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5感を使って書くクリエイティブライティング講座、参加者からの感想

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5月28日に開催した、5感を使って書くクリエイティブライティング講座、参加者からの感想です。

 

こんにちは。
講座に参加させていただきましたSです。
先日は濃厚な時間をありがとうございました!!
ずっといただいたコメントを反芻しながら原稿に向かう日々をすごしています。
感想は色々ありすぎて、まとまってないですが、こんなことを感じましたと言うことを簡単に書かせていただきます

▪️身体を動かすこと、人と触れ合うことでこんなに内面が変わると思っていなかった!

身体を動かす(運動する)と鬱々とした気分が晴れたりした経験はあったのですが、
室内でできるシンプルな動きでもこんな風にオフになった感覚が戻ってくるのかぁという実感がありました。
そして何より驚いたのは、日頃人に触れることにすごい恐怖心を抱いている自分に出会ったこと。
最初のワークが(お隣が女性だったこともあって・・・)緊張MAXでした。
何かを書くときに先生だったり親だったりnetの先の見えない人たちだったりの反応をすごく気にしちゃってるのと同じで
私が触れて嫌じゃないかな、キモいと思われないかな・・・とか脳内メモリのバックグラウンドでいっぱい考えて、
手を出せない普段の自分を見つけました。こんなに怖かったのか、と。
途中まではその緊張感が残っていて、
「今日わたしやっていけるのかしら・・・」と不安になったと言うのが正直なところです。
でも、繰り返しやっていると、相手を身近に感じられて少し緊張がほぐれたり、
いっそ手を繋いだり背中合わせたりしてると恐怖超えて「もういいやーっ」ってなってきた。
もしかしたら同じ緊張を持っている人は多かったのかもしれないけれど、相手が受け入れてくれることで、
ちょっとずつこっちも図々しくなれると言うか、安心して一緒になっていける。
最後には、もう相手に委ねちゃってたし、そんなことを人様にできるようになっている自分に驚きました。
恋が始まってから(というかその前の初対面から)、同じ布団で寝るようになるまでをギューっと凝縮して体験したような気持ちでした。
身体を動かして開いた、感覚への自由さだけじゃなくて、人と一緒にやることで開く門があったように思います。
恋人に対して安心できるようになると、すっぴんで過ごしたり言いたいことがよりはっきり言えるようになるみたいに、自分が口にすること、書くものに対してもあの部屋の中では正直になれたように感じます

▪️子供の頃のことを色々思い出した。

その次のワーク。
自分が子供の頃から好きなものとか出してるものが変わってないことに驚きました。
「そんなにずっと好きなのかよ!」と思うと、ワンパターンに悩んでいた自分に諦めがつくというか、「もうそんなに好きならいいじゃない・・・」と自分を許せる気がしました。
あと、人の発表を聴きながら、自分もそんな風に先生にしかられてアウトプットを場に最適化させる癖がついたな・・とか、こんな面白いこと考えてるやつクラスにいたかもしれないと思うと楽しいな!なんて妄想が広がったりとか、勝手に入っていた檻から出られて、次のワークで自分の嫌なところ、醜いと思って表に出さないようにしているところも書き出せたように思います。

▪️フィードバックの濃さ、相手への問いを諦めないでいてくれるところが嬉しかった。

先日の講座後にも少しお話させていただきましたが、とにかくインタビューでの質問や最後のフィードバックがすごくありがたくて、それだけで泣きそうでした。(泣きました。。)
感じたことを微分して言葉にする、なぜを繰り返す、「私は」を主語にして考える、読者を設定する…どれもハウツーテクニックとして聞いたことがあるものだけど、いかにやれてないか痛感しました。
そういうのって、読んで知った“気”になるだけじゃほんと意味なくて、その中の1つでも自分で諦めないで繰り返さないといけないなぁと
グループワークでメンバーや美由紀さんと向き合ってそれをやってもらえたことで、
自分でも手離さないで探って掘っていく感覚を体感することができました。
あの時は掘りきれなくて、すごく悔しくて悔しくて洟も垂れてしまいましたが、
繰り返してもっと掘っていきたいし、納得いく核を掴んでアウトプットできるようになりたいと思いました。

あと、これは余談ですが、、
感覚を扱うワークショップって、「こんな風に感じました〜」という参加者のアウトプットに対して、
主催者側から「そうそうそんな感じ!」「わかるわかる〜」みたいに感覚とか共感で返されるとすごくイラっとするんだなという自分の中の感覚がわかりました。
今回の講座の何に感動したおかげで、これまでそう言う会に感じてた違和感の理由が明確になりました。
美由紀さんも麻美さんも、共感とかよかったフレーズの指摘をしてくれた上で、「それはその人のどう言う能力なのか?」をちゃんと言葉にして返してくださって、そのことに感動したのだと思います。
あの場で褒めてもらえたこと、認めてら得た能力、その言葉が一生ものの宝だなと思いました。
糧になる言葉がたくさんでした。
自分自身の能力の課題も見えた(集中力や体力)ので、書くためにやること、書く時に向き合うべきことが具体的になりました。
きっと今の段階で「わたった」気になってることもいっぱいで、これから向き合っていくと次の壁や課題もみえるのだろうけれど、たった1日で、こんなにいろんなことを感じたり気づけたことに本当に感激しました。
参加してよかった。
本当にありがとうございました。

リクエストとしては、数回に渡ってもっと掘ったり向き合ったりしたり、合宿(自由に書く時間を自分の暮らしの中に確保する!)はあったら参加したいなと思いました。

と、思いつくままに書きましたが、まずは思ったままを送ります。
ありがとうございました。

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ニューヨーク、1ミリも後悔しないほど美味しいレストラン&カフェのリスト17

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10年前に訪れた時には留学中の貧乏学生だったので「何もかもが高い」と言いながらエッサの一番安いベーグルしか食べられなかった。吹雪でバス地下鉄含めすべての交通機関が凍結し家に帰れず、前日まで泊まっていたユースホステルのおじさんには24時を過ぎたらゲストじゃないと言われて大雪の路地に放り出された。そんな苦い記憶を払拭するべく今回の旅の目的は”食”に絞り、駱駝の如く食べて、食べて、食べて食べまくった。食べることしか考えてなかった。出発前に7日間の断食をしたのが無に帰すくらいに食べた。行く前と行った後で顔が変わってる(2倍強)。おかげで超おしゃクソ店(悪態つきたくなるほどお洒落な店)から高級店からファストフードまで、1ミリも後悔しないほど美味しい店を開拓できたはず。以下、何度でも行きたいと思った店のリスト。
当たり前だけど、料理の味と値段は比例しない。一番のヒットだったのは「Dirty Bird」(すごい名前)のチキン・スティック。「ファスト・スローフード」を謳う、有機の平飼い鶏を使った唐揚げの店。7ドルの唐揚げが高級店の35ドルのチキンに勝る旨さ。思い出しただけで涎が……。

 

 

Marta

(しょっぱなから写真なし)
グラマシーにある、ニューヨーカーに人気のサクサク系ピザ屋さん。値段が手頃なのにサービスもよく、お店の雰囲気もよくてコスパよし!ホテルが併設されているためか、内装はほどほどに高級感があって、開放的。広いのにすごい混みっぷり。ここのピザ、今までで食べた中ではナポリのダ・ミッケーレに次いで美味しかったかも……。石窯で焼き上げたピザは生地が薄くてサクサクしていて、日本人の胃でも余裕で1枚食べれる。とろとろのチーズと濃厚なサラミの味がたまらない。カクテルやサイドのサラダも美味しかった。滞在中にもう一度行きたいと思うくらいに。

Devoción

おしゃクソ、ここに極まれりなブルックリンのカフェ。とにかくおしゃクソ。おしゃクソ世界一。店内の98%の人々がMacBookを開いている(そうでない人は充電している)。みんな同じ方向に向いてるから学校かと思った。飲み物はリーズナブルかつ美味しい。コーヒーが飲めないので、ホットウォーターにレモンと生姜とスパイスを混ぜた健康ドリンクみたいなのを頼んだ。スパイシーで美味しい。味の濃い飲み物に慣れた体がほっとする。

Le turtle

ロウアーイーストサイドの新しいレストラン。とにかく内装がおしゃクソ。予約が取りにくい。フレンチというより多国籍料理っぽい。カルボナーラはスパイスが辛い。ステーキやヒラメのカルパッチョは美味しい。味付けはとにかく濃い目。ダック(50ドル程度、4人分)が美味しそうだったので大人数でチャレンジしてほしい。

Finest Ice cream

ここのアイスクリームに出会えただけで生きている価値があった。
とにかくうまい!なめらか!味が濃い!raw milkに塩カラメルソース最高。チョコレート・アイスも甘すぎず爽やかな味わい。店内は夜中でも人がぎっしり。le turtleの近く。

タル・ベーグル 

街に数多あるベーグル屋の中で一番好き。日本人好みのしっとり系ベーグル。エッサベーグルが固すぎる・・・という人にはこちらをおすすめ。
サーモンも美味しいけど私のオススメはエビ・サラダ!エブリシング・ベーグルにプリプリのエビとセロリをマリネしたものを挟んで食べると絶品。ミニ・ベーグル(半額)もある。甘いクリーム系も甘すぎずにちょうど良い。

Juice Generation


街のそこらじゅうにある。健康ブームのNY、とにかく街はジュース屋だらけ、おまけに10ドルはくだらないのだからたまらないけど、その分ジュースだけでお腹いっぱいになるほどの量で出てくるのでコスパ的にはとんとん?いろんな店のジュースを飲み比べたけどここが一番上品な味だなと思った。余談だけど、野菜を絞りすぎてカップに入りきらないと、残りも小さな紙のカップで出してくれるのは景気が良くていいね。

Dimes deli&Restaurant


チャイナタウンの一角にできたクソおしゃなレストラン。エッジーなインテリアとおしゃくそ(インスタ映えする)なフードが周辺のおしゃれ&オーガニックフレンドリーな住民の関心を引いているよう。店内におしゃれな人しかいない。フードについてもさすがの美味しさ、だけどアメリカンの濃い味付けに慣れた身としては「この薄味にこの値段?」とつい感じてしまう(ヘルシーフードが売りだから、それこそこの店のウリなんだけど)レストランよりデリカッセンの気安い雰囲気の方が食事していて楽しかった。デリの方がメニューも豊富だし。

Dirty-Bird

(写真なし)

正直、ここのから揚げが一番美味しかった……なんていうか麻薬的な味。ファストスローフードをうたっているらしく有機の平飼いの鶏肉で作ったから揚げやチキンスティックなどのジャンクフードが売り。
チキンスティックは病みつきになる味。さっくりほろほろの鶏肉がたまらん!後5回は食べたかった。8av と 14th street のあたり。

Union Fare

Gramercy Tavern の予約をうっかりミスして取り消してしまったので代打で。しかしここで十分だったのでは?と思うぐらい当たりだった。ユニオンスクエアの近く。レストランゾーンとフードコートゾーンがある。フードコートはカジュアルだけど、どの店も美味しそう。レストランの店内は快活な雰囲気。騒がしいレストランが苦手な人には薦めない。ワイワイ食事するのにはぴったり。チキンムースとチーズと生ハムのカッティングボード美味しい!サーモンのタルタルをのせたトースト、ローストチキンも外れの店が多い中、ここのはしっとり、どっしりな食べ応え。この値段でこの味はコスパよしだと思う!

The Gander

現地在住の日本人の方に連れて行ってもらったお店。おしゃれ!天井が高くて居心地がいい。ブランチに訪問。ロメインレタスのサラダや魚が美味しかった。チキンはボリューミーすぎて食べきれないかも……。ユニオンフェア、シティベーカリーの近く。

FIKA

16thと6th aveにあるスウェディッシュなカフェ。(店舗はNYにたくさんあるけどここが一番綺麗だと思う)滞在先から遠いにもかかわらず毎日通ってしまった。天井が高く、通りに面しているため、開放感があり店内にいながら街の動きを感じられる。窓から差し込む光が心地いい。
チョコレートやコーンスープなどフードも充実。ここのチョコレートはグルテンフリー。店内は静かで、明るくて、フェルメールの絵みたいな光の入り方がしていて清廉としている。
NYでは抹茶が数年前からブームらしく、各所で抹茶味のスイーツやラテを見かけた。FIKAの抹茶ラテは甘みが全くなく、抹茶のワイルドな苦味がそのまんま残っている。砂糖を入れないとちょっときついかも。
店内はおしゃれ、かつ気取らず居心地がいい。PCで作業をしている人が多く、とても静か。

Ben&Jacks

ピータールーガーの予約が取れなかったので、ピーターから暖簾分けしたというこちらの店へ。マディソンスクエアの近く。ポーターハウスさすがの大きさ。オニオンスープもほうれん草のクリームもめっちゃ美味しい。正直、ステーキの美味しさを食べ比べできるほど舌が肥えてないので他の店との比較はできない。

グレゴリーコーヒー

NY発祥のコーヒーショップ。スタバを内装暗めにした感じ。ドーナツやチョコレートなどのサイドメニューが充実。ラテは他の店よりずっと美味しいと感じた。ここの何がいいって、電源がいっぱいあってWifiが速くて好きなだけ使えるってことですよ!!仕事をしている人がほとんどだった。他の店舗はわからないけど5avの店はテーブルの高さがMacの作業にちょうどいい。

 

【以下、定番】

ラス&ドーターズ

サーモンのベーグルといえばここ。ユダヤ系デリカッセンなのでチョコレートやその他のスイーツ、キャビアなども売っている。サーモンの種類も数種類あり、スモークしたものからベイクしたもの(おすすめ!)まで色色。何枚も何枚も挟んでくれるため、1つでお腹いっぱいに。クリームチーズも種類が豊富。私の一番のお気に入りはベイクドサーモンにトマトケッパーアド。ロウアーイーストサイドにカフェとデリカッセンの両方がある。

 

 

サラベス


ド定番、かつ店員さんのサービスが終わってる、けどやっぱり美味しい。日本にもあるけどね。パンケーキはこれ食べるだけで1日が幸せになる味。

City Bakery


ど定番だけどやっぱり美味しい!ホットチョコレートはマシュマロ入りで飲みたかったけど9月までマシュマロはやっていないらしい。残念。でもチョコレートだけで十分に美味しい。プレッツェルクロワッサンもムギュッとどっしり。パンが大きいので複数人で行って食べ比べするのが良いかも。ユニオンスクエアの近くで朝から人がいっぱい。

 

Veniero


いろんな店でチーズケーキを食べまくったけど、やっぱりここのが一番美味しかった。グルテンフリーのNYチーズケーキも、普通のチーズケーキとほぼ同じ味!グラマシー。夜1時までやってる。夜中に食べる背徳感がたまらない。

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人生のすべての時間は萌え出る芽

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 朝、彼に「成人おめでとう」とメール。生きているとまさか自分の身にこんなことが、と思うよなことが度々起こるけれど、今日のこれなんかまさにそんなかんじ。

 成人かあ、この人は萌えたての木々のような、一瞬一瞬をいま、生きているのかと思うと、なんだか眩しくもあるし、同時に羨ましくもある。
 私は相手の1.5倍の人生を生きていて、しかしその0.5の差は世間から思われるような0.5では決してない。彼女のほうが年上、というと、落ち着きがあり、社会的に責任のある成熟した女性、を思い浮かべられがちだが、私はそのどれでもまったくなく、なんでこの人は私と一緒にいるのだろう、互いの足のあいだについているものだけで付き合っているのじゃあるまいか、と時々思う。

 はたちのころの私は、あまねく大人はスーツを着て会社に行っていると思っていた。今、1日じゅう家から半径50m以内のところにいて、平日にも平気で旅に出かけ、雨が降る日は遅くまで寝ている、私のことを彼はどう思っているのだろう。作家というのはアウトプットがない限りは仕事の形が目で見えないのであって、それを今、一時的にせよ減らしている私は、果たして「仕事している」と認識されているのか、どうか。
 分かっている。これは単に、去年、頑張ってきた成果を本という形で出せなかったことによる、社会に対する焦りや罪悪感を彼に投影しているだけにすぎないのだ。「人からどう感じられるか」を気にするのは、全部自分の問題。

 

 昨日おとといと、小学生向けにダンスと文章の教室をやった。大人に向けた個人の文章講座はやったことがあったが、集団での、しかも子供に向けた文章教室は初めて。ずっとやりたかったことなのでとても嬉しい。

 エイスクールの教室に来る子は、親が教育熱心だったりして、子供達も聡い、というか、「おとなこども」の殻を被っている、というかんじ。それをぶっこわしてもらうために、ダンサーの青剣くんを呼んで、体を使うアイスブレイクを1時間かけてやってもらう。思った通り、というか予想以上に子供達はダンスに熱狂。場の空気があったかぁぁいバラ色に。

 彼のワークショップは、大人は一瞬で子供に、子供はそれ以上に子供にもどす力があって、たとえば最初、明らかに緊張している風だった女の子がいた。「自分でないものの殻」みたいなものをかぶせられている子の体はなんだか固い。私もそういう子供だったので、硬さが空間を通じて伝わってくる。たたずまいがまず、大人びていて、でも、不安そうな顔をしている。

 でも、ダンスをして体を動かすうち、だんだん緊張がほぐれて、他人との距離が縮まって、体の底から湧いてくる熱が手足から溢れ出てきて、最終的に「動物になるワーク」で「犬になって」と言ったら、もう身体中が犬そのものというか、会場でいっとう犬になりきっていて、あ、この子は殻をやぶ(った、らされた、られた、ってしまった)な、って思った。
 そんな風に、子供たちに、ふにゃふにゃで生まれたままの自分、に出会ってほしかったのだ。大人の殻を被らず、むき出しの自分自身で作文を書いてみて欲しかった。それが作文とダンスを組み合わせた狙いだったのだが、参加していたお父さんお母さんにもそれは効果があったみたいだ。大人も子供も、全員がひゅっとイッペンにふらっとになった感じがした。

 とはいえ作文のパートでは、低学年の子全員が同じようにやるのは難しく、最初は思う通りにいかないこともあった。けど、子供は一瞬で吸収して一瞬で化ける。初めは物怖じしてなかなか書けなかった子が、周りから質問やヒントをもらったとたんにぱーん!とスイッチが入り、ものすごいいきおいで膨大な量の「物語」を一気に書き上げたりした。
 そういう子ども1人1人の変化を、全力で見つけて肯定し、それぞれの魅力や個性を本人や親たちに知ってもらおうと思ってやっていたが、上手くいっただろうか。

 子供と一緒に遊ぶうちに、私も頭のネジがぽんと飛んで行ったみたい。

 何を今まで我慢していたのだろう。
 書くことについて、出版社の都合、編集者さんのコントロール、ジャンルだとか、売り方だとか、いろいろな制約を設けられている気がして去年一年間、とてもしんどかった。けど、そんなものに従っていたらもったいない。ただ無心に、好きなことについて書く、あの気持ちに蓋をして、ルールにがんじがらめになって、いつのまにか、目的と手段が入れ替わっていて。

 そんなことをしたら、「私」がもったいないじゃないか。

 子供たちを見て、ああ、私も彼らの延長線上にいるのだなあ、とふと思う。私も「彼ら」だったことがあるし、いまも「彼ら」なのだ。20歳の時間を生きている彼の、8歳の彼らの、延長線上を、いま、30歳の私は生きているのだ。別の存在じゃない。過去に芽吹いた時間は繰り返し再生する。時間軸を行きつ戻りつし、私の時間もまた、一瞬一瞬が萌えたての木々なのだ。

 

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相談はぐちゃぐちゃのままでした方がよい

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12月14日

知り合いの編集者さんに小説を読んでもらって、アドバイスをもらう。

これまで1年半進まなかったのは題材や筆力の問題ではなく、構造の問題であることが明らかになる。目の前の霧が晴れたよう。もっと早く相談すれば良かった。

知り合いに言われたのは、「相談はね、相談内容がまとまってからするんじゃないんだよ。自分でまとめられるくらいなら相談する前に答えが出せるでしょ。ぐっちゃぐちゃの自分でもわけわかんない状態で、『それでも聞いてくれますか?!』って言って聞いてもらうんだよ」。

私はこれまでとにかく相談が下手で「とにかく何でも自分で解決できる人=エライ」と思ってた。相談=相手の時間を取ること、だと思っていた。

でも周りからしたら、相談しないばっかりに成果が出るのがずるずる遅れるよりは、相談内容はわっけわかんないし、しょっちゅうヘルプも出すけど、早く問題を解決して、それでも成果を出す人の方がいいに決まってるよね。

12月15日

昨日と今日続けて、著者の知人2人と会う。二人とも今年本を2冊出し、活躍している女性たち。

二人とも今年書きたいことは書き切って、次に何を書くか考えている、踊り場にいる状態。

こうして会って話すと、画面の向こうで輝かしい活躍を見ている人でも、それぞれいろいろな種類の悩みを抱えて、もがいて、あがいて、最終的な「本」という形にたどり着いているのだな、と思う。

自分だけではない、と安心する気持ち。

今やっている小説について、第二稿に入って急に進まなくなり、本当はこんなこと、書きたいわけじゃないのになあ、という思いと、書けてないなあと思う部分と、ここは絶対に書きたい、という部分がまぜこぜになってマーブル模様状態。自分でも選り分けられない。

今回の小説は、最初、編集者に何書く?と聞かれた時、

「ファンタジーを書きたい」と言ったら商業的に売りにくいからダメ、と言われ、最初から書きたいものに蓋をして始めた状態。

現代モノは現代にリンクしているわけで、その分現実とのフックがたくさんあり、わくわく、楽しく書いている一方で、次こそは書きたいことを好きなだけ好きなように書いてやる、という気持ちが、原稿に向かっている間も、パソコンを叩く指の隙間からも、ペン先からも漏れ出てきて、あふれてしまうのは止められない。

この気持ちを大事にしようと思う。

待ってろよ。

やっぱり私はファンタジーが書きたいのだ。

12月16日

月1で通っている、山梨の山奥にある陶芸工房「増穂登り窯」から、前回作った作品が焼きあがったとメールが入る。

増穂の窯は電気の窯ではなく、未だに薪と火を使って陶器を焼いていて、そのため1週間ものあいだじゅう人がつきっきりで窯の番をし、火を絶やさぬよう見張り続けなければならない。

窯の温度はゆっくりゆっくり、100、200、300℃……と上げてゆき、最終的には1400にまで到達するのだが、それがなかなか大変で、火は電気と違って人間の思うようにはいかないから、気を抜くとすぐに燃えが悪くなって温度が下がってしまうし、一生懸命薪を放り込んでいるのになぜか温度が下がってしまうことがある。

私はこの窯の温度を上げる作業がなかなか下手で、工房でアシスタントをしている宇田川さんに

「窯の火の温度を上げるコツはなんですか?」と聞いたら

「上げよう、上げようと思わないで、『下がらなければオッケー』くらいに思いながらやること。そうすれば自然と上がるから」

って。

下がらなければオッケー、かあ。

昨年は絵本も含めると3冊も出し、今年は一冊も出ていないので、「こんな自分はダメなんじゃないか」とか「私、本当に大丈夫かなあ」とか、焦りと不安の中でひたすら暗中模索の1年だったのだが、前作よりもクオリティが落ちてさえなければいい、と考えれば気が楽だ。

急に上げようとするから、上がらないのだ。3年くらいでまあ、1冊出るくらいで、自分にはちょうどよいのかも。

7日間かけて焼成する増穂の登り窯の火のように、自分をゆっくり上げていこう。

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子供向け文章講座を開催します。【小学生対象】ダンスで作文!?!子どもの表現力を伸ばす作文講座(冬期講習)

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子供の好奇心と思考力を育てる探求型学習塾a.schoolさんで、小学生向けの2日連続の作文講座をやることになりました。

1日目はダンス(体を思いっきり動かす)で感情を解放。頭やことばで考えてもなかなか出てくることのない、自分でも気づいていなかった微細な感情が、みんなで体を動かすことで現れます。
2日目には従来の「作文」のイメージから離れた方法で子供たちの中にある”誰かに伝えたい”気持ちのコアを引き出し、言葉や絵や声、様々な方法で遊びながら表現します。
教室で原稿用紙に向かい合っているだけではなかなか育ちにくい「表現したい気持ち」を引き出し、自由に書いたり伝えたりする楽しさを知ってもらおう!と、これまで子供たちを相手に数々のワークショップを手がけてきた、ダンサーの友人と企画しました。小学生のお子様がいらっしゃる方はぜひご覧いただけますと幸いです。

(お申し込みはこちらのページから) 

【小学生対象】ダンスで作文!?!子どもの表現力を伸ばす作文講座(冬期講習)

 

表現は十人十色!からだで表現して、ことばで伝えよう。

文章を書く時に大事なことは、「自分の気持ちを知ること」と「伝える相手を意識すること」。

今回の作文講座では、「自分の気持ちを知る」方法としてなんと「ダンス」を使います。
「ダンス」といっても、特定のダンステクニックが必要な、難しいものではありません。ここでいうダンスとは、自分の身体を思いっきり動かして遊ぶことです。

そして、自分の嬉しい気持ちってどんなものだろう?悲しい気持ちってどんなものだろう?ということを、体で表現しながら、自分の気持ちを探究します。

頭やことばで考えてもなかなか出てくることのない、自分でも気づいていなかった微細な感情が、体で表現するからこそ現れます。1日目は、ダンサー青剣さんをゲストに、楽しく心と体をほぐし、気持ちを爆発させましょう。

からだを使って自分の気持ちを見つけた後は、ことばのプロ、文筆家の小野美由紀さんをゲストに相手に伝える方法を考えます。
作文でおなじみの原稿用紙は今回は使いません。模造紙いっぱいに、自分の伝えたいことをことばで表現しましょう!

普段は作文が苦手な子も、表現するのが大好きな子も、からだとことばで楽しく自分を表現し新しい自分を見つけましょう。

 

内容は多少変更の可能性があります。
原則二日間連続での受講をお願いしておりますが、ご都合が合わない場合は初日のみのご参加も可能です。お申込の際、備考欄にその旨お伝えください。

  日時 内容
一日目

2017/1/7(土)

低学年(小1-3):
10:00〜12:00

高学年(小4-6):

14:00〜16:00

からだで表現しよう

からだをほぐして、ダンスをして、自由に全身で表現します。表現を深めるためのインタビューでは、どんな天気?どんな色?などイメージで表現を膨らませます。

二日目

2017/1/8(日)

低学年(小1-3):
10:00〜12:00

高学年(小4-6):

14:00〜16:00

 

ことばで伝えよう
初日にからだで表現したことを、ことばで伝えます。この時大事なことは伝える相手を決めること。相手を想像しながら、模造紙いっぱいに自分の感情を伝える文章を書きます。最後は展示発表会。さあ、相手にちゃんと伝わるかな。

 

会場:
a.school 本郷校
住所:
〒 113-0033 東京都文京区本郷4丁目1-7 近江屋第二ビル 601
(都営大江戸線 本郷三丁目駅4番出口から徒歩1分)
(東京メトロ丸ノ内線 本郷三丁目駅本郷通方面出口から徒歩3分)
コース名

【小学生対象】 ダンスで作文?!子どもの表現力を伸ばす作文講座:からだで表現して、ことばで相手に伝えよう(冬期講習)

日程

2017年1月7日(土)8日(日)

(午前)10:00〜12:00
(午後)14:00~16:00

場所 a.school 本郷校
対象 (午前)小学1〜3年生
(午後)小学4〜6年生
定員 12名
申込締切日

2016年12月31日 (土) 18:00

授業料

10,000円(税込)
(二日間/塾生8,000円)

 

※お支払方法:
前払(銀行振込/クレジットカード)。詳細はお申込受付後にご案内します

※キャンセルポリシーについて:
キャンセルのご連絡をいただいたタイミングによって、以下キャンセル料のお支払をお願いしております

・一週間前まで:無料

・一週間前〜前日:授業料の20%

・当日:授業料の50%

講師・ゲスト

a.school講師  岡村麻美

文筆家 小野美由紀

ダンサー 青剣

主催 株式会社a.school

上記プログラムのお申し込みはこちらから

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いまのいままで忘れていた

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いまのいままで忘れていた
わたしのあたまの中が
でっかい演芸場であることを
 
わたしがのぞめば
馬はオレンジの炎を吐き
うさぎは尾を振り正確に時を刻んでほっぷする
正しい位置に配列した7匹のきじが
みかづきいろの声でぽぉんと鳴いて
その時あらゆる貝殻は
その二枚の手のひらで
涙の粒を受けとめる
夜の帳が
2枚の扉に幕を下ろし
 
7つの紅い火が灯り
記憶は未来と出会い
新しい天体が生まれる
 
はじまり はじまり
 
なぜ、しらないの
 
わたしの頭の中は
一角獣の沈む海
金の鯨のかける空
水と風のあいだのぶっしつ
 
なぜ、しらないの
 
あなたの頭の中には
海に通じる階段があることを
白い砂まじりの風が
びいだまいろのしぶきを巻き上げやってくる
草原へと開く扉があることを
 
そこでは世界は逆さまに見えるでしょう
 
そこでは透明な太陽が
見たことのない光の曲がり角を作るでしょう
星の軌道は涙より早く
悲しみの記憶をかけ抜け
新しい地平にたどり着くでしょう
 
どこかで絶えず巻き上がる憎しみの竜巻も
あなたの天蓋(うち)には届かない
 
わたしの頭の中は
海と空とが交わるところ
ダイヤモンドの砂嵐
夜と朝とが出会う浜
 
なぜ、しらないの
 
 
 
 
 
 
 
 
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無題

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11月9日

 前からお話ししたかった著者さんにお声がけして、羊肉を食べに行くことに。せっかくなので6人にしようということで、その方以外にも普段からずっと話してみたかった方々にお誘いメールを送る。

 以前の私は人を誘うことができなかった。私に誘われても嬉しくないだろうとか、せっかく誘ってもつまんないと思われたらどうしようだとか誘う前から頭がいっぱいになって、結局誘えないことが多かった。実際、断られたら大ショックすぎて頭が追いつかず1日ふさぎ込んだりしていた。

 今は違う。断る権利が相手にはあるのだし、と思うようになった。自分の行動を決める際に、相手の選択というものがあることを算段することができるようになった。

 そうだよね、皆自分と同じように色々選択して生きているのだから、断られたり、もし誘った結果、仮につまんないと思われても、こっちが責任を取ることじゃないんだよね、そんな些細なことに、これまで気づかなくて、いろいろと損をしてたなぁ、と思う。

 

 昨日からアメリカの大統領選のことで、同じシェアハウスの人たちも、 SNSのタイムラインも、世界中の人々も湧き上がっている。同じ話題で盛り上がるのは、なんとなく数多くの人々と自分が繋がっている感じがしてちょっとウキウキする。喜んでいる場合じゃないかもしれないが。

 トランプが選ばれて、ショック、信じられない、という気持ちも大きい一方で、このことでショックを受けていてもしょーがないじゃない、という冷静な気持ちも片方にある。

 アメリカは日本に巨大な影響を及ぼす国であることは間違いないけれど、でも、日本はアメリカじゃない。隣の国のトップが変わっただけだ、という見方もできる。

 これを機に日本はアメリカから自立して、「あんなヤバい大統領の国に依存してたら本当にヤバいことになるから自分たちでどうにかしていこう」という考え方が広まればいいと思う、そう言ったら楽観的過ぎるだろうか?

 トランプは明らかにまずそうではあるけれど、でも

「まだ何も始まっていない。ただ代表が選ばれただけだ」

 そう思えば、次の4年を生きる気力が湧いてくる、ような気もする。

 世界は変わるし私も変わるのだ。変わらないものなんてない。変わらなさを愛でるよりも、ごくごく小さな変わることを、ジャッジも拒否もせずに、ただ体の中にたんたんと積み上げて日々を生きてゆきたい。それがいつかの未来において、かならず何かの材料になるから。

 

 夜、丸ノ内線に乗る。隣の隣の席に、顔ほどもある巨大な白飯のおにぎりを一心不乱にパクつきながら本を読む学ランの男子高校生。隣のOLさんは顔をしかめている。何を読んでいるのかと覗き込めば「嫌われる勇気」……大丈夫、君はすでにそれを持ってるよ。

 しかし白米のおにぎりは匂いがしないせいか、なぜか不快にはなりませんね。

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「競争社会」の外側を生きる

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 シェアハウスの同居人である20歳現役東大生男子がリビングのソファにうつ伏せに転がって死にかけているので何があったのかと聞くと「競争社会に疲れた」という。
一番競争に強そうな東大生でもそんな風に感じるのだなと思うと同時に、自分が「競争社会に疲れている」ことを自覚していて、かつ口に出して言える分、彼は20歳の頃の私よりもずっと大人だな、と思う。
 
 20歳の時、私は自分が競争社会にいるなんてこと、全く気付いていなかった。それは生まれてからそれまで「競争」が当たり前だったからで、「競争社会」ではない居場所とか、違うスキームでの生き方があるなんてことはさっぱり考えもしなかったからだ。
 親によってナチュラル・ボーン・競争者に仕立て上げられた子供は自分が何に追い立てられているのか、何によって消耗しているのか、うまく気づけない。不安とか焦りとか恐怖が常に物心ついた時から周囲を取りまいていて、その外側にある世界を覆い隠してしまうから。
 それにもし、気づいていたとしたって、私はそんなこと、口に出して他人には言えなかったと思う。
「疲れた」なんていうことは、すなわち負けることだと思っていたし、自分はそんなものに疲れるほどヤワな人間じゃないと、20歳の頃の、硬くて強がりで、一度来た道をまっすぐ進むことしか知らない私は思いたかった。
 そんな恥ずかしいことは口に出してはいけない、って、言語化すらできないほど前の段階、無意識のレベルで思い込んでいた。
 
 
 時々、「どんな大学生でしたか」と聞かれる。
そんな時いつも思い出すのは、大学3年生の頃に受けていたフランス文学専攻のゼミのことだ。
 
 ダメ学生の吹き溜まりみたいだった私のゼミは学科1の不人気ゼミで、生徒は5人しかおらず、5人とも卒業時に就職以外の道(留年、失踪、中退、内定無し卒業、海外院試準備という名のニート)を選ぶというとんでもないゼミだった。毎回毎回、皆が来るか来ないかは授業が始まってみないとわからず、大体いつも1人とか2人とか3人で行うのが常だった。
 
 それで何を勉強するのかといえば、出席者が1人とか2人の時には
「沈黙は言語か」とか「無は存在するのか」とか、そういう答えのまるでないことを先生と3人もしくはタイマンで延々1時間半議論する、みたいなことを1年じゅうずっとやっていた。
 
 ゼミの教室は質素で、キャンパスの端っこにあり、蛍光灯は暗く、雨の日などは特に窓の外に茂る青葉の影が黒いレースのカーテンみたいに教室の中にまで押し寄せ、雨音が他の教室から聞こえてくる声をまるきり遮断してしまって、まるでミサか何かのように空気は暗く重く沈鬱だった。時間はぐんにゃりと歪んで、頭が朦朧として、ダリの「溶ける時計」がそこらじゅうを舞って見えた。ボードレールとランボーとバタイユが黒板の上からお通夜のような顔で我々を見下ろしていた。先生は毎回特に結論を出さず、時間が来ると「では、これで終わりにします」と言って名簿を畳んだ。若くて寡黙な先生だった。
 
 同じ学科には学生が電通とかANAとか華々しい企業にバンバン内定をもらっているゼミもあって、でもうちのゼミ生はそれをうらやましがるどころか「自分たちはそれをうらやましがっていいスキーム内には最初から位置すらしてない」ということを皆よくよくわかっていたので、そんな気配は微塵もなく、卒業が間近になっても当たり前のように「カミュに出てくる岩の陰は何の比喩か」みたいな、一体これが何の役に立つのかもわからないような事を、毎回、毎回、人のいない教室で延々としゃべっていた。
 
 凄まじく居心地が良かった。
 
 私がそこで知ったのは、
「ああ私はこういう、社会的に無価値かもしれないけど、正解のないことを延々と考え続けるのが好きなんだな、正解のないことであれば、いくらでも考え続けることができるのだな」ということだった。
 
 正解のない問い、数値に現れるものよりも、結果のないことを、延々と、延々と、延々とやるのが、たまらなく心地いい。
 それは他の学生も同じだったと思う。
 
 他に、留学とか世界一周とかインターンとか、学生らしいこともいろいろやったけど、それらすべてなぜかさっぱり記憶がなく、いつも学生時代のことを振り返った時に思い浮かぶのは、あの狭く薄暗い教室で、普段は無口な男の子と、先生と3人で延々としゃべっていた「沈黙は言語か」の背後に降る雨の音と、窓の外の青葉闇だ。
 
 
 それでも親の「三井物産か電通に入れ」という謎のプレッシャー(⇦本当に謎だ……)によって、いやいや、就活していた。入りたくもない会社のエントリーシートを頭痛を我慢して書きながら、しかし自分では「なぜ私は好きでもないのにこんなことをやっているのだろう」と、まったく思わなかった。自分は何が嫌で何が嫌じゃないのか、何に惹かれ何に惹かれないのか、全くわかっていなかったし、考えようともしなかった。
 
 だって、競争ってそういうものだと思ってたから。心を無にしてやるものだと思っていたから。
 
 自著「傷口から人生」には就活をパニック障害を起こしてやめたと書いたが、本当は、就活を止めるために体がパニック障害を起こして「くれた」のだと思う。それぐらい私は就活が嫌だった。
 
 でも、なんで止められなかったかというと、その時の私は「正解があるものの方が、社会の中では絶対的に正解だ」と思い込んでいたからだ。
「用意された正解を、どれだけ正確に早く出すか」ってルールから、抜け出す力がなかった。若くて、頑なで、馬鹿で、自分をひ弱だと思い込むのをやめられなかったから。
 
 リクルートスーツを着るのも死ぬほど嫌だったが、その頃は世の中のすべての人はスーツを着て仕事をしていると思い込んでいた。いや、私は全盲ではないので、街を歩いていたら、スーツを着ずに仕事をしている人などゴマンといることに嫌でも気づくはずだ。ただ、愚かで、狭い「競争」の世界にいる私は、それを見ないようにしていただけなのだ。「正解を探す」とか「競争で勝つ」以外の仕事が、生き方が、この世界には本当は溢れているということに、私が気付いていなかった。
 
 その時の私は「いやだ、いやだ、いやだ、いやだ」と思いながら、一体自分が何をいやだと思っているのか、全く分かっていなかったのだ。あれだけ早く、正確に、答えを出す訓練を5歳の小学校受験の時からやってきたにもかかわらず。
 
 
 それから6年経って、今、私は運良く「正解のないことを延々と考え続ける」仕事で食べている。
 何でこうなったのか自分でもよくわからない。物書きになりたいとは本当は1度も思ったことがない。でもなぜかたどり着いてしまった。細い道を、それ以外の選択肢を押しのけてやっとできた隙間みたいな細い道をたどってきたら、いつのまにかこの世界にたどり着いていた。たどり着くまでに6年もかかった。本当はあのゼミの授業を受けていた時から、頭よりも賢い私の体は「お前はこっちだろう」って、本能的に気付いていたのに。
 
 今の自分は、正解のない世界を生きている、と思う。
 こう書くと「負け犬の状態を受け入れた」というふうに受け取る人もいるかもしれないが、うーん、そういう感じとはちょっと違うんだよな。正確には「自分だけの」正解を探し、「自分の中でだけ」競争をしている。自分の外側の他人が勝手に作った競争社会を降りて、自分の中でだけの答え探しに、ある時から徐々にスイッチが切り替わり始めた。その答えはいつ出るのかわからないし、出たところでそれが社会にとってどんな意味があるのかわからない。それはとても怖いことだ。競争社会にいる時は、競争がない世界ってなんて平和なんだろうと思っていたが、そこから降りてみたら、正解のない世界の方が、何の支えも保障もないぶん、残酷で暴虐で理不尽で、よっぽどヘビーだということがわかった。勝者も敗者もグラデーション的に入れ替わるぶん、意識をしっかり持っていないと、自分のアイデンティティが保てない。
 
 でも、こっち側の世界に来て良かった、と思う。
 こちら側の世界の様相は毎時毎分毎秒変わり、人生の「答え」も朝起きるたびに毎回変わっている。とってもチャーミングでキュートな世界だ。多分、生きているうちに、何の形にもならないものもいっぱい出てくるだろう、でも、それでも、続けていって、私の手からでも、もしくはこの世界にいて、一緒に連なっている他の誰かの手からでも、100年に1度のマスターピースが作り出されるのであれば、たとえカオティックで頭ぐちゃぐちゃになってしんどくてわけわかんなくても、まあ、悪くないっていう感じである。
 
 「正解を求めない」「他人と競争しない」世界が、競争社会の外側に実は存在していて、そこで生きることはどんな人でも案外可能なのだ、ということに、私は30を過ぎてやっと気づいた。それは別に難しいことではない。ただ、目を開いて、その世界を見さえすれば良いだけだ。競争の内側にいても、競争の外側を見さえすれば良いだけだ。
 1たす1が2ではなく、1たす1が2にも3にも4にもなる世界が、本当は私たちの周りには広がっている、そのことに自分で気付きさえすれば良いだけだ。
眩しい光を恐れずに、自分で自分の目を覆っている手のひらを、そっと剥がしさえすれば。
 
 なんてことを、電通の女の子の自殺のニュースを見て思った。
 彼女があの世で、「こっち側」の世界を生きていればいいと思う。
 
 
 
 
 
 
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ジョージア・オキーフについて書きたい

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韓国のとある出版社から

「文豪・もしくは画家・思想家について旅をして彼らの生涯についてエッセイの本を書きませんか」

というお仕事のオファーを頂いた。

最初はスコット・フィッツジェラルドにしようと思ったが、画家でもいいということなら、私が超超超大好きなジョージア・オキーフ(Georgia O’Keeffe 、1887年11月15日 – 1986年3月6日)が良い!オキーフはお花と骨と風景画だけをほぼ100歳になるまで描き続けた、アメリカの20世紀を代表する女性画家。彼女のニューメキシコの荒野の家は、彼女のワールドが詰まっていて、プレミアムとか、kinfolkがやってるよな「丁寧な暮らし」をもう30年も前から先取りしている写真だけでも目ん玉が飛び出るよーな素敵なおうちで、ニューヨークでの華々しい成功者としての生活に疲れたオキーフが「ここはわたしの居場所。心が静かです。わたしの皮膚がここの土地に近いと感じている」と言って晩年をそこで過ごして死ぬまで絵を描き続けた場所なんですよ!

で「もうここに行けるなら取材費は自腹でもいい!私ぐらいオキーフについて情熱持って書ける人はいない!」と思ってオキーフを提案したのだが、結果はNo, アートの専門家じゃないし、文筆家は作家について書いたほうがいいという先方の判断。ま、それ自体は仕方がないと思うしフィッツジェラルドも好きだから良いのだけど・・・うーん!

でも諦めきれない!

どちらか私にオキーフについて書かせてくれる媒体&出版社はありませんか・・・?

多分だれより熱心にサンタフェに通うしなんなら取材費自腹でも良いよ〜!オキーフについて書きたい!!!!彼女のワールドについて書きたい!!書かせてくれぇぇ〜〜!!!

ま、今の長編小説が終わってからの話ですが・・・!

という日記でござんした。

ま、「依頼」と「本人のやりたいこと」が合致しないことも、時にはあるわな。

 

(掲載した写真の著作権はもちろんジョージア・オキーフのものです)

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どこにも行けなかったころ#1 上野のハプバーにて

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20代前半のころ、上野のハプニングバーに行ったことがある。

友達に漫画家のI先生と飲んでるから来ない?と呼び出されて、行ったら上野の有名なハプバーだった。

感受性がまだ、火傷によってズル剥けた皮膚のようにヒリヒリとして、敏感な頃だったので、私は怖いという気持ちと、私、どうにかなっちゃうのかなというドキドキした気持ちで薄暗い廊下の隅の扉を叩いた。

入り口で、身分証を見せ、女性は無料ですと言われて入った。

どんなミステリアスな場所だろうと思っていたのだが、入ってみたらガッカリした。だだっ広い場所に、数席のテーブルとソファー席があって、店内は相手の顔が見えないほど暗かった。照明を落とした、ただのカフェとかバーのような感じだった。一つだけ違うのは、そこにいる人々が、服を着ていたり、裸だったり、半分裸だったりすることだ。

しかし、裸の人間が積極的に絡み合っているかというとそういうわけではなかった。そこにいる皆が皆、壁際に佇みながら「そこで何が起きるのか」をずっと観察している。観察すらしていない人間もいた。彼らはただ裸ん坊になりながら困っていた。衣服という壁だけは取り払ったものの、そこから先どうしていいのかわからないと言った顔で佇んでいた。裸なのが、却って彼らの心理的な距離を際立たせる気がした。目の前にある、透明な分厚いこのプラスチックの壁を、壊してよ、誰か、僕に興味を持ってくれた人間が、そう彼らは言っているようだった。

そのうち友達同士が、フロアの隅にある、セックスをする用の小部屋に行ってセックスし始めたので、私たち一緒に来ていたグループの人々は、それを狭い小部屋で車座になって眺めた。

小部屋はひどく湿っぽくて、体液の臭いがした。目の前で起きていることを、全くエロいと思わなかった。ただグロいと思った。

触ってごらんと言われて触ってみたが、女の子の局部は黒く茂っていて、全く何がどうなっているのかわからなかった。童貞は大変だなと思った。自分の持ち物でさえこうなのだから。

そのあとで、その女の子が、「小野さんは見当違いのところを触っていて全く気持ちよくなかった」と言っていて、すみません、と思った。

そのうちそれを見て興奮した同じグループの男性が手を引っ張ってきたので、私たちは隣の部屋に入った。興奮していなかったかといえば嘘になる。けれどそれは性的な興奮ではなくて、異常な空間で何が起こるのかを期待する怯えと、自分を高みにおいてそこから他人の泥にまみれた行為を見下ろす、何も差し出すことのない、吝な傍観だった。

男は隣の部屋で私を押し倒し上にのしかかってきた。私はされるがままになっていたが、二人きりになった途端に心は冷凍庫に放り込まれたみたいにかちかちに凍り始めていた。

異常な状態なのに、興奮しない、私は一生、何にも興奮ができないのではないかと思った。

男は別に服を脱がすわけでもキスをするわけでも胸を触るわけでも局部に触れるわけでもなく、転がっている私を抱きしめながらポエムのようなものをずっとつぶやき続けていた。手がねっとりと汗ばんで気持ちが悪かった。この男もまた勇気がないのだなと思い、足で蹴飛ばして、部屋を出て、元いた席に戻った。男はなんだかほっとしたような嬉しそうな顔をしていて、私はその男を馬鹿じゃないかと思った。そして、自分のことも大馬鹿だと思った。

私は別に、知らない男とセックスしたいわけじゃないのだなと思った。

性的な場所にいるからといって、性的な存在になるわけではない。

また、セックスしたからといって、寂しくなくなるわけではない。

寂しさは会話によってしか埋まらないのではないかと思う。

会話ですら埋まらない最後の一筋の穴を埋めたような気持ちになるために、人はセックスを使うのではないかと思う。

そこにいる人たちは、決して部屋の中心には立たず、誰かが自分の隙間を埋めてくれるのをひたすら待っているように思えた。

彼らのことを寂しく感じ、同時に自分も、寂しいから、来たいのかどうかわからない場所に誘われれば来てしまうのだなと思った。

Iさんは、セックスするわけでも、女の子を口説くわけでもなく、ただ酒を大量に飲んでニコニコ笑っていた。Iさんはいい人だった。

4時間ほど居て外に出た。

外に出ると、明け方4時の上野の街は店に入った時と変わらずギラギラと青白い光を放ち、そこを通る人間の目を全力で刺し続けていた。

私は、何かを隠すために光り続けているものもあるのだなと思った。

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11月3日(祝)12時〜旅行家の吉田友和さんと、ランチつきトークライブ「一周したけどスペインが好き! スペイン巡礼×世界一周トラベラーのトーク&ランチイベント」

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《お知らせ》

11月3日12時より、麹町のメゾン・セルバンテスにて、旅行家の吉田友和さんと、ランチつきのトークライブを行います!
題して、「一周したけどスペインが好き!
スペイン巡礼×世界一周トラベラーのトーク&ランチイベント」
吉田さんといえば、私が学生時代に世界一周した時、彼の著書「してみたい!世界一周」を参考にさせてもらったぐらい憧れの著述家さん。
そんな方とお話できるなんて夢みたいです。
メゾンセルバンテスのランチは美味しいしボリュームもあり、めちゃくちゃお得!
ぜひみなさま、ふるってお越しください!

♪♪♪
「一周したけどスペインが好き!
スペイン巡礼×世界一周トラベラーのトーク&ランチイベント」

「10日もあれば世界一周」など数多くの著作を持ち、いかに短期間で遠くの国でも旅ができるかを極め続ける、世界一周旅行家の吉田友和さんと、7月に「人生に疲れたらスペイン巡礼 食べ飲み歩く800kmの旅」を発売し、スペイン巡礼路の魅力を発信する、エッセイストの小野美由紀さん。

二人とも世界一周の経験者でありながら、「いろんな国を見たけれど、やっぱりスペインが好き!」と言い切る二人。

そんな2人が感じる、アンダルシア、マヨルカ島などのスペイン各地、また、南米や中米などスペイン語文化圏の魅力、さらには、新たな旅行スタイルとして世界中でブームの「カミーノ・デ・サンティアゴ」=スペイン巡礼の旅の味わい方について、余すところなくお伝えします。

ランチコースはスペイン巡礼の道にちなんだスペシャルメニューとワインです。※コーヒー付き

終了後にはお二人のサイン会もございます。

見て聞いて味わう、楽しみのたっぷり詰まった充実の2時間です!

「スペイン巡礼の道」ランチを召し上がりながら、お二人のトークをお楽しみください。

第一部
・小野美由紀さんトーク
「スペイン巡礼は、美味しい!カミーノ・デ・サンティアゴの歩き方」

・荷物は体重の10分の1
・ワインがタダで飲み放題?
・いらないものを捨てる旅
・巡礼路は恋の道。街コンならぬ”道コン”?!
・安い!うまい!巡礼グルメ

・吉田友和さんトーク
「世界三周!ラテン三昧の旅」

・中南米旅行なら世界一周がお得
・ここは行きたいラテン旅先ベスト5
・週末アジア旅でもラテン気分
・闘牛と生ハムメロンから知るスペイン
・バルセロナから足を延ばそう!

第二部

小野さん×吉田さん対談
「世界一周したけど、スペインが好き!」

トーク終了後

・書籍販売会とサイン会

【開催概要】
11月3日(祝)11:30~受付 12:00~スタート 14:00終了予定

会場:市ヶ谷「メソンセルバンテス」
アクセス:
市ヶ谷駅より徒歩4分
麹町駅より徒歩4分
四ツ谷駅より徒歩7分

定員:先着46名様(お一人様の参加も歓迎いたします。)
参加費:お一人様4,000円(トークショウ、コースランチ、ウエルカムワイン、税込)

お申込みはメソンセルバンテス
03-5210-2990
メールでのお申込み
cervantes@spainclub.jp

~小野美由紀さんプロフィール~

小野美由紀(おのみゆき)
1985年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部仏文学専攻卒業。
学生時代、世界一周に旅立ち22か国を巡る。就職活動に挫折し、スペイン巡礼へ。
その後3度に渡り全800キロの道を歩く。
卒業後、無職の期間を経て2013年春から文筆業を開始。
クラウドファンディングで「原発絵本プロジェクト」を立ち上げ、絵本『ひかりのりゅう』(共著、絵本塾出版)を出版。
2015年には、初の著書である自伝エッセイ『傷口から人生。』(幻冬舎)を刊行し、話題を呼ぶ。

現在、ライター、エッセイストとして活躍中。

~吉田友和さんプロフィール~

1976年生まれ。出版社を経て2002年初海外旅行にして夫婦で世界一周を敢行。
2005年に旅行作家としてデビュー後、国内外を旅しながら執筆活動を行う。
著者に「3日もあれば海外旅行」(光文社新書)、「世界一周デート」(幻冬舎文庫)、
「自分を探さない旅」(平凡社)、妻・松岡絵里との共著に
「初めての世界一周」「世界も驚くニッポン旅行100」(ともにPHP研究所)などがある。

新進気鋭の旅行作家として注目されています。

皆様のご参加をお待ち申し上げております。

以上

最後までお付き合いいただきありがとうございます。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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蔵元直送のハイクオリティーワインを取り揃えています。
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銀座、月島、麹町、門前仲町の店舗ご案内
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「若いね」って言われたら、嬉しい?

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若いね、と褒められることに最近喜びを感じなくなって来た。

昔は「若いね」と褒められると、この人は私に「フレッシュな魅力を感じてくれているのだな」と思い、嬉しかったが、

今は、「若いね」と言われると、

「年相応の貫禄や社会的な責任のある人間」のようには見られていないのではないか、という懸念がよぎる。

お世辞で言ってくれているのかもしれないが、それはそれで「若いと言っておけば、喜びそうな女だ」と思われているようで、腹が立つ。

「若いのにすごいね」などと言われるよりも、

「年齢にふさわしい貫禄と、社会的な責任を負った大人の女だね」と言われたい。

そう思うのは、単に私がその領域に関して現在コンプレックスを感じていることの裏返しなのだが、

どちらにしても、若さを単にほめられるよりは、年齢にともなった人生の蓄積を先に褒められたい、まだこれだけしか生きていない、ではなく、すでにこれだけの人生を生きてきた人だ、ということを認めた上で話してほしい、という気持ちのほうが先行する。

それに、そう褒めた人が、若さをやたら懐かしがっているようなそぶりを見せたりすると、

若くないと人生を楽しめないと言われているようで、そっちのほうが心の裏地にちくちくとささる。

初対面とか、すくなくとも年齢を問うような浅い関係性においては、自分のことよりも、相手の人生観のほうが、大事だ。

最近、ある男の人と知り合って、恋愛風のムードが漂ったのだが、

「若いね」「ほんとに30歳?」「見えないね」と相手がひたすら連呼するので

気持ちがしゅるしゅると萎えてしまった。

男性は女性を褒める時に(また、女性が男性を褒める時にも)とりあえず容姿と年齢のギャップを褒める、という定石のようなものがあるが、

若さに価値を置いていない人間を相手に、その人の若さを褒める事は、逆に自殺行為だ、と思う。

日本にはアイドル好きに代表されるような、若さを称揚する文化があり、それに対して社会的に「大丈夫かな」とは思う(「幼さや未熟をアピールする事で、相手の手をゆるめさせ、ある種の牽制を相手に与える」という日本的な戦術は国際社会では通用しなくなりそうな気もするし、一歩間違えると危ういのでは」という懸念を感じる)が、それを無理に変えて欲しいとか怒ったりするつもりはない。「女性蔑視では」と怒るつもりもない。(だって、日本の女性だって若くて幼い男子が好きだ。高倉健ファンの若い女性より、韓国アイドルが好きなおばさまが多いのを見ても明らかだ)

ただ、私は若さで勝負をしたくない、という気持ちが今は強い。

銀座の高級クラブで働いていた時に、いろいろ教えてくれたお姉さんたちは、みなでっぷり太って貫禄があった。

なんていうか、「美人」とか「かわいい」からはほど遠いのだが、ばんと張った腹の上に、たっぷりとした乳とふくよかな頬が並び、きりっとしててきぱきと業務をこなしているのを見ると、なんていうか、どっしり地面に根を張った太い木の幹の内側から漂ってくるつややかさがあって、私はつい、お客さんよりもお姉さんたちのほうを眺めてしまっていた。

山崎ナオコーラさんの小説「かわいい生活」に

「女としての魅力ではなく、社会人としての魅力をアップしたい」というような趣旨の言葉があるが、

わたしも

「年齢を重ねた人としての魅力をアップしたい」

と切実に思っている。

そのためには、とりあえず「初めての相手にこちらから電話をかけられるようになる」とか、クリアしなきゃいけないことが、たくさんあるのだけど……。

 
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