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セックスとコミュ力―映画「愛の渦」感想

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「愛の渦」を見た。

 

ポツドールの三浦さんが作った舞台の映画化ということで半年前から楽しみにしていて、やっと見た。

 

最初に言うべきことは、この映画は、セックスしたい人と見に行くべきだ、と言う事。

 

友達同士だと、社会性のカラをやぶれないまま、感想戦に突入してしまう恐れがある。

 

映画が終わった直後、明るくなった映画館の中で、サブカル女子っぽい女の子の2人連れがすぐさま大声で

「ってゆーか!超お腹すいたんですけどー!!」

「ほんとーてか映画館乾燥しすぎて喉やばい」

などと話しながら座席を立つのを見てそう思った。

 

不思議だ。映画館という匿名性の高い、それでいて親密な空間の中でさえも、

映画が終われば、すぐに人は、社会性の膜をかぶってしまう。

 

セックスと同じだ。

かなしいことに、人間はイってから1秒も経てば、早々に社会を取り戻してしまう生き物だ。

身体を覆う社会性の皮膜は、どんなに汗をかいたって、決して一緒に落ちてはくれない。ボディーソープでどんなに洗っても、洗い落とせない。

 

自分もまた同じだ、と映画館を出たあとに思った。

 

 

「コミュ力」ってなんだろう。

 

登場人物たちの中で、社会性を比較的、発揮していた人々には、最初から最後まで、「何も」起こらなかった。

 

あるのはただのセックスだった。

 

 

コミュ力がセックスを無効化したとも言えるかもしれない。

 

 

 

(彼らは、比較的社会性を発揮して、とりあえずセックスすることにはこぎつけるものの、でも、一番最初にセックスした相手は、本当に一番セックスしたい相手ではなくて、とりあえずの二番手だった。)

 

そんなもんから、遠く遠くに逃げようとしている人たちには、ディスコミュニケーションと言う名のコミュニケーションが起きた。

 

どっちがいいかは、分からない。社会性から遠い人たちが最終的には得をした映画かと言うとそうでないかもしれないし、

誰も何も変わってないと捉える事もできるかもしれない。

 

 

以前「ホムンクルス」の作者の山本英夫さんに連れて行ってもらって、数人でハプニングバーに行ったことがある。

そこにはたあっくさんの裸体に近い客がいて、みな、エロに興味があるような「ふるまい」をするのだけれど、本当に扇情的な人はごく一部だった。まるで、扇情的なふるまいによって社会的なアイデンティティを獲得しようとしているように思えた。

そんな人たちが、壁にスズメみたいに連なり、だっれも誰にも声をかけることなく、ただ時間が過ぎて行く。

最終的に、友達カップルのセックスをみんなで眺める形になったんだけど、女の子のほうの喘ぎ声もなんだか社会的で、その場が本気で楽しめない、ちょっと高いディズニーランドみたいな感じで、なんだか物悲しい感じがした。

単に、そこに乗り切れない自分の問題かもしれないけれど。

 

刺激は刺激でしかなくて、尖った針の先にある酩酊は、すぐに、ぽろりとくずれて落ちてしまう。

 

 

セックスって聖地だ。

 

たどり着いたら、何かがあるように思う。でも本当は何も無い。そこが聖地であるのは、個人がそこに、内的な意味づけをした時だけだ。

 

社会性のフェンスに囲まれた空の聖地の周りを、私たちは今日もぐるぐる回っている。

 

 

愛が無いのに「愛の渦」。

 

 

女優さんが途中で「ここ、スケベな人しかいない場所なんでしょ?」ってカメラに向かって言うシーン、

映画館の観客全員に向けて、

私に向けて、言われたみたいでどきっとした。

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“フツーの人”のための創作入門ー大塚英志「ストーリーメーカー 創作のための物語論」(星海社新書)

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大塚英志「ストーリーメーカー 創作のための物語論」(星海社新書)を読む。

 

あらゆる物語の大筋は今も昔も一つだけであり、その中の定番の31の要素を取捨選択し、並び替えるだけで、誰でも簡単にストーリーが書ける、という、彼なりの物語論だ。

私が今、書いているのはノンフィクションだけど、本の概要であるプロットを書くのに多いに参考になった。

 

創作をひとつの型に閉じ込めてしまうこと、類型化してしまうのは自由な創作の可能性を奪うのではないか、という批判もあるようだが、私は大塚さんの考え方を支持する。

物語を書く事を特別視してしまったり、神聖視することで何も書けなくなっている人には良い薬だと思う。

 

名作と呼ばれる作品をこれまで多く読んできたせいで、「ものを書く」ということは、とても特別で簡単にできることではない、と思っていた。

でも実際は、そうではなかった。

自分の中でものを書くということを神聖化しすぎ、

その結果、自分自身も神聖化していたんだな、と思う。

 

何かの行為を神聖化しすぎると、それはできなくなる。

童貞の男の子が、セックスしたい、恋愛したいと思っているのにそれができないのは、セックスを神聖化しすぎているせいだ。

頭の中では非童貞よりもセックスに近い位置にいるのに、神聖化しすぎているから、決してたどり着けない。

 

何かをできるようになるということは、それを神聖化しなくなるプロセスなのだなと思う。

さみしいことでもあるけれど、

筋肉に力を込めれば動くように、自分の道具として使えるようになること。

皮膚の下のものにすること、肉体化すること、自分ごと化するプロセスなんだと思う。

 

最近、自分がいかに普通の人間であるか、ということを良く考えさせられる。

「どこにもないものを書こう」と思うから、書けなくなる。

それよりも、太古の昔から、人が連綿と書きつづけていることを、現代のうわずみにうまく沿う形で書いてあげよう。普通のことを書こう。

そう思うと、また別のものが浮かび上がってくるように思う。

 

村上春樹の小説の登場人物はみんな普通の人だ。

作者も、普通の人じゃないと書けない物語だと思う。

村上春樹はちゃんとそれを知っている。

知っていて、掴んでいる。

それが彼の強さだと思う。

 

世の中の普通の人が、ごく普通に行ってきた行為、昔から延々と受け継がれてきたことを語り直すことなのだと思えば、

物語を書く事が、さほど難しいことでないように思えてくる。

 

思えるのと、実際に行為に移すことはまた別だが、そう、強い説得力を持って感じさせられるという意味で、秀逸な一冊。

 

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ドトールと許し

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京都なのに、ドトールにいる。

ドトールが好きだ。

ドトールには何もない。

代々木八幡のドトールに一ヶ月前に入った新人のバイトのお姉さんは、未だに新商品の「スパイスショコラ」を「スパイシーショコラ」と間違えて覚えている。誰も教えてあげないのだろうか。お姉さんの目は、いつも焦点が合っていない。

右となりで格闘技やってそうなおっさんが、ニートで引きこもりらしい男の子に生活指導している。親子ではない。引きこもりの男の子は、輝いた目でハキハキと返事をしているけれど、よく聞くと全く会話が噛み合っていない。精神が危ない人特有のギラギラとした目。目の前で男の子を鼓舞する男の人はそのことを全く意に介していない。

従業員、お客さん、店内のすべてにおいてのコミュニケーションの成り立ってなさがドトールの良いところだ。

代々木八幡のドトールはいつも人で溢れている。

ニートみたいな人、営業のサラリーマン。フリーランスっぽい人。

左となりのおじさんが日記を書いていたのでふと見ると「仕事がない。死にたい。」と書いてあった。毎ページ同じことが書いてある。大変だ。
この死にたいと書き続けているおじさんが、横でなくて、私の目の前のイスに座っていたとしたら、ドトールなんかに居ないで散歩しにいきましょうと言うだろう。ドトールにいたら、死にたくもなる。

 

ドトールには毎日、だいたい同じような人がいて、私もたぶん他の人からそう思われている。

渋谷のドトール本店にはいつだって風俗嬢とネットワークビジネスの人と宗教の勧誘がいるし、霞が関のドトールにはやる気のなさそうな国家公務員がちゃんといる。

そのことにいつもほっとする。お洒落なお店にはこのほっとする感じがない。

ドトールにはなにもない。

 

取材だの打ち合せだの、交流会だのイベントだので、たくさんの人に触れていると自分の輪郭が二重、三重にぼやけて、わけがわからなくなる。

それがドトールに来ると瞬時に戻る。
何にも触れない無関心が、私を裏返して、からっぽにしてくれる。ぐちゃぐちゃになった輪郭を、束ねてもとに戻してくれる。

 

大好きなマンガの一つに、「ちひろ」という風俗嬢を主人公にした漫画がある。

ちひろは空洞だ。性と欲のつまった世界で、誰にも依存せず触れ合わず、自分の中をからっぽにして、他人をただ、眺める。

ドトールのような徹底的な無関心。誰もを許すけど、誰もをその中に留めておかない。

でもその空の中に自分がある。今まで何かがぱんぱんにつまった、その自分をひっくり返して中身を出したら空だった、そういう思い切ったものがある。ぱんぱんにつまった外の世界。それをいろんな人がドトールという空洞に持ち込み、またそれを抱えたまま、去ってゆく。何もしなくていい。何もその空間に残さなくていい。

 

柔らかくてかさかさした、触り心地のまったくない、セロテープにマジックで書かれた許しのようなもの、それがドトールだなと思う。

 

 

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ブックレビュー:朝井リョウ『何者』―他人のことをどうでもいいと思えない私たち 

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朝井リョウさんの『何者』を読む。

この人いじわるだ。SNSばっかりやってる私たち全員が、うっすら感じつつ、でも言葉にせずにやり過ごしている事を突きつけるから。

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男という“弱さ”ー奥谷まゆみ・長谷川淨潤「男本」

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先週、以前からお会いしたかった整体師・奥谷まゆみさんの整体を受けに行った。

 

私は彼女の本が大好きだ。

女性の身体のことを知るのに、これ以上のよいガイドブックはないと思うほど、親切に丁寧に、分かりやすく、そして誰もが読みやすいテンションで書かれているし、その根本にある思想−「悪い身体なんて無い。どんな身体もかならず活かす道がある」という考え方にも、いたく救われる。

整体というと科学的な観点を重視する人にとっては、非論理的に聞こえるものなのかもしれないけれど、日常の中で感じる身体感覚がどこから来るのか、人がつい取ってしまう行動の「なぜ?」を知るために読むと、否応なしに身体レベルで納得させられるので、面白い。
続きを読む 男という“弱さ”ー奥谷まゆみ・長谷川淨潤「男本」

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レビュー:映画「チェルノブイリ・ハート」

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映画「チェルノブイリ・ハート」を見た。
きつかった。
「10万年後の安全」よりも10倍くらいきつい。
なぜかというと、これがホラー映画でもパニック映画でもなく、
本物の、今、この瞬間に、同じ地球上のベラルーシで起こっている事を写したドキュメンタリーで、
しかも、25年後の福島に、確実に起きるであろうことだからだ。
「ハイ、あなたたちの未来はこんなかんじですよ」って、
こんなにも恐ろしい、血肉色した鮮やかすぎる未来を目の前に突きつけられて、
平気でいられる人がどれだけいるんだろう。
このドキュメンタリーは、国土の97%が放射能汚染地域であるベラルーシで、放射能被害にあった子供たちの様子を写したもの。
なので、映画の舞台はほぼすべて、病院である。
監督は、甲状腺ガンの治療現場から始まり、精神病院や小児病棟を次々と回ってゆく。
私は、放射能が引き起こす病気は、甲状腺ガンと白血病くらいしか知らなかった。
けれど、その認識がずぶずぶに甘いことを、この映画で思い知らされた。
原発から80km圏内で、事故後に生まれた子どもの多くが、先天的に脳性麻痺や脊髄損傷、水頭症、悪性腫瘍を患っている。
悪性腫瘍で、自分の身体と同じくらいに、ぱんぱんに膨れあがったお腹をひきずって歩く子ども、
足と手が壊死して、薬を塗ると痛みで泣き叫ぶ子ども、
水頭症で、あたまなのか顔なのか分からないほど頭部が膨らんだ子ども、
生まれた時から発育障害で、4歳なのに4ヶ月の赤ちゃんくらいの体躯しかない子ども。
そんな子供たちで、施設はあふれている。
変形し、皮膚の色が変わった患部が、舐めるようになんどもなんどもスクリーンに大写しにされる。
その度に、自分の認識の甘さを思い知らされる。
それだけでは終わらない。
一番ショックな事実を突きつけるためか、作中になんどもなんども登場するのは、
「遺棄児童院」
つまり、障害を抱えて生まれ、親が治療費を払えずに捨てられた子供たちの集まる施設が、チェルノブイリ近郊にはいくつもあるのだ。
そりゃそうだよ、事故のせいで住んでいた家と仕事を失って、
生まれてきた子どもは月に何百ドルとかかる重度の障害を抱え、治る見込みも国の補助もなく、月収100ドル以下で、
それでも育て続けるなんて、誰が可能だと思う?
親のせいじゃない。これは、国が生んだ捨て子だ。
生まれる前から、国によって、原発によって未来を破棄された子ども。
これが、25年後のフクシマに起こりえないなんて、誰が言えるだろう。
施設の人の、
「この子の親は見つかっていません。治療法もありません。
この子の未来は誰にも分かりません。」
という言葉が突き刺さる。
さらにショッキングな事実は続く。
原発から80kmのゴメリ市の産院での、健常児の出生率は15%〜20%
これ聞いたとき、数字が逆なのかと思った。
てっきり翻訳ミスかと。
そうじゃなかった。
障害児の出生率が15%〜20% ではなく。
健常児の出生率が15%〜20%。
信じられる?
多くの子どもは水頭症、脳性麻痺など先天性の障害を持って生まれてくる。
アメリカでは、水頭症の乳児は生まれた時に注射器で水を抜いてもらえるけれど、ここはベラルーシ。医者の月収が100ドル以下の国で、そんな高額の手術をほぼ全員の水頭症児に施すなんて不可能だ。
原発から80km圏内って言ったら、フクシマでいうとこんな感じ(googleMAP)
北茨城やいわきももちろん、宮城の白石、那須塩原や会津若松ももう少しで届きそう。
この範囲の産院で、健常児の出生率がたったの15%。
ベラルーシで起きていることが、こんなにも克明に分かっているにも関わらず、
なんで国のトップは、フクシマの子供たちを避難させないんだろう?
何が起こるか分からないから、じゃなく
何が起こるか、こんなにも、こんなにも鮮明に分かっているのに、
なんで、なんでほっとくの?
見えてるじゃん、もう見えてるじゃん。
この映像は、CGでも、ホラー映画の特殊メイクでもなんでもないよ。
アメリカの、映像技術を駆使したバーチャル・リアリティーでもないよ。
精神病院に詰め込まれた子どもとか、頭なのか顔なのかもうよくわかんなくなってる水頭症児とか、足が枯れ木みたいになった、ぼろぼろの子どもとか、
こんなにリアルに見えてるのに、なんでそれでも安心だとか、言えるわけ?
第一・第二原発から、広島原爆の136個分のセシウムが放出されたって発表しときながら、なんでそれでも
「チェルノブイリとフクシマは違う」って言えるの?
今、フクシマにいる子供たちと、これから生まれてくる子供たちの未来がわかっていて、なんでそれでも避難させずに東電を救済するのか、わからないよ。
今、東電ではなくて、フクシマの子供たちと若者を避難させるほうが、国の生存戦略上有効だって、なんで政府の偉い人達がわからないのかも、全く理解出来ないよ。
もしこのまま、避難措置も取らず、十分な補償もせずに、原発から80km圏内の人たちをほったらかしにしたとしたら、
きっと、25年後、これと同じ映像を撮りに、各国からフクシマに取材クルーが押し寄せるだろう。
きっとその時、彼らは思うはずだ。
「今から25年前にも、これと同じ映像を撮ったフィルムがあったのに、なんで日本は学ばなかったんだ?」って。
そうなってしまいそうな事が、私は悲しい。
このフィルムの中の映像と地続きの現実は、もう始まってる。
今の放射線量が◯ミリシーベルトとか、セシウムが☓ベクレル検出されたとか、
まったくリアルでない、数字の情報ばかりが流れてきて、
どれが本当の情報かも分からず、ぼうっとtwitterとネットニュースを眺めている今、
遠く離れた国の映像なのに、
何年も先の未来予測でしかないはずのに、
一番リアルな、フクシマに関する情報だと、私は思う。
明日は水曜でレディースデーだし、あさっては1日で映画の日なので、
何見ようかと迷っている方はぜひ見てください。
1時間でサックリ見れます。でも、ショックはずっと続きます。
ショックどころかこの現実は25年後まで続きます。
それが分かってしまう、本当に苦しい、でも、“分からせてくれる”映画です。
こちらも合わせてどうぞ:レビュー:映画「10万年後の安全」

参考:ベラルーシの若者・児童の、甲状腺ガンについての報告


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レビュー:映画「10万年後の安全」

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「10万年後の安全」を吉祥寺のバウスシアターで見た。
死にたくなるほど気が遠い、死にたくなるほど気の重い、「実話」。
フィンランドのオルキルトという小さな島に建設が始められた、原子力発電所の核燃料廃棄物の最終処理施設「オンカロ」
フィンランド語で「隠れた場所」という意味。
地下500mの深い穴を掘って、そこに放射性廃棄物を埋蔵し、再び人が入れないように封鎖し近づけないようにする。完成は、2世紀後の予定。
放射性廃棄物が完全に無害になるには10万年かかる。
それまで誰も触れてはいけない。10万年後まで何食わぬ顔でそこにあり続け、絶対に悪用されないために、多くの人に忘れられなければいけない。
つまり、10万年持ちこたえ、誰にも発見されず、忘れ去られ、10万年後の未来まで完全に無視されることがオンカロには求められている、という話。
10万年?持ちこたえる?
本当に?
どうやら現代の技術に人類は自信満々のよう。
13億年前の地層が残るフィンランドの小さな島の、地中奥深くでなら、この巨大な貯蔵庫は、あらゆる変化に耐えられると思っているのだから。
氷河期が来て、地形が変動して、それでも10万年、耐えられる施設を、我々の技術なら、きっと作れるだろうと。
地球は6万年ごとに大氷河期に襲われていて、文明は失われて、その後に再び栄えた人類に、我々は果たして言えるのだろうか?
「ここに危険物が埋まっています。触れちゃいけない。忘れなきゃいけないよ」と。
原発の作り手側である建設会社が想定しているのは、線形の未来だ。
10年後も100年後も技術はくまなく発展し、自分たちの会社は倒産もせず、核戦争も氷河期も来ず、未来は予測できる範囲内の姿をもって、我々の前に現れると。
でも。
わたしたち、すくなくとも日本人にとって、線形の未来は失われてしまった。
3月11日、あの日あの時の一秒前まで、わたしたちは、次の一秒も次の一分も次の一時間も、そして明日もあさっても一年後も、今日と同じ、直線に乗ってやってくると思っていて、でもあの時あの瞬間からわたしたち、少なくとも被災者、そして原発に近い人たちの、線形に続いてくと思っていた未来は、ぐちゃぐちゃに塗りつぶしたボールペンの線のように、いびつな円を描き続けてとどまって居る。一度そのまっすぐな行き先を失った線がどこに向かうのか、正確にすべてを知る人は、我々の中には誰もいない。
2世紀後の未来が直線に乗ってやってくる事を信じてる人は、日本だけでなく、地球上で、果たしてどれだけいるのだろうか。
そして、2世紀後、順調に我々が予測する未来がやってきて、オンカロが無事完成したとしても、そこが核燃料廃棄物でいっぱいになったとき、第二、第三のオンカロが必要になるだろう。
10万年後、最初のオンカロの廃棄物が人類に与える影響を無くす頃には、
いったい、人類はいくつの「隠された場所」を作っているのだろう。
それが、わたしは怖い。
そう。もうすでに核燃料廃棄物は大量に存在している。
次に作る原発の問題で騒ぐ前に、私達はすでに恐ろしいサッカーボールを抱えているのだ。
永遠に10万年後まで誰かが抱え続けなければいけないサッカーボールを。
できることなら未来の人類に向かって、我々は知らぬ存ぜぬのまま、遠くに遠くに蹴り飛ばしてしまいたいサッカーボール。
だけど現実のそれはそんなに軽やかじゃない、巨大な水槽の中に沈めて、管理するために何千人もの人間の手を煩わせて、すでに重く重く国を押しつぶしているお荷物だ。仕方がないから、政治というゲーム場でこづきまわして回しあっている。フィンランドがオンカロの建設に乗り出したのも、政治の上でエネルギー源の確保はお荷物を抱えてまでも達成しなければならない重要命題だから。
人間が作ったものなのに、できるだけ人間から遠ざけておきたい。おかしいね。
おかしいけれど、それを指摘する前に、「反対派、賛成派問わず、処理しなければならない目の前の問題だ」と監督は言う。
忘れてはならないのに、忘れさられなければいけない、忘れさられることが望まれるもの。
「忘れる事を忘れちゃいけない」それが廃棄物の最終処分場。
人類が原発をやめるまで、もしくは滅びるまでに、いったいあといくつ「最終」処分場が必要なんだろうね。

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レビュー:村上龍「逃げる中高年、欲望のない若者たち」—純化する欲望と自殺回避—

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村上龍の新刊「逃げる中高年、欲望のない若者たち」を貰ったので読む。
発売数日ですでに重版が決定したほどの人気らしい。
村上龍のエッセイは縁あって新刊が出るごとに読んでいるが、刊を重ねるごとにつまらなくなっていく気がする。
なぜか。
この本の根幹でもある彼の若者論は、実情とあまりにずれているからだ。
若者の欲望は退化した?
第一章の「草食系と肉食系というごまかし」等でも述べているけど、村上の持論では「今の若者はつまらない、それは若者の欲望が退化しているからだ」。
例として彼が挙げているのは「若者が車を買わなくなった」事。
若者が車を買わなくなったのは、欲望が退化して質の高い物を求めなくなったし、そもそも貧乏だから車を買うお金がないせいだと村上は分析する。
私はそれは違うと思う。
彼の言う「退化」は、“欲望の量的な減少”を指すのか。それとも“欲望の質的な悪化”を指すのか。
量的な減少については、確かにその通りかもしれない。
しかし、質的な悪化の事をさすのであれば、それは違うと思う。
若者の欲望は悪化したのではなく、純化したのだと思う。
欲望の中継地点が要らなくなった

村上いわく、一昔前の欲望の対象はファッション、女、車だった。でも、ファッションだとか車は欲望の最終目的じゃなくて、いい車に乗るのも、いい服を着て良いレストランに行くのも、最終的にはいい女とセックスするための手段だったんでしょ、と今の若者である私からは感じられる。(村上がそう考えているかは分からないが。)
一昔前までは、いい女とセックスしたければ、いい車に乗るしかないという共同幻想があった。だから、いい車に乗るという行為は、いい女とセックスしたいという欲望を叶えるための中継地点でしかなかった。今は違う。キャバクラでも風俗でも素人でも、いい女が驚くほど安いコストで簡単にセックスさせる。ローンを組んで高い車を買わなくても、安い値段でモデル並みの女とセックスできる。お金を払わなくても、恋愛が供給過多なので、いくらでも恋愛できる。今まで中継地点として機能していた物質を得なくとも、ダイレクトに欲望を叶える事ができる。
もちろん本当に金が無くて車が買えないのかもしれないが、もし、心から車が欲しいのであれば、めちゃくちゃ働いてそれを買うだろう。事実、地方の若者の車の購買率はそんなに下がっていないのではないかと思う。金がないから買えないのではなく、そこにベクトルを向ける必要がないから買わないのだ。(こんなこと、わざわざ書くまでもなく皆知っている事だけど、村上龍のエッセイタイトルで検索してレビューを探すのは若者じゃなくて村上くらいの歳の方々だと思うから、念のため)
セックスと車の話は極端な例かもしれない。けれど、90年代まではセックスに帰着していた欲望は、現代においても、セックスという行為に帰着しないかもしれないけど、もっとマイルドな形で若者全体を常に覆っている。それは、「誰かと一緒にいたい、誰かに存在を認めてほしい、誰かと楽しくやりたい」という、人とつながりたい欲望だ。現代の若者の欲望は、この一点のみに集約しているように、私には見える(これについては広告 2010年 10月号「新しい価値感を持つ若者たち」 [雑誌]を読めばより明晰になるし、そもそもこんな事は若者自身なら私がブログに書くまでもなく身を持って知っているだろう)。
そしてその欲望は、モノという中継地点に立ち寄らずとも叶えられる。
群れられなきゃ自殺“しちゃう”社会

若者たちが群れたがるのは、生存本能の賜だ、と私は思う。
人間社会も動物の群れだ。
会社も友人関係も地域コミュニティも全て群れの一種だ。動物が、自分にとっての危機的状況が今まさに迫っている時に、からだを寄せ合って仲間との距離を限りなく近づけて身を守りたいと思うのは本能的な欲望だと思う。あらゆるメディアから、日本は今社会が壊れるか壊れないかのギリギリのラインにいるというメッセージを日常的に受け取っている若者が、まどろっこしい中継地点をすっとばしてダイレクトにつながろうとするのは生存選択として正しい。
その現実での具体化が、コレクティブハウスだったり、シェアハウスだったりNPOだったりジモト飲みだったり会社を離れての小さなコミュニティ志向だったりするわけだ。
「人とつながりたい、コミュニケーションがしたい」と言う欲望は、一部の若者にとっては叶えようと思えば簡単に叶えられる。望めば誰かと一緒に快適な生活ができるし、ソーシャルメディアが、その欲望を叶えるための様々な選択肢を簡単に提示する。
そのために有利なのは、所有物の多さより、EQ(心の知能指数)の高さである。モノがたくさんあると(モノ志向になると)、集うのに物理的に不便だし、モノを独占するヤツは群れの中では好かれない。だから、若者はいい車とかいいファッションとかをあっさりと捨てる。
だから、人と簡単につながる事ができる若者の欲望は、他への欲望を回収してより純化するし、それができない若者は自殺に追い込まれる。今の日本は人とつながれないと、あっさり自殺「できてしまう」社会なのだ。本人の意志と言うより、社会環境的に。若者は、自分が「ともすれば自殺してしまうかもしれない」状況にいる事をよく分かっている。人とつながりたい欲望は、自殺を先まわりして回避するための自己防衛手段なのだ。だから、彼らの「人とつながりたい」欲望は、本能的に正しい。
古代において、氷河期、ジュラ紀と地球環境が変わるごとに、生存欲求の強いやつほど自らの形態を変えたのと同じで、村上の言うダメな若者こそ、生存欲求を一番ローコストで叶える手段を知っている本能的に優れた奴かもしれない。あくまでも、仮説だが。
「自殺よりはSEX」よりTwitter
村上は「自殺するくらいなら、高いヴィトンのバッグを持ったり、美容整形をしたり、援助交際をするほうがましだ」と書いていて、それは6年ほど前のエッセイ「自殺よりはSEX」以来変わらない主張だが、そういうモノとかカネを中継地点にはさむやり方では自殺をふせぐことはできないんじゃないかと思う。だって、それ以外の方法で他人とつながっている人たちを、彼らは横目で見ているから。村上はおそらく、ヴィトンを捨てた若者にとって、TwitterやらFacebookが自殺防止の一助に資しているという所にまでは考えが及ばないのだろう。
「成功を考えてはいけない、考えるべきは、死なずに生き残るための方法である」というのが、本書のボディコピーである。帯にもでかでかと書いてある。その死なずに生き残るための方法を若者が実践している事を、村上はなぜわからないのか。もっとも、からすみと日本酒にワクワクしている貧困層のおじいさんを肯定的に捉える村上には、シェアハウスにワクワクしニコニコ動画でワクワクし地元飲みでワクワクする若者の事はわかりようがないのかもしれない。
おわりに

25年以上にも渡る村上のエッセイは、最近では、メンズJOKERという若者向け雑誌に移行した。これまで消費を煽ってきた中高年向けの雑誌がすべからくつぶれてしまって、メンズJOKERくらいしか村上龍に原稿料が払えないからだそうだが、中高年の雑誌は潰れ、村上の言う「若者の低質な欲望」をよわよわしく煽るだけの雑誌しか、彼に原稿料を払えないという事実はなんだか滑稽だ。
本書の中では欲望を持たない軟弱な若者の例として、若い編集者がひきあいに出されているが、彼の若者批判に対し、その若い編集者たちは誰も「村上さん、それはちがいますよ」と言わないのだろうか。だったら村上龍は可哀想だと思う。
「説教するつもりはない」と書きながら、説教する気がムンムンに漂っているのだから、いっそ説教の一つでもしたら、もっと踏み込んだものが書けるのに。村上龍はツイッターやってないんだっけ?
本書には「優越感に浸る中高年、それをネタ化する若者たち」ってタイトルのほうがお似合いかと。

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レビュー:「建築家 安藤忠雄」

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建築家の安藤忠雄が半生を綴った自叙伝「建築家 安藤忠雄」を読む。
安藤忠雄は「創職男子」だった!
それも、今より50年も早くに。
【安藤忠雄、建築家としての人生のスタート】

「1941年生まれ。独学で建築を学び1969年、安藤忠雄建築研究所設立・・・」

プロボクサーを目指す事を諦めた後、図面の引き方もろくに学ばないうちに友人からバーの設計の仕事を任された彼は、建築の本と睨みあいながらなんとか設計図を引き、一作目を完成させた。
そこから建築家・安藤忠雄としての道が始まる。
大学にも行けず、導いてくれる師も、相談できる同輩もいない中、一人書物と格闘し、ル・コルビジェの図面をなぞり、アルバイトを続けながら少しずつ建築の仕事を自分のものにしていった。
本文中で安藤自身が述べる
「仕事は与えられるものではなく、創るもの」という言葉。
今から50年も前、20歳だった若者が、上記の強いポリシーを持ち、孤独の中にも地道な勉強を怠らず、誰も行った事のないヨーロッパに一人で飛び込み、手探りながらも腕一本で「住吉の長屋」から表参道ヒルズまで、一つ一つの作品を産み出してきた事は感慨深い。
日本の現代建築史もまだ産声を上げたばかりの、何もかもが未開だった時代、情報もリソースもネットワークもない中での「創職」は只ならぬ苦労だったに違いない。だからこそ、この時代の消費主義的風潮や、暮らしを無視した都市の乱開発に流される事なく、苦しさの中、時代とは一線を画す彼独自の建築観が練り上げられてきたのだろう。
【反逆者の住居哲学】

そのような、既存のものに反逆し、逆境を越えてきた彼自身の人生を体現するかのように、彼の「住居」哲学には、ただ快適で利便性を追求するだけではない、一筋縄ではゆかない厳しさが内包される。
「住まうとは、時に厳しいものだ」。

安易な便利さではなく、そこでしか営めない「生活」を問う住まい。生活の中に入り込む自然をその厳しさと共に受け止め、日々の生活の彩とする住まい。そんな住居を創りたい。
賛否両論を呼んだ「住吉の長屋」に始まる、一つひとつの住宅作品には、そんなポリシーを背負った安藤の、高度成長期の物質依存社会への挑戦のまなざしが一貫して透けて見える。
彼自身の住居哲学を理解するうち、ふと私が思い出したのは、3年前、世界一周中に訪れた、モロッコのサハラ砂漠に住む人々の生活だった。
【モロッコ、サハラ砂漠の暮らし】
モロッコ南部の砂漠地帯に、メルズーガという小さな村がある。
そこで、日本人のノリコさんが運営するホステル「ワイルダネスロッジ」に宿泊した。
わずか2〜30戸の本当に小さな村だ。
村の西側には砂漠が広がり、地平線まで、草木一本生えない砂丘が延々と続いている。
村の家はみな、石造りの長方形の建物なのだが、ノリコさんのホステルは、砂漠に面した側に壁がない。
要するに家の片側がみんな開いていて、外から家の中が丸見えなのだ。
壁が無くては、砂漠の砂が入り込んでさぞかし掃除が大変なのではないかと思ったが、なるほど、昼間は東からしか風が吹かない。風はすべて砂漠に向かって吹く。
そのためこの村の建物の戸口や窓は、全部西を向き、代わりに建物の東側は高い壁で囲まれ、防砂林のヤシが緑々と繁っている。
それでも入り込んでくる細かな砂を、ノリコさんは毎日箒で掻き出す。
棚、絨毯、ソファ・・・家具のすべてを、さらさらとした砂がまるで被膜のようにしつこく覆う。風の当たる場所で寝ていると、薄力粉をふるわれたように、肌が砂で白く染まる。
灼熱の昼間、人々は石造りの堅牢な建物の中で暑さを避けている。日が沈みきり、涼しさが夜の闇と共に空から落ちてくると、安心して屋外に出て騒ぎ出す。まるで一日の始まりは日没からだと言うように。
夜は皆、ホステルの屋上にマットレスを敷いて寝る。
窓なしの寝苦しい部屋を借りるには一泊80DHかかるが、屋上だと15DHで済む。
使用人も客も猫も、同じように寝転がり、夜空を眺めながら一日の終わりを労っている。
砂漠の星空はみっしりと濃い。
天の川から溢れ出た大粒の星星が、所狭しと濃紺の帳を埋め尽くし、互いに身をぶつけ、砕け散る破片が螺旋を描いては、ダイヤモンドの鋭さで瞳を直撃する。
モロッコ人の使用人から酒と、怪しげな葉巻が回ってきて、そのうち視界も回り出す。
星の光以外に灯りは何もない中、宴は遅くまで続く。
ここでは暮らしがぴたりと風土に寄り添っている。
暮らしに寄り添う家もまた、風土に溶け込んでいる。
家も人も砂漠の一部だ。
ひとびとは自然の厳しさと、長年の連れ合いのように親しく暮らす。家はそれを受け止める器のようだ。
【「旅」が創った建築家】
安藤は、まだ20代の建築家の走りだった頃から既に、時に過酷ですらある「暮らし」に寄り添う住居を建築したいという思いを持つに至っていた。
それはきっと、若い頃から世界中を旅して歩いた経験—遥か彼方の、日本とは異なる文化と風土の中、それに合わせて多様な様相を示す建築物の数々を実際に自身の目で見て歩いた結果だろう。
本書の最後、彼は
「建築のプロセスには必ず光と影があるように、人生にも必ず光の側面と苦しい影の側面がある。(中略)人生に「光」を求めるなら、まず目の前の苦しい現実という「影」をしっかりと見据え、それを乗り越えるべく、勇気を持って進んでいくことだ。」
と締めている。
彼の作品に体現される哲学、そして建築家・安藤忠雄としての人生は、異国の地、そしてそこに住まう人々が織りなす暮らしの、有形無形の光と影を踏みしめ歩いた足の裏から創られたのかもしれない。

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レビュー:不登校からの出発

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学校カウンセラーである田中登志道さんの「不登校からの出発」を読む。

不登校児を抱える家族向けに、子供との接し方を説いた本だ。

本書が読者に対して優しく、そして温かいのは、不登校を、社会からの逃亡/もしくは生に対する無気力さの表れとして捉えず、むしろそれぞれの子供が、
一般的な両親が想定する進学→就職→結婚・・・といったステレオタイプなライフコースから外れ、その子なりの「独自の人生」を歩み始めるための「前段階」としてポジティブに捉えている点にある。
著者は「ひきこもり」という言葉自体をも、一般的なイメージ通りに語らず、カウンセラーとして多くの不登校児と格闘したナマの経験の上に、鮮やかに再定義している。

 


彼らの様子は「閉じこもり」または「たてこもり」と表現したほうがよいでしょう。
「ひきこもり」には意志が脱落しているイメージがありますが、「閉じこもり」には濃密な精神的活動がありますし、「たてこもり」には非常に強い意志が働いているからです。

 

 

彼は「ひきこもり」を、禅宗の修行になぞらえて捉える。

 

禅宗においては、修行を極めた禅者があえて自らを韜晦して世間から身を隠し、禅の境地をさらに深めようとする営みの事を「聖胎長養」といいます。
これはまさに「ひきこもり」を手段とした、自己をレベルアップするための努力です。
ひきこもらなければ、世の中から自分を遮断しなければできない修養もあるのです。

 

 

ひきこもりの子供たちが、自分がどう生きるかを追究し、彼自身のオリジナルな文化を作ろうと悪戦苦闘する様は、偉大なる精神史上の功績を残した禅僧たちに引けを取らない、と彼は述べる。

 

いうなれば、社会とアンプラグドでいられる「ひきこもり」の期間は、自ら成長することを止めた宙ぶらりんの状態では決してない。
むしろ、豊かな精神的葛藤の中、独り試行錯誤しながらアイデンティティを醸成し、次なる道を産み出すための修行の時間なのだ。

 

私自身、中学三年生の時に精神的に衰弱し、半年間ほとんど学校に行かない時期があった。自分が立派な不登校児であると自覚してからは、まるでこの世の終わりのような気持ちで日々、過ごしていた。知る限り、同じ学校で不登校の子供はひとりもいなかった。自分の人生は中学までで途切れるのだ、とばかり思いながら生きていた。
大人になってから、「実は自分も不登校だった」という人間にたくさん出会い、実は自分と同じ仲間がたくさんいたのだ、という事に初めて気付いた。
全国に不登校児は年間十二万九千人もいるのだから、前後の年代だけで考えても、実はひとつの学校につき、部活ひとつ作れるくらい、不登校の経験者は多いのだ、という事に気付いたのは、不登校を卒業してからだいぶ後のことだった。

 

自分が絶望していた“世界”は、じつは、気泡のように小さく淡いものだったのだ。
そんなシャボン玉みたいに小さな世界が、日本中の学校の、教室というこれまた小さな世界の中に、いくつも漂っている。
自分以外に仲間はいないと思いこみながら。
その思いこみの内側に、きらきら震える感受性をひっそりと培養しながら。

 

今、その時の気持ちを思い出そうとしても、全く思い出せない。
けれど、本書を読み、作者の不登校児に向ける温かい視線を感じるにつけ、実は自分が世界だと思っていた小さな泡沫の外側には、同じように温かいまなざしでその世界を支えてくれていた多数の大人がいた事に気付いたのだった。

 

保護者だけでなく、元ひきこもりや不登校だった本人たちにも読んでもらいたい本。

 

 

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レビュー:不登校からの出発

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学校カウンセラーである田中登志道さんの「不登校からの出発」を読む。

不登校児を抱える家族向けに、子供との接し方を説いた本だ。

本書が読者に対して優しく、そして温かいのは、不登校を、社会からの逃亡/もしくは生に対する無気力さの表れとして捉えず、むしろそれぞれの子供が、
一般的な両親が想定する進学→就職→結婚・・・といったステレオタイプなライフコースから外れ、その子なりの「独自の人生」を歩み始めるための「前段階」としてポジティブに捉えている点にある。
著者は「ひきこもり」という言葉自体をも、一般的なイメージ通りに語らず、カウンセラーとして多くの不登校児と格闘したナマの経験の上に、鮮やかに再定義している。

 


彼らの様子は「閉じこもり」または「たてこもり」と表現したほうがよいでしょう。
「ひきこもり」には意志が脱落しているイメージがありますが、「閉じこもり」には濃密な精神的活動がありますし、「たてこもり」には非常に強い意志が働いているからです。

 

 

彼は「ひきこもり」を、禅宗の修行になぞらえて捉える。

 

禅宗においては、修行を極めた禅者があえて自らを韜晦して世間から身を隠し、禅の境地をさらに深めようとする営みの事を「聖胎長養」といいます。
これはまさに「ひきこもり」を手段とした、自己をレベルアップするための努力です。
ひきこもらなければ、世の中から自分を遮断しなければできない修養もあるのです。

 

 

ひきこもりの子供たちが、自分がどう生きるかを追究し、彼自身のオリジナルな文化を作ろうと悪戦苦闘する様は、偉大なる精神史上の功績を残した禅僧たちに引けを取らない、と彼は述べる。

 

いうなれば、社会とアンプラグドでいられる「ひきこもり」の期間は、自ら成長することを止めた宙ぶらりんの状態では決してない。
むしろ、豊かな精神的葛藤の中、独り試行錯誤しながらアイデンティティを醸成し、次なる道を産み出すための修行の時間なのだ。

 

私自身、中学三年生の時に精神的に衰弱し、半年間ほとんど学校に行かない時期があった。自分が立派な不登校児であると自覚してからは、まるでこの世の終わりのような気持ちで日々、過ごしていた。知る限り、同じ学校で不登校の子供はひとりもいなかった。自分の人生は中学までで途切れるのだ、とばかり思いながら生きていた。
大人になってから、「実は自分も不登校だった」という人間にたくさん出会い、実は自分と同じ仲間がたくさんいたのだ、という事に初めて気付いた。
全国に不登校児は年間十二万九千人もいるのだから、前後の年代だけで考えても、実はひとつの学校につき、部活ひとつ作れるくらい、不登校の経験者は多いのだ、という事に気付いたのは、不登校を卒業してからだいぶ後のことだった。

 

自分が絶望していた“世界”は、じつは、気泡のように小さく淡いものだったのだ。
そんなシャボン玉みたいに小さな世界が、日本中の学校の、教室というこれまた小さな世界の中に、いくつも漂っている。
自分以外に仲間はいないと思いこみながら。
その思いこみの内側に、きらきら震える感受性をひっそりと培養しながら。

 

今、その時の気持ちを思い出そうとしても、全く思い出せない。
けれど、本書を読み、作者の不登校児に向ける温かい視線を感じるにつけ、実は自分が世界だと思っていた小さな泡沫の外側には、同じように温かいまなざしでその世界を支えてくれていた多数の大人がいた事に気付いたのだった。

 

保護者だけでなく、元ひきこもりや不登校だった本人たちにも読んでもらいたい本。

 

 

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生活水準が下がる事は「怖い」か—内田樹「邪悪なものの鎮め方」

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敬愛する内田樹先生の新刊「邪悪なものの鎮め方」を、
やっと購入した。
飛びつくように読む。
その中の一編、「Let’s Downsizing」で、先生はこう語られていた。
「経済規模がどんどん縮小している今の時代においては、
人の暮らしにまつわるすべて、
つまり、行政や経済活動、そして消費は
どんどんダウンサイジングされるべきである。」と。
ちょうど先日、講談社の雑誌連載の取材を受けた時に、奇しくもそんなことについて話した気がする。
取材者は「東大生のノートはなぜ美しいか」の太田あやさんと、ダンディな雰囲気のFRIDAY編集者の方。
太田あやさんは、江国香織似の美人だった。
取材テーマは「若者の就職観の変化」。
なぜ、慶應の学生が押し寄せる一部上場の大企業ではなく、
ベンチャー企業で働く事を決めたのかについて尋ねられる。
一回目の就職活動をやめた時、同期の学生たちから口々にこんなことを言われた。
「大企業に就職しないで一体どうする?今の生活水準を下げられるのか?」
一緒に就職活動をしていた仲間は、多くが3年次にカナダに交換留学していた時の同期だった。
皆アメリカやイギリスの名だたる大学に留学し、当然のように
就活ランキングでは超トップ層の大手外資系証券会社や4大商社への就職を決めていた。
(中には、リーマンブラザーズやメリルリンチに内定していた人間もいた。
上記の発言は、この2社への内定を喉から手が出るほど欲していた友人たちの内の一人によるものだ。)
生活水準。
就職活動の時、だれもが露骨に、あるいは無意識下にそのことを考える。
あたりまえだ。誰も生活水準なんて下げたくない。
でも、逆に、
生活水準がこの先死ぬまで「右肩上がりでい続ける」ことなんてありうるのだろうか?
内田先生は書く。
「日本社会がこれから取るべき生存戦略は『ダウンサイジング』である。
何もかもが右肩上がりで増加することを想定した戦略はこれから通用しない。
それと同じく、『生活レベルはいったん上がると下げることができない』という“常識”は、
消費活動を拡大させ続けるための資本主義経済にとって都合のよい妄想でしかない。
生活レベルなど、本来ならいくらでも乱降下するものだ。」と。
本当にそうだ、と思う。
私にとっては、生活水準を下げることを「怖い」と思うことのほうが、ずっと、怖い。
それを怖れて、何もできなくなるほうが、よっぽどリスクである。
生活水準なんて、どうあがいても勝手に下がる時は下がる。
JALに関する報道を見ていて、まさに今みながそれを感じているだろう。
リスクを担うのが、大きな会社か、それとも個人なのか、その違いだけだ、と、思う。
今、生活水準を下げる事を怖い、と思わないのはなぜか。
それは、一緒に働く仲間の存在が大きい。
内田樹も若いころは貧乏暮らしで仲間の家に居候していたらしいが、
今、会社で一緒に働いている仲間たちがいれば、
生活水準が下がっても、どんなに困窮しても、助け合ってやっていけるのではないか。
みんな貧乏だけど、
「信頼」が担保になっているから、怖くない。
心のセーフティーネットが張ってある状態なので、不安なく、まっすぐに前を向いて働ける。
信頼のセーフティーネットが無い状態で生活水準が下がるのをおびえているより、
下がる事を「当たり前」として、みんなで肩を組み合ってずでんと構えているほうが、
ずっと、楽だと思う。
そして、この事に多くの若者が気付き始めているのではないか。
FRIDAYの編集者の方は、ここ数年の社会変化の中で、若者の「仕事に就くということ」への意識がどう変化しつつあるのかを知りたくてこの企画を立ち上げたそうだが、変わったとすれば、
多分そこだろう。

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