬でしか人は救われないとか、悪役にも実は愛があるんだよ…とか??)がかすんでしまうというか、怖モテのマレちゃんが頑張ってるその努力が無に帰してしまうというか(強い女が頑張るよりも、無知でかわゆい女の子のほうが結局いいでしょ☆みたいな)、映画自体の説得力が、薄くなってしまうわけです。

『かつて愛した男のむすめ 自分は母ではないけれど 守ってみせます命を懸けて』みたいなド演歌調も、薄幸顔のマレちゃんには似合わなくはないけれど、決してそういう感じでもなくて、男に対しては恨み100%やからねマレちゃん…。

 

というわけで、マレちゃんがオーロラ姫の面倒を見る根拠になるエピソードがいまいち描かれていないため、第三者から見ると後半のマレフィセントは「寂しさから赤子についついちょっかいを出す『イタイ女』」にしか見えない。結果、共感度が一気に下がり、主人公らしさがかなり終盤にならないと回復しない…というザンネンさ。もうちょっと丁寧に描いてくれたらいいのに。

 

…というですね!諸々の設定の甘さをですね!全部ぶっとばして「もうそんなことどうでもいい!」と思われてくれる、この映画の立役者No1が、サム・ライリー演じるカラス!!!!

もうね!この映画はカラスを見るために見る映画だと言っても過言ではありません!

ぶつぶつ言いながらも結局はマレちゃんの言う事はすべて叶え、女主人のツンデレを完璧に理解し、そして自身は主張もせずに黙々とついてゆく…。彼女の傷ついた心を、痛いほど理解しつつ、それでも余計な口をはさまずに最後まで彼女を支え続ける。

こんなイイ男、ディズニー史上いようか(反語)!

しかしマレちゃんは過去の男とその子どもに夢中。妖精の家に雨を降らしたりと、小規模な嫌がらせに熱中しています。なんかこういうOLいますよね。過去の因縁に囚われたばっかりに、視野が超狭くなっちゃって、結局、狭い範囲でしか自分の心を満たそうとせず、近くにある幸せに気づかない…っていう。「初恋のやりチン引きずるよりも、身近に一番理解してくれる、誠実な(しかもかっこいい)男がいることに気づいてマレちゃん!!」と思わずスクリーンに語りかけそうになってしまいました(余計なお世話)。

もうね、生身の男よりも、異形のカラスのほうがステキっていうのは、

「素敵な王子さまは要らないから、何でも言うこと聞いてくれる都合の良い家来が欲しいわ」

っていう、現代キャリアウーマンの願望の反映なんでしょうか。だとしたらよくやった、ディズニー!!

 

女子が映画で「見たいもの」は、この映画においては全部カラスが回収してくれます。私だってあんなカラスほしい!「従者萌え」という新しいジャンルに目覚めそうです。

 

というわけで女子の皆様は堂々と映画館にGo!とくに、過去にやりチンに煮え湯を飲まされた経験のある女子は、とてもスカっとすること間違いなし。

男子は……所在無さげに突っ立つ勇気があるなら、いいかもしれません。


日本酒と色気ー女子のための日本酒の手びき②


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日本酒って、えっちだよねー。

だって、透明でとろとろで、つやつや光るところなんて、女の愛液みたいだし、濁り酒なんて、そのまんま、男性のアレみたいなんだもん。

で、男と女が「日本酒を飲む」っていうのも、なんとなく、えっちなかんじがする。
誘い文句が「飲みに行きましょう」だとあんまり深い意味もなさそうだけど、「日本酒を飲みに行きましょう」って言われると、ぐっと親密な感じがする。
ビールグラスで乾杯しても、手と手が触れ合うことはめったにないけれど、小さなお猪口をかちあわせると、ギリギリ、指と指が触れ合うか触れ合わないかぐらい近づくんだ。

恋の始まりって、指だよねー。
直接触れなくても分かる、空を伝ってくる相手の体温とか、手の皮膚のやわらかさとか。
そういうののセンサーで、女の恋が始まるんだ。

あ、あと、ひや酒を頼んだ時に出てくる、枡入りの、なみなみと注がれたコップ酒。
あれをすすってる時の男の顔に、ドキドキしない女はいないね。

腰を丸めて、上目遣いで、唇でそっと、ふちに触れる。

「すする」っていう行為から想像されるコトって一個だけじゃない?

同じ角度なんだよね。対面から見ると。

と、いうわけで、日本酒を飲んでる男の人って、3割増にセクシーに見えるし、(それがたとえ新橋のガード下の居酒屋でも)
日本酒が、同じテンポで気持ちよく飲めたら、セックスもなんとなく合いそうな気がする。

あくまでも日本酒好きな女子の意見だけどねー。

 

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それはさておき、

SAKELIFEモニター二ヶ月目ですよ。

今回のお酒は、田村酒造場の『田むら-吟ぎんが-純米吟醸生酒』。

SAKELIFEさんのメルマガ曰く、
東京都の福生市にある酒蔵のもの。

しっとり濃厚で、花みたいな香りがするー。
それでいて、鼻から抜ける清涼感があって飲みやすい。
前回のお酒もすっきりして飲みやすかったけど、今回のはさらに輪をかけてすっきりしてるかも。
こうやって飲み比べできるのも、SAKELIFEの良いところですね。

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今回の舞台は石垣牛焼き肉パーティー。
肉との相性も最高!

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それにしても、東京の酒蔵なんて珍しいよね。
お酒といえば地方!のイメージだったけど、今度から東京の酒蔵も開拓してみようかな。
さて、次回はいよいよ三ヶ月目の最終回。どんなお酒が届くのやら。


酩酊せよ、とSAKELIFEは言った〜女子のための日本酒生活の手びき


私が初めて日本酒に出会ったのは、24歳の時の恋人と、付き合って初めてのデートだった。

「日本酒の美味いそば屋があるんだ」と、1歳年下の彼が切り出したのは、天から降って来た寒さがきんきんと地面に突き刺さるような、12月の暮れだった。
若干23歳の、大学を出たばかりのお金のない男の子が、日本酒のうまい店に行こうだなんて。絶対、誰かの受け売りに決まっている。

彼は、つい最近、5歳年上の彼女と別れたばかりだった。その元彼女が、美人であることも、日本酒関係の仕事をしていたことも、ソーシャルネットワーク・ストーキングによって事前にしっかり把握していた私は、彼が薦めてくれた店が、その女が残した恋愛における文化遺産である事を瞬時に察知し、嫉妬で硬くなった。

彼に連れられて入った新富町のその店は、きりりと知的に、白と黒を基調としてセンスよくまとめられており、子供が来てはいけない「しかるべき大人のための店」であることを扉の外にまで伝えていた。私はきっと、彼にこの店を教えたその年上の女も、この店と同じくらいにセンスがよく、知的な女性なのだろうと想像し、カウンターにつく彼の背後で、こっそりと唇をかんだ。

彼が何のためらいもなく「日本酒、何飲む?」と聞く。

知らん。我が人生において、これまでに名を知る酒はカルアミルクかカンパリソーダだけだ。それも、決して合コンで可愛こぶるためではない。ビールが苦手で酒にめっぽう弱いため、なんとかごまかしごまかし、JPOPの歌詞やらなんやらで聞いた事のあるものを、頼んでいるだけだ。

が、この店にはそんな無粋なものはない。ワインリストもない。 グラスワインというのは酒の名前を知らない無知な者のために用意されている、ということを、私はこの時初めて知った。

彼が薦めて来たのは「伯楽星」である。セイテンタイセイだかアベノセイメイだかなんでもいいけど(メガテン脳)、とにかく酔わなくて、苦くないものを飲みたい。もちろん梅酒だとか、ソフトドリンクだとかでごまかしても良いけれど、ここで日本酒を避ければ、5歳年上のその女に負けてしまう。そんな勝手な対抗心から、私はその杯を引き受けた。

一口、飲む。

私の世界に、透明で、とろけて、内臓のすべてを配置換えしてしまうような、甘美な悦びが舞い降りた。

その瞬間、私は前の彼女に、感謝していた。

ありがとうありがとう、こんな素晴らしい飲み物を、彼に仕込んでくれてありがとう

……元カノからの引き継ぎが上手くいった、希有な例である。

飲めない女子こそ日本酒を吞め

日本酒の良さというのは、まず、その名の思い切りの良さである。

ワインでは、こうはいかない。まず、名前が長い。仏文科出身のくせに、ブルゴーニュとディジョンの位置すらも何度聞いても覚えられない私には、ワインの長ったらしい名前は、それを趣味として楽しむに至るまでの、高すぎる難関である。

美味しい君の名前はなんていうの。聞いてもその高貴なる名前は、酩酊する頃には記憶の彼方である。

やるかたない。まるでシンデレラだ。12時を過ぎれば、酒気と共にどこかへ消えてしまう。アルコールなので、靴を残してくれるわけでもない。せっかく出会えた美味しいお酒なのに、次にその店に行く頃には、もう、その名はきれいさっぱりと忘れ去られている。

そこへ来て、日本酒は簡単でよい。

だいたい、名前が短い。小学3年生でも書ける漢字で構成されていたりする。

うんたら山だの、田なんとか、だの、ぜったいに覚えて帰れる気軽さ。

なにかを考えて飲むにも最適だが、なにも考えずに飲んでも最高である。

また「日本酒が好きです」というと、勝手に男性の中でイメージの底上げをしてくれるのもありがたい。

「ワイン好き」というと、まず、年下の男に敬遠される。

また、ビールを飲んで色っぽいのは檀れいぐらいだ。

その点日本酒は、なんとなくそのしっとりしたイメージから、落ち着いた大人の女だと、相手が勝手に認定してくれる。

以前「日本酒を飲む女性はやっぱり肌が綺麗な人が多いんですねぇ」と、とある男性にリップサービスで言われたが、んな訳ない。日本酒好きと言ったって毎日飲む訳ではない。

ともかく、日本酒好きというと、男子の中に眠る大和民族のDNAに火がつくのか、なんとなく高待遇してくれる(ような気がする)。

 

あと、ちびちび飲むものだというのも高ポイント。

私はめっぽう酒に弱いので、人と同じペースでビールをぐびぐび飲むと、すぐ、酔っぱらってしまう。

でも、舐めるように、日本酒を飲むと、度数は高いにも関わらず、心無しか、気持ちよくスローペースで酔えるような気がするのだ。

日本酒だと、ガバガバ飲んでいるほうが無粋な感じがするから、あんまり「飲め、飲め」って言われないのも大変に好都合。

あくまでも、日本酒びいきの偏見だけどもね。

 

……というわけで、あまり飲めない私にとって、日本酒は、楽しくコスパよく、カッコつけずにカッコがつき、ちょうど良い具合でほろ酔いできる、最高のパートナーなのだ。

 

SAKELIFEさんから酒が届いた

そんな訳で、いつのまにか日本酒ハンターとなった私だが、日本酒日本酒と騒ぎまくっていたら、今人気の日本酒定期宅配サービス 「SAKELIFE」さんに、ありがたいことにブログモニターにしていただいた。

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SAKELIFE。

直訳すると「酒生活」である。

要するに、日常の中で日本の古来からの伝統文化である日本酒を楽しみましょう、という、我々日本酒好きの生活を豊かに、潤してくれるサービスである。

毎月月末になると、老舗酒屋の25代目の髙橋正典さんが、その季節に合ったおすすめの一本を厳選し、そのお酒の背景を解説した、丁寧なメルマガ付きで送ってくれる。 それも、誰もが知っている有名銘柄ではなくて、隠れた銘酒を。

ほろ酔いコースは3000円で四号瓶、ぐい飲みコースは、5000円で一升瓶の日本酒が、毎月、送られてくる。

で、初月。

20140422-110850.jpg   (モデルは別の方でお送りしております)

3月末の、花見の季節に送られてきたのは、 「志太泉-吟醸」 というお酒だった。

作り手である静岡の蔵「志太泉酒造」は、一昨年、100回目の記念となる平成23酒造年度全国新酒鑑評会にて金賞を受賞したそうだ。

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うん。この思い切りのよいネーミングが、日本酒の良さだね。

さっそく、入居しているシェアオフィスの花見(雨のため屋内)で、いただきます!

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すっきりとしていて、飲みやすく、爽やか!かすかな辛みがきりっとして心地よい。

辛すぎるのも、苦すぎるのも苦手な私にはちょうど良いかも。 あっさりしているので、どんなおつまみにも合う。

ちょっと白ワインっぽいので、魚介類なんかいいんじゃないかなぁと思った。

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器スキー垂涎!隔月で酒器がついてくる

さらに「SAKELIFE」では、隔月で可愛い酒器までついてくる。各地を旅するごとに杯を買い集めている私にはたまらない。

器スキーにとっても垂涎のサービスである……!

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最初の月にもらえる、蛇の目のお猪口。

この底に青い2重丸の描かれた、ころんとした可愛らしい杯は、どこかで見た事があるな…と思ったら、 SAKELIFE広報の山口さんいわく、日本酒の「テイスティンググラス」の役割を果たしてきた、伝統的なお猪口だそう。

日本酒は、色の濃淡で、口当たりなど、ある程度判別できるようになっているのだが、 青と白の境目で日本酒の色を正確に判断出来るように、あの模様になっているそうだ。

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日本酒のとろんとした色味に青がゆらいで、とても綺麗。

また、今回は蛇の目のお猪口と一緒に、特別に9ヶ月目の細長い白い杯もいただいた。

こちらの酒器は、カネコ小兵製陶所が製造している、4種の一献盃のうちの一種類、ストレート型。

白くて透明感のある、美しい杯だ。 私は酒の味を邪魔しない、こういうのが好き。

「口径が小さいので、細長く直線的にお酒が口の中に入ってきます」とのこと。

丸い杯と、細長い杯を飲み比べてみると、確かに、味わいが全く違う。

細長い杯は、確かに、説明のとおり、スーッと口の奥に酒が流れ込んで来て、すばやく喉の奥に去ってゆく。

とにかく軽快。 もったり、ヌメヌメした喉に絡まる酒が嫌いな私は、こういうストレートな酒器のほうが良いみたい。

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「志太泉」、大人気で、マグカップでがぶ飲みする人もいたもんだから、あっという間に無くなってしまった。

今回初めてSAKELIFEを試してみたが、こういう、普段なら飲むことのない、酒屋さんでも見過ごしてしまいそうな隠れた名酒を知る機会ってなかなか無いから、日本酒好きにはとっても良いんじゃないかなぁ、と思う。

味を知っていて、どこにでもあるぶん、獺祭とか、すず音とか、とかく有名どころに走りがちなんだけど、こうして新しい蔵に出会えるのってとても貴重。

しかも、酒器の由来も知った上で飲み比べてみると、輪をかけて美味しい気がする。

定期宅配って何が来るか分からないから、委ねる部分が大きいんだけど、こんなに「委ね甲斐」のある商品も、なかなか無いんじゃないか、と。

来月も、届くのを楽しみに待とう。

(というわけで、次回に続く!)


セックスとコミュ力―映画「愛の渦」感想


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「愛の渦」を見た。

 

ポツドールの三浦さんが作った舞台の映画化ということで半年前から楽しみにしていて、やっと見た。

 

最初に言うべきことは、この映画は、セックスしたい人と見に行くべきだ、と言う事。

 

友達同士だと、社会性のカラをやぶれないまま、感想戦に突入してしまう恐れがある。

 

映画が終わった直後、明るくなった映画館の中で、サブカル女子っぽい女の子の2人連れがすぐさま大声で

「ってゆーか!超お腹すいたんですけどー!!」

「ほんとーてか映画館乾燥しすぎて喉やばい」

などと話しながら座席を立つのを見てそう思った。

 

不思議だ。映画館という匿名性の高い、それでいて親密な空間の中でさえも、

映画が終われば、すぐに人は、社会性の膜をかぶってしまう。

 

セックスと同じだ。

かなしいことに、人間はイってから1秒も経てば、早々に社会を取り戻してしまう生き物だ。

身体を覆う社会性の皮膜は、どんなに汗をかいたって、決して一緒に落ちてはくれない。ボディーソープでどんなに洗っても、洗い落とせない。

 

自分もまた同じだ、と映画館を出たあとに思った。

 

 

「コミュ力」ってなんだろう。

 

登場人物たちの中で、社会性を比較的、発揮していた人々には、最初から最後まで、「何も」起こらなかった。

 

あるのはただのセックスだった。

 

 

コミュ力がセックスを無効化したとも言えるかもしれない。

 

 

 

(彼らは、比較的社会性を発揮して、とりあえずセックスすることにはこぎつけるものの、でも、一番最初にセックスした相手は、本当に一番セックスしたい相手ではなくて、とりあえずの二番手だった。)

 

そんなもんから、遠く遠くに逃げようとしている人たちには、ディスコミュニケーションと言う名のコミュニケーションが起きた。

 

どっちがいいかは、分からない。社会性から遠い人たちが最終的には得をした映画かと言うとそうでないかもしれないし、

誰も何も変わってないと捉える事もできるかもしれない。

 

 

以前「ホムンクルス」の作者の山本英夫さんに連れて行ってもらって、数人でハプニングバーに行ったことがある。

そこにはたあっくさんの裸体に近い客がいて、みな、エロに興味があるような「ふるまい」をするのだけれど、本当に扇情的な人はごく一部だった。まるで、扇情的なふるまいによって社会的なアイデンティティを獲得しようとしているように思えた。

そんな人たちが、壁にスズメみたいに連なり、だっれも誰にも声をかけることなく、ただ時間が過ぎて行く。

最終的に、友達カップルのセックスをみんなで眺める形になったんだけど、女の子のほうの喘ぎ声もなんだか社会的で、その場が本気で楽しめない、ちょっと高いディズニーランドみたいな感じで、なんだか物悲しい感じがした。

単に、そこに乗り切れない自分の問題かもしれないけれど。

 

刺激は刺激でしかなくて、尖った針の先にある酩酊は、すぐに、ぽろりとくずれて落ちてしまう。

 

 

セックスって聖地だ。

 

たどり着いたら、何かがあるように思う。でも本当は何も無い。そこが聖地であるのは、個人がそこに、内的な意味づけをした時だけだ。

 

社会性のフェンスに囲まれた空の聖地の周りを、私たちは今日もぐるぐる回っている。

 

 

愛が無いのに「愛の渦」。

 

 

女優さんが途中で「ここ、スケベな人しかいない場所なんでしょ?」ってカメラに向かって言うシーン、

映画館の観客全員に向けて、

私に向けて、言われたみたいでどきっとした。


「2014年版・このボーイズラブ映画がやばい」暫定1位!韓国ヤクザ映画『新しき世界』の黒い熱量


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私は腐女子ではありません。

ええと、確かに中村明日美子先生や秀良子先生、雲田はるこ先生のBL漫画は新刊が出る度に即買いし舐め回すように堪能するほど敬愛&溺愛しておりますが、その程度のぬるいボーイズラブ好きで決して腐女子の諸先輩方に面向けできるほどの腐女子力は持ち合わせてはおりません。
ええ、確かに中学時代は夏冬そして春と足しげくビッグサイトに通いつめ、同人誌と称して周囲の友人らに自作の小冊子を配る等典型的な痛いオタを地で行っておりましたが(ちなみにジャンルは……遊戯王でした……。弁解はしません)、自意識の芽生えとともに自分と男子との色恋沙汰のほうへと興味の軸足が移り、自然と腐界からは足が遠のきました。
おかげで足を洗った今では、もう2度とリアルでも2次元においても男同士のかけ算に興じることなど無いはず…とすっかり油断しきっていたのですが、3週間前にとある映画をひとたび観て以来、数年間のブランクの長さにふらつきつつも、全速力で今、そちら側の世界に再び足をつっこもうとしています。引退したはずの腐女子ですらも全力でフィールドに突き落とす、そんな引力と魔力を持った映画、

その名は「新しき世界」。

私はすでにこの映画を毎週連続で3回観ています。最後に観た時、となりに座っていた美人のお姉さんは連れの女性2人に「もう4回目だ」と興奮気味に語っていました。連れの(一般人らしき)女性たちも明らかに昂り、うるんだ目と上気した頬…こんな例えはこの映画に対して失礼かもしれませんが…まるで上質な女性向けのAVを観た時のような、奇妙な充実感と興奮、欲望が子宮のあたりでずずと動かされるような、奇妙な情動…に満ち満ちた顔をしているのです。

そう、この映画の特徴は、20〜30代の女性のグループの観客が異様に多いこと。

血で血を洗う韓国マフィアの後継者争いを描いた、冷酷無比なバイオレンス映画であるにも関わらず、です。

なぜこの映画には女性客のハードリピーターが続出するのか?

それはこの映画が、韓国ヤクザモノという外皮に巧みにカモフラージュされた、しかし一枚めくれば熱く濃い男同士のかけ算の可能性が血液のごとくどろりと噴き出す「隠れボーイズラブ映画」だからに他なりません。そう、こちらのレビューで「ものすごいやおい」と評されている通り…。

 

犯罪組織「ゴールドムーン」に潜入操作中の警察官、イ・ジャソンは、会長の急死により突然の後継者争いに巻き込まれます。次期会長の座を狙うのは2人。ジャソンとは6年以上の付き合いであり、ジャソンが末端構成員として組織に潜り込んだ当初からツーカーで苦楽を共にして来た、兄貴分の韓国華僑のチョン・チョン。もう1人の後継者候補、イ・ジュング。その2人の骨肉の争いに、ジャソンの警察内での上司で「父」のような影響力を持つカン課長が介入し、ヤクザと警察、2つの非情な組織が双頭の蛇のごとく絡み合い、複雑に関係し合いながら物語は進みます。

前半は正直、あまりパッとしません。後半、物語のキーを握る人物たちの登場シーンも、地味に抑え気味に描かれます。貴乃花親方に似ているチョン・チョン、アリtoキリギリスの小さい方と形容されるイ・ジュング。小沢一郎となんとなくパーツがかぶるのはチャン・スギ理事。こちらのレビューで主人公ジャソンは「肌の綺麗な東野幸治」と評されていました。その通り、韓国ドラマにありがちないわゆる「美形」は一人も出てこない。「なんっか誰かに似てんな」そんな感想しか出てこない、地味めな男たちの会話劇で物語は進展します。萌え要素はゼロ。チョン・チョンにいたっては登場シーンのあまりに軽薄なチンピラぶりに、私は最初こう思いました。

「あー、こいつ、すぐ死ぬな」。

話はややこしい上に(初めて観た時、私は途中で寝ました)、登場人物たちの顔があまりに似すぎているため、誰が誰だか分かりません(囲碁の先生と奥さんを途中まで同一人物だと勘違いしていた人続出)。地味で暗いヤクザ映画。それが最初の印象でした。

しかし、しかしですよ!!!!!

物語中盤以降、この映画は大変貌を遂げるのです。

組織内の小競り合いだったはずのストーリーが、後半、一気の畳み掛けにより、ある一組のカップルコンビのある友情の物語にすべて回収されてしまう。地味なヤクザ映画から一変、「イイ顔」の男たちが乱舞する楽園へと…。まるで、前半の抑え目な演出は後半の大爆発のための前フリなのだと言わんばかりに。

 

気弱なジャソン、それに対し、いつも陽気で面倒見が良く、明るく励ますチョン・チョン。

どす黒いオーラと父の威厳でジャソンを支配するカン課長。

この映画の中で、ジャソンは揺れる存在です。忠誠を誓った組織を裏切るのか。義兄弟の絆を選択するのか。どちらに行ってもその選択は大事な誰かを裏切る事になる。

3角関係に苦悩するジャソンは、まるで2人の男キャラの間で揺れる少女マンガのヒロインです。気弱な東野幸治だったはずのジャソンが、さしずめキャンディ・キャンディ、もしくはエースを狙えの岡ひろみのように見えてくる。

同じく、明るく陽気なDQNだったはずのチョン・チョンが、主人公の重大な秘密を知り、彼との絆とヤクザの身分の間で引き裂かれ、葛藤する姿。その落差が、彼というキャラクターの魅力を際立たせます。

中盤、1番の盛り上がりを見せる倉庫でのシーン。あの場面でチョン・チョンは、ジャソンを試しているように見えます。

「仲間を助けるために、俺を殺すのか?今まで一緒に生死をかけて闘ってきた俺を?お前はどっちなんだ」

あのシーンでのチョン・チョンの過剰なまでの暴力は、信じてきたジャソンの裏切りに対する悲しみの噴出のように思えます。「今まで楽しくバカやってきたのは嘘だったのか?裏切らないで、行かないで、オレを一人にしないでくれよ、ブラザー…!」

組織にがんじがらめにされ、しぶい顔で後継者争いという「公」の問題に苦悶していた冷徹な男たちが、実は固いスーツの内側ではソレ以上に、信じていた相手との友情のゆらぎに苦しんでいる。それに萌えずして一体何に萌えろと言うのですか?!?!?!

クールな韓国マフィア映画だと思って観ていたら、後半突然始まる急激なBL展開。「ええっ、この映画実はそういう話だったの…!」という意外性。それはまるで、平坦な道を走ると思い乗り込んだトロッコ列車が、実は急降下するジェットコースターだったかのような衝撃です。その不意打ちでかかる巨大なマイナスのGに、自分でも忘れていた腐女子脳が、ガツンと揺さぶられてしまう。

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この映画が女性を徹底的に排除しているのは、主人公のジャソンこそが真のヒロインであるという監督からのメッセージに他なりません。

この映画の一番の見所はジャソンの変身シーンです。

運命に翻弄され、ええっ、あたしどうなっちゃうの、とオロオロするだけだったヒロインが最後、哀しみから立ち上がり、スーツ姿の怪人の群れを相手に、愛のために闘いはじめる。東野顔のイ・ジャソンは、韓国ノワール版・月野うさぎであり、鹿目まどかであり、プリンセス・チュチュである。

こんなにときめく話がありましょうか!!!!!!

しかし少女マンガと違ってこの映画では最後、誰も幸せになりません。残ったのは孤独な勝者です。

勝者はそっと自分の秘密を燃やします。まるで、この秘密だけが彼と自分をつなぐ、たった一つの絆であり、それは永遠に二人だけのものだと言わんばかりに。公私も、運命も、存在意義すらも、組織に支配された男たちにとって、あの輝かしい日々に生まれた友愛こそが、たった一つのサンクチュアリであり、命を賭すべき価値あるものでした。しかしそれを守るためには、彼は引き返せない覚悟をせねばならなかったのです。一生独りで生きるという覚悟を。小者たちが組織の覇権争いに明け暮れている間に、王者の孤独な魂は、真の伴侶とともにはるかなる高みへと昇って行ってしまったのです。ひっそりと、誰にも知られずに…。

最初、あんなにのっぺりとした地味顔だった男たちは、終盤、美しく豹変します。苦悩と葛藤と怒りにもまれ、絶望し、覚悟を決め、全てを飲み込むころには、それらすべてが深いホリとなって顔に刻まれ、仏師が魂を込めて彫ったような凄みと神聖さを伴ってスクリーンから3D映画のようにせり出してくる。ぴくりと1ミリ顔筋を動かしただけなのに、彼らの爆発しそうな感情が、こちらに伝わってくる。ギリギリにまで抑えた中にある、壮絶な色気。その表情が、惚れ惚れするほど美しい。

クールな韓国ヤクザ映画らしい凄みのある演出と、BL的超展開。そのギャップに揺さぶられ、最後の最後、あのキメ打ちのシーンで容赦なく深みに突き落とす。彼らの魅力に捕らえられてしまったが最後、韓国BLというねばっこいセメント缶に閉じ込められ、腐の海に転げ落とされる。もう抵抗は不可です。これほど暴力的に(腐)女子を翻弄する映画を、私は他に知りません。監督はどんだけ業が深いんだ。

3週間前にこの映画を見て以来、手を変え品を変え知り合いの男友達をひっぱっては劇場に向かい、見終わった後にいかにこの映画が萌えるかということを口から泡を飛ばして力説するのが毎週末のルーティーンです。本来ノンケの男性にボーイズのラブを語るのは御法度ですが、この映画に関しては、彼らは苦笑しつつもおおむね同意してくれます。男も納得すなるBL度の高さ!(と思っていたら、おもっくそ宇多丸さんがボーイズラブいうてはりますね

 

萌え萌えいうとりますが、この映画の素晴らしいところは、何層にも脚本と演出に織り込まれた、キャラクターたちの人物描写です。見返せば見返すほど、映画の隅々に仕込まれた細やかな演出から、各キャラの渋みと旨味がしみ出してきて、深い味わいになってくる。ああ、あそこであんなこと言ってる!あんなことやっちゃってる!と。つまらない前半部分を見返すほど、後半部分の重みが増し、新たな萌えが供給される。萌えの反復運動。

この映画は確かに、私に新しき世界を見せてくれました。こんな嘆美な世界が韓国ノワールの奥底に広がっているというのなら、喜んでその漆黒に身を染めてしまいたい。

これは毒かもしれません。しかし、毒が薬になることもある。この映画を観て以来、イ・ジャソン役のが登場するCMをWeb上で永遠に見続けています。だって、笑顔が!映画の中では劇薬的な扱いの、彼のとろけるような笑顔がyou tubeでは見放題なんだもの!!

分かりやすいイケメンがいないため、萌えを受け取る側の練熟度が試されること、また激しい暴力映画であるという2重のハードルさえ超えられれば、そこには新たな萌えの境地が待っています。

さあ、みなさん、強くなれ、強くなって、その2つのハードルを超えてきてください。

それがお前の生きる道だ。プロジェクト名はもちろん“新世界”。

それでは(偉大なる腐女子の先輩に敬意を払いつつ)アンニョン。

 

追伸:韓国ではオンリーイベントまで開かれてるじゃないですか。なにそれ韓国ってBLのブルーオーシャンなのちょっとコリアンエアのチケット買ってくるわ

参考:

「新しき世界」無い袖はノースリーブ


“フツーの人”のための創作入門ー大塚英志「ストーリーメーカー 創作のための物語論」(星海社新書)


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大塚英志「ストーリーメーカー 創作のための物語論」(星海社新書)を読む。

 

あらゆる物語の大筋は今も昔も一つだけであり、その中の定番の31の要素を取捨選択し、並び替えるだけで、誰でも簡単にストーリーが書ける、という、彼なりの物語論だ。

私が今、書いているのはノンフィクションだけど、本の概要であるプロットを書くのに多いに参考になった。

 

創作をひとつの型に閉じ込めてしまうこと、類型化してしまうのは自由な創作の可能性を奪うのではないか、という批判もあるようだが、私は大塚さんの考え方を支持する。

物語を書く事を特別視してしまったり、神聖視することで何も書けなくなっている人には良い薬だと思う。

 

名作と呼ばれる作品をこれまで多く読んできたせいで、「ものを書く」ということは、とても特別で簡単にできることではない、と思っていた。

でも実際は、そうではなかった。

自分の中でものを書くということを神聖化しすぎ、

その結果、自分自身も神聖化していたんだな、と思う。

 

何かの行為を神聖化しすぎると、それはできなくなる。

童貞の男の子が、セックスしたい、恋愛したいと思っているのにそれができないのは、セックスを神聖化しすぎているせいだ。

頭の中では非童貞よりもセックスに近い位置にいるのに、神聖化しすぎているから、決してたどり着けない。

 

何かをできるようになるということは、それを神聖化しなくなるプロセスなのだなと思う。

さみしいことでもあるけれど、

筋肉に力を込めれば動くように、自分の道具として使えるようになること。

皮膚の下のものにすること、肉体化すること、自分ごと化するプロセスなんだと思う。

 

最近、自分がいかに普通の人間であるか、ということを良く考えさせられる。

「どこにもないものを書こう」と思うから、書けなくなる。

それよりも、太古の昔から、人が連綿と書きつづけていることを、現代のうわずみにうまく沿う形で書いてあげよう。普通のことを書こう。

そう思うと、また別のものが浮かび上がってくるように思う。

 

村上春樹の小説の登場人物はみんな普通の人だ。

作者も、普通の人じゃないと書けない物語だと思う。

村上春樹はちゃんとそれを知っている。

知っていて、掴んでいる。

それが彼の強さだと思う。

 

世の中の普通の人が、ごく普通に行ってきた行為、昔から延々と受け継がれてきたことを語り直すことなのだと思えば、

物語を書く事が、さほど難しいことでないように思えてくる。

 

思えるのと、実際に行為に移すことはまた別だが、そう、強い説得力を持って感じさせられるという意味で、秀逸な一冊。

 


「恋の渦」と「モテキ」がヒットする理由:楽ちん共感バブルの成れの果て(映画レビュー)


恋の渦

大根仁さん監督の「恋の渦」を見た。

 

すごく不快な映画だった。

でもその不快さで、観客をズブズブに取り込む映画だった。

 

大根仁監督といえば「モテキ」の監督である。私はモテキがたいそう嫌いで、登場人物たちの全員が全員、自分の事しか考えていないエゴイスティックさに気分が悪くなり「見なきゃよかった」と思ったのだけど、あとあと考えてみれば現実的に私たちのほとんどは人生を通してだいたい自分のことしか考えていないし、あの映画の登場人物のように自分と誰かのドラマを勝手に作り出して溺れているだけだし、その、他の映画で美しく描かれているものを、大根監督はめちゃんこリアルに汚く描いただけで、

あの映画の登場人物たちの不快さはそのまま自分との同族嫌悪なのだなと思うに至ったわけで。

 

「モテキ」は、他者と自分との間にドラマを作らずには生きていけない登場人物たちの愚かさと、それぞれのドラマの噛み合なさが面白いところだと思うけれど、今回の「恋の渦」が前作と異なる点は、「モテキ」が彼らの個々の関係の間に起きるスケールの小さな出来事を壮大なドラマへと膨らませて描いていたのに比べ、「恋の渦」は、登場人物もドラマの規模も、わざとしょぼくして徹底的にスケールダウンさせ、露悪さをウリにしている点にある。

 

登場人物たちは全員DQNだし、出会い系のサクラや日雇いなどで生計を立てている身だし、頭も悪い。

男も女も、他者に対して全く、余裕がない。

自己顕示と他者批判に暇が無く、自分を守るのに必死。

 

そんな彼らがとても小さなスケールで恋愛ドラマを繰り広げる。

 

二股、浮気、共依存、DV、腐れ縁、好きでもない相手と付き合う、馴れ合い、etcetc。

 

「恋の渦」は、私たちがよく恋愛に対して抱きがちな夢を、あえてデチューンした矮小なドラマのオンパレードだが、

そのDQNたちのドラマを、私は笑う事ができない。

なぜなら、自分の恋愛も、彼らとまるで変わらないということに気づかされるからだ。

 

登場人物たちの暮らす、4つの部屋で繰り広げられる男女9人の恋物語。

部屋を入れ替えたとしても映画の進行に全く不都合のなさそうな無個性な部屋、キャラクターが立っているようで立っていない登場人物、服、言葉遣い。

相手を変え場所を変え、彼らが結んでは切り離す人間関係の上に浮かび上がるのは、「チェンジしてもらっていい?」の一言に象徴される、他者の交換可能性だ。

いくらでもチェンジブルな世界の中で、彼らは叫ぶ。「俺はあいつとは違うの」と。その大合唱によってそれぞれの部屋は等号で結ばれている。

女子はと言えばもっとニッチで、その大差ない男子の「俺のこと分かってよ」を受け止める事で自分のアイデンティティを確立している。

 

だいたい自分が経験したことのある関係性ばかりだ。

 

スクリーンで繰り広げられる人間模様のレベルの低さに最初、眉をひそめていた観客たちは、しょぼさを際立たせて描かれた、彼らの恋愛が、普段自分が現実で演じている恋愛の模様と何一つ違わないことにはたと気づき、は青ざめる、という仕掛け。

大根仁の自主制作映画を見に来るのなんてたいがい高学歴で自意識こじらせまくった人々だろうから、劇場に足を運んだ時点で彼らはその罠にからめとられている。

奇しくも、誘われて一緒に見に行ったのが、大学時代にすごく冴えない恋愛関係になった相手だったので、なおさら自分の経験のしょぼさが思い起こされて、もうソッコー映画観た後帰ったもん。帰って仕事した。こんなしょぼい恋愛もうしないぞっていう一念で。

(ラブラブな相手だったら、なおさらきつかっただろうなと思うので、それだけが救いだったけど)

 

それぐらい「自分がこれまでやってたことを突きつけられる」というのは不快なのだ。

その鮮やかな手法を想いっきり発揮した大根仁監督の才能に「すごいなあ!」と敬服はするけれど、ただ、作品を好きになれるかと言ったら、そうではない。

 

 

この映画に観客が感じるのは、「いかに登場人物と自分が近いのか」という距離の無さへの驚きと、

随所の「あるあるネタ」にうん、うん、とうなづく快感、

つまり、ずぶずぶの共感オンリーである。

 

あるあるネタがちりばめられた世界、あるあるネタしかない世界。

この映画には、いわゆるドラマ(矮小化されたドラマではなくて、知らない世界という意味のドラマ)も、主となるストーリーも、ない。

 

世のすべての物語が、共感と刺激、その二つの配合で成り立っているとしたら、この映画は100%共感で成り立っている。

 

この映画にはこれまでの映画のように、めくるめくストーリーは広がっていない。魅力的な登場人物もいない。

ストーリーの中でふと自分を重ね合わせられる部分があるとか、自分を重ねて見ていたはずの主人公が、思いもよらない行動を取る事で物語が大きく展開し、驚かされたり、感情を大きく揺さぶられたり、そういう「ずらし」要素がいっさい排除された、ストーリーらしきストーリーが全くない映画だ。

 

観客を刺激し、こちら側に来いと手招きする映画ではない。

簡単に言うと「気づき」のある映画ではない。

 

この映画しかり、モテキしかり、大根仁さんの映画は「共感」のみで成り立っている。

共感の形はみな同じだ。一つのテンガをずっと使い続けるのと同じ刺激だ。

だからこそヒットする。

 

登場人物たちが、互いに馴れ合いを装いながら、互いを馬鹿にし合っているように、この映画はスクリーンの中と外の馴れ合いを引き起こす。

馬鹿も小利口もみんな、お前も含めて全員こっち側だよというメッセージを発し続けている。

「ああ私と一緒」で終わってしまう感じ、

ちょうど、自意識をこじらせた男女が「あなたも私もこじらせ系」と安心してしまうような感じ。

本当は不快なんだけど、共感できることで、まあよし、とする、みたいな。

 

いいね!ボタンを押すように、随所のあるあるに共感し、自分を重ね、重ねた相手は最後、全く裏切る事のない行動を取り、予想外の展開などいっさい見せずに終わってゆく。

 

スクリーンの中で、新しい事は何一つ起こらない、最後のどんでん返しですら、登場人物自身によって無かった事にされ、日常はもとの繰り返しに収束してゆく。

私たちはこれと全く同じ物語を知っている。

 

自分の人生である。

人生はパターンの繰り返しだ。

彼らの演じた群像劇は、私たちが人生で24時間365日繰り返しているワンパターンの一部を大きく引き延ばしにしてスクリーンに貼付けただけだ。

私たちはあーだこうだいいながら、同じ繰り返しの物語を生きてゆくし、予想外のことは起こらない。過去の焼き直しを繰り返してゆく。

登場人物たちが飽きもせず同じ事を繰り返すように。

何回でも何回でも繰り返す、止まらない渦のように。

渦の中で私たちは刺激もなく、大転換もない自分の人生を生きている。

あのスクリーンの中で物語が展開した4部屋の中にもう一つ、自分の部屋を付け加えても、違和感がまるでない。

たとえあなたが高学歴、高所得で、彼らのそれとはかけ離れた生活をしていたとしても。

 

差異の無い繰り返しとそれに対する共感。

 

私たちはもう共感オンリーで物語を消費できる。新しい刺激はいらない。ストーリーの主軸も要らない。

登場人物たちの、支離滅裂な喚きと嗚咽と、つじつまの合わない罵り言葉と同じように、中身も論理的正当性も客観性も社会性も要らない。

社会的に正しいかどうか分からなくても、何を言っているのかわからなくても、共感さえできればいい。

 

いいね!を押して、RTできればいい。

 

なんとなく、脊髄反射でバカなことをした人を一斉に叩いたり、なんとなくノリと流れでよくわからない活動に金が集まったり、

イキオイの向かうままに、その場でなんとなく乗れそうなものにフリーライドすればいい。

 

この映画は「共感天国」にプカプカ浮かんで、それを消費するだけで生きていけるようになってしまった私たちの姿を浮き彫りにする。

「モテキ」を更にバージョンアップさせた、今の共感バブルに非常にうまいことマッチした映画だと思う。

 

私にはそれが、なんとなく、危険な事のように感じられる。

たぶん日本が次に戦争に向かうときに一番動員に使われる道具は「共感」だと思うし、

国民中が一つの感動に統合されるオリンピックはその前実験のような気がする。

 

コピー&ペーストに、とにかく共感し、共感し、共感し尽くすだけで生きていけること、それはそれで幸せなことだと思う。

ちょうどこの映画の中で、一過性の感情の高ぶり以外の、本当に悲しい涙を流す登場人物は、一人もいなかったのと同じように、

共感のみで成り立つ世界は、苦しさも摩擦も違いによって生まれる悲しさも、感じなくて済むからだ。

 

別に私はその世界に混ざりたくはないが。


ドトールと許し


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京都なのに、ドトールにいる。

ドトールが好きだ。

ドトールには何もない。

代々木八幡のドトールに一ヶ月前に入った新人のバイトのお姉さんは、未だに新商品の「スパイスショコラ」を「スパイシーショコラ」と間違えて覚えている。誰も教えてあげないのだろうか。お姉さんの目は、いつも焦点が合っていない。

右となりで格闘技やってそうなおっさんが、ニートで引きこもりらしい男の子に生活指導している。親子ではない。引きこもりの男の子は、輝いた目でハキハキと返事をしているけれど、よく聞くと全く会話が噛み合っていない。精神が危ない人特有のギラギラとした目。目の前で男の子を鼓舞する男の人はそのことを全く意に介していない。

従業員、お客さん、店内のすべてにおいてのコミュニケーションの成り立ってなさがドトールの良いところだ。

代々木八幡のドトールはいつも人で溢れている。

ニートみたいな人、営業のサラリーマン。フリーランスっぽい人。

左となりのおじさんが日記を書いていたのでふと見ると「仕事がない。死にたい。」と書いてあった。毎ページ同じことが書いてある。大変だ。
この死にたいと書き続けているおじさんが、横でなくて、私の目の前のイスに座っていたとしたら、ドトールなんかに居ないで散歩しにいきましょうと言うだろう。ドトールにいたら、死にたくもなる。

 

ドトールには毎日、だいたい同じような人がいて、私もたぶん他の人からそう思われている。

渋谷のドトール本店にはいつだって風俗嬢とネットワークビジネスの人と宗教の勧誘がいるし、霞が関のドトールにはやる気のなさそうな国家公務員がちゃんといる。

そのことにいつもほっとする。お洒落なお店にはこのほっとする感じがない。

ドトールにはなにもない。

 

取材だの打ち合せだの、交流会だのイベントだので、たくさんの人に触れていると自分の輪郭が二重、三重にぼやけて、わけがわからなくなる。

それがドトールに来ると瞬時に戻る。
何にも触れない無関心が、私を裏返して、からっぽにしてくれる。ぐちゃぐちゃになった輪郭を、束ねてもとに戻してくれる。

 

大好きなマンガの一つに、「ちひろ」という風俗嬢を主人公にした漫画がある。

ちひろは空洞だ。性と欲のつまった世界で、誰にも依存せず触れ合わず、自分の中をからっぽにして、他人をただ、眺める。

ドトールのような徹底的な無関心。誰もを許すけど、誰もをその中に留めておかない。

でもその空の中に自分がある。今まで何かがぱんぱんにつまった、その自分をひっくり返して中身を出したら空だった、そういう思い切ったものがある。ぱんぱんにつまった外の世界。それをいろんな人がドトールという空洞に持ち込み、またそれを抱えたまま、去ってゆく。何もしなくていい。何もその空間に残さなくていい。

 

柔らかくてかさかさした、触り心地のまったくない、セロテープにマジックで書かれた許しのようなもの、それがドトールだなと思う。

 

 


ブックレビュー:朝井リョウ『何者』―他人のことをどうでもいいと思えない私たち 


朝井リョウさんの『何者』を読む。

この人いじわるだ。SNSばっかりやってる私たち全員が、うっすら感じつつ、でも言葉にせずにやり過ごしている事を突きつけるから。

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男という“弱さ”ー奥谷まゆみ・長谷川淨潤「男本」


先週、以前からお会いしたかった整体師・奥谷まゆみさんの整体を受けに行った。

 

私は彼女の本が大好きだ。

女性の身体のことを知るのに、これ以上のよいガイドブックはないと思うほど、親切に丁寧に、分かりやすく、そして誰もが読みやすいテンションで書かれているし、その根本にある思想−「悪い身体なんて無い。どんな身体もかならず活かす道がある」という考え方にも、いたく救われる。

整体というと科学的な観点を重視する人にとっては、非論理的に聞こえるものなのかもしれないけれど、日常の中で感じる身体感覚がどこから来るのか、人がつい取ってしまう行動の「なぜ?」を知るために読むと、否応なしに身体レベルで納得させられるので、面白い。
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レビュー:映画「チェルノブイリ・ハート」


映画「チェルノブイリ・ハート」を見た。
きつかった。
「10万年後の安全」よりも10倍くらいきつい。
なぜかというと、これがホラー映画でもパニック映画でもなく、
本物の、今、この瞬間に、同じ地球上のベラルーシで起こっている事を写したドキュメンタリーで、
しかも、25年後の福島に、確実に起きるであろうことだからだ。
「ハイ、あなたたちの未来はこんなかんじですよ」って、
こんなにも恐ろしい、血肉色した鮮やかすぎる未来を目の前に突きつけられて、
平気でいられる人がどれだけいるんだろう。
このドキュメンタリーは、国土の97%が放射能汚染地域であるベラルーシで、放射能被害にあった子供たちの様子を写したもの。
なので、映画の舞台はほぼすべて、病院である。
監督は、甲状腺ガンの治療現場から始まり、精神病院や小児病棟を次々と回ってゆく。
私は、放射能が引き起こす病気は、甲状腺ガンと白血病くらいしか知らなかった。
けれど、その認識がずぶずぶに甘いことを、この映画で思い知らされた。
原発から80km圏内で、事故後に生まれた子どもの多くが、先天的に脳性麻痺や脊髄損傷、水頭症、悪性腫瘍を患っている。
悪性腫瘍で、自分の身体と同じくらいに、ぱんぱんに膨れあがったお腹をひきずって歩く子ども、
足と手が壊死して、薬を塗ると痛みで泣き叫ぶ子ども、
水頭症で、あたまなのか顔なのか分からないほど頭部が膨らんだ子ども、
生まれた時から発育障害で、4歳なのに4ヶ月の赤ちゃんくらいの体躯しかない子ども。
そんな子供たちで、施設はあふれている。
変形し、皮膚の色が変わった患部が、舐めるようになんどもなんどもスクリーンに大写しにされる。
その度に、自分の認識の甘さを思い知らされる。
それだけでは終わらない。
一番ショックな事実を突きつけるためか、作中になんどもなんども登場するのは、
「遺棄児童院」
つまり、障害を抱えて生まれ、親が治療費を払えずに捨てられた子供たちの集まる施設が、チェルノブイリ近郊にはいくつもあるのだ。
そりゃそうだよ、事故のせいで住んでいた家と仕事を失って、
生まれてきた子どもは月に何百ドルとかかる重度の障害を抱え、治る見込みも国の補助もなく、月収100ドル以下で、
それでも育て続けるなんて、誰が可能だと思う?
親のせいじゃない。これは、国が生んだ捨て子だ。
生まれる前から、国によって、原発によって未来を破棄された子ども。
これが、25年後のフクシマに起こりえないなんて、誰が言えるだろう。
施設の人の、
「この子の親は見つかっていません。治療法もありません。
この子の未来は誰にも分かりません。」
という言葉が突き刺さる。
さらにショッキングな事実は続く。
原発から80kmのゴメリ市の産院での、健常児の出生率は15%〜20%
これ聞いたとき、数字が逆なのかと思った。
てっきり翻訳ミスかと。
そうじゃなかった。
障害児の出生率が15%〜20% ではなく。
健常児の出生率が15%〜20%。
信じられる?
多くの子どもは水頭症、脳性麻痺など先天性の障害を持って生まれてくる。
アメリカでは、水頭症の乳児は生まれた時に注射器で水を抜いてもらえるけれど、ここはベラルーシ。医者の月収が100ドル以下の国で、そんな高額の手術をほぼ全員の水頭症児に施すなんて不可能だ。
原発から80km圏内って言ったら、フクシマでいうとこんな感じ(googleMAP)
北茨城やいわきももちろん、宮城の白石、那須塩原や会津若松ももう少しで届きそう。
この範囲の産院で、健常児の出生率がたったの15%。
ベラルーシで起きていることが、こんなにも克明に分かっているにも関わらず、
なんで国のトップは、フクシマの子供たちを避難させないんだろう?
何が起こるか分からないから、じゃなく
何が起こるか、こんなにも、こんなにも鮮明に分かっているのに、
なんで、なんでほっとくの?
見えてるじゃん、もう見えてるじゃん。
この映像は、CGでも、ホラー映画の特殊メイクでもなんでもないよ。
アメリカの、映像技術を駆使したバーチャル・リアリティーでもないよ。
精神病院に詰め込まれた子どもとか、頭なのか顔なのかもうよくわかんなくなってる水頭症児とか、足が枯れ木みたいになった、ぼろぼろの子どもとか、
こんなにリアルに見えてるのに、なんでそれでも安心だとか、言えるわけ?
第一・第二原発から、広島原爆の136個分のセシウムが放出されたって発表しときながら、なんでそれでも
「チェルノブイリとフクシマは違う」って言えるの?
今、フクシマにいる子供たちと、これから生まれてくる子供たちの未来がわかっていて、なんでそれでも避難させずに東電を救済するのか、わからないよ。
今、東電ではなくて、フクシマの子供たちと若者を避難させるほうが、国の生存戦略上有効だって、なんで政府の偉い人達がわからないのかも、全く理解出来ないよ。
もしこのまま、避難措置も取らず、十分な補償もせずに、原発から80km圏内の人たちをほったらかしにしたとしたら、
きっと、25年後、これと同じ映像を撮りに、各国からフクシマに取材クルーが押し寄せるだろう。
きっとその時、彼らは思うはずだ。
「今から25年前にも、これと同じ映像を撮ったフィルムがあったのに、なんで日本は学ばなかったんだ?」って。
そうなってしまいそうな事が、私は悲しい。
このフィルムの中の映像と地続きの現実は、もう始まってる。
今の放射線量が◯ミリシーベルトとか、セシウムが☓ベクレル検出されたとか、
まったくリアルでない、数字の情報ばかりが流れてきて、
どれが本当の情報かも分からず、ぼうっとtwitterとネットニュースを眺めている今、
遠く離れた国の映像なのに、
何年も先の未来予測でしかないはずのに、
一番リアルな、フクシマに関する情報だと、私は思う。
明日は水曜でレディースデーだし、あさっては1日で映画の日なので、
何見ようかと迷っている方はぜひ見てください。
1時間でサックリ見れます。でも、ショックはずっと続きます。
ショックどころかこの現実は25年後まで続きます。
それが分かってしまう、本当に苦しい、でも、“分からせてくれる”映画です。
こちらも合わせてどうぞ:レビュー:映画「10万年後の安全」

参考:ベラルーシの若者・児童の、甲状腺ガンについての報告